第25話 遺言書
「おばあちゃんの家——私たちの大切な思い出は、絶対に渡さない」
空気がピキ、と凍りついた気がした。
応接室は空調のせいか、季節外れの冷たさに包まれていた。
汐見さんの宣言を受け、向かいの実紀が目を見開いた。
「なんで、わからないかな。あんな古い家、持ってても維持費がかかるだけでしょ」
ウェーブがかった髪をバサリとかきあげ、口調が本性を現したように強くなる。
隣の孝也が、肩に手を置いてなだめる。
「まあまあ、実紀。整理する時間も必要だ。当面は残してあげてもいい……ただし条件がある。『僕たちの家で暮らす』と今すぐ決めるなら——ね」
孝也の口角がゆるりと上がり、値踏みするような視線が汐見さんに注がれる。
その様子を実紀はいったん睨むが、すぐに表情を崩す。笑っているのは口元だけで、眼差しは冷たい。
「そうね、思い出も大事……でも、かかった費用はいずれ返してもらうから」
さらに実紀は、こちらを一瞥し、鼻で笑った。
「……それにしても澪、あなたの友達って、ずいぶんと個性的ね?」
「ああ、ほんとにね」
孝也が、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「最近の学校は緩いんだなぁ。僕らの時代じゃ考えられなかった」
「派手な化粧もピアスも今は注意されないのね。自由って羨ましい。……え、その目はなに? まさか家族の問題に、赤の他人が口を出すつもりじゃないでしょうね?」
隣の凪瀬から、逆立つような気配がひしひしと伝わってくる。
僕は慌てて、彼女の膝をぽんぽんと叩き、なんとかとりなした。
その気持ちは、痛いほどわかるけど。
険悪な空気が漂い始めたその時、川嶋がいつになくはっきりした声を放った。
「安心してください。自由と引き換えに、自制があります。こう見えて真面目で優しい。彼らは、お祖母様を亡くした汐見を親身に支えてきました。——私の自慢の生徒ですよ」
「……っ」
この担任教師の口から、そんな言葉が出るなんて。
この場面で驚く自分も悪いけれど、驚かせる川嶋も悪い。
そこで、川嶋は切り替えるように姿勢を正し、眼鏡の奥の目を細めた。
「ところで、汐見のお祖母様の意向はご存じですか?」
「……はぁ。実は、その遺言書がどうしても見つからないのよ」
実紀は、形ばかりのため息をついてみせた。
「……澪、あなたが持っているんじゃなくて?」
「それに——お祖母様の通帳と判子もね。家中をいくら探しても、どこにも見当たらないんだ」
まさにこれこそが本題だと言わんばかりに、二人の視線が汐見さんを射抜いた。
欲を隠しきれない、剥き出しの鋭い視線。
「……おばあちゃんからの遺言は、私が預かっています。通帳や判子の場所も、この中に書かれています」
汐見さんがそばに置いたバッグから白い封筒を取り出し、机の上に静かに置いた。
パサリと小さな音がして、その瞬間、叔母夫婦の視線が封筒に吸い寄せられた。
「やっぱり隠し持ってたんじゃないの」
「……おいおい、もう封が開いてるじゃないか。信じられないな。勝手に開けたら、法的効力ってどうなるんだ?」
孝也が眉をひそめる。実紀は探るような手つきで封筒をなぞった。えんじ色のネイルが紙の表面をかすかに削る。
「これは公正証書ですから、検認の手続きも、法的効力も問題ありませんよ。彼女に相談を受けて、私が立ち会って確認しただけです」
川嶋が代わりに答えた。
「よければ、こちらで読み上げましょうか?」
叔母夫婦は背もたれに体を預け、さっさと読み上げろと言わんばかりの仕草を見せた。
川嶋が封筒を手に取り、中身を取り出す。
緊張が張りつめる数瞬。紙の擦れる音だけが、応接室に響き渡った。
川嶋は、まるで現代文の教科書を朗読するかのように、要点を押さえた明瞭な声で読み上げた。
「遺産について——銀行預金は、鉢谷実紀に相続させること」
それを聞いた実紀と孝也の口元が緩み、顔に露骨な安堵の色が浮かんだ。
だが次の瞬間、二人の目が大きく見開かれ、顔色がさっと変わった。
「不動産は——換金することなく、同居していた汐見澪に相続させること。さらに遺言執行者として、知人の仲井戸弁護士を指定する」
「……な、なんだって?」
「どういうことよ! 澪は母の孫にすぎないのに、どうしてそんな権利があるの?」
「本来の相続人である子——汐見の母親が先に亡くなった場合、その子どもが代わりに相続分を受け継ぎます。代襲相続ってやつです。つまり汐見澪は、あなた方と同じ立場なんですよ」
川嶋が補足するように言った。
おそらく僕たちにもわかるように、わざとかみ砕いて説明しているのだろう。
「……まあ、ご存じのはずですけどね」
「くっ……!」
二人は一瞬だけ顔を歪めたが、すぐに取り繕って笑みを作った。
「ハッ……あんな家、どうせ二束三文よ。最初からいらなかったわ」
「いや、いずれにしても僕たちが後見人になるんだ。管理のことは、こちらで決めればいい」
「あははっ。結局のところ、私たちが全部を相続するのと同じじゃない」
隠しきれない下心が、言葉の端々から滲み出ていた。
あまりに透けて見えるその態度に、やはりこれこそ二人の本当の目的だと確信する。
汐見さんの後見人の話を持ち出したのも、結局は祖母の遺産を丸ごと手中に収めるための魂胆にすぎない。
「実紀さんたちとは暮らさない! ……おばあちゃんの家だって、絶対に奪わせない!」
汐見さんはこぶしを固く握りしめ、全身の力を込めて言い切った。
「澪! いい加減にしな!」
「未成年のくせに生意気を言うな! 遺産も君の管理も、全部僕たちが——」
ついに、隠し続けていた本音が剥き出しになる。
凪瀬が隣で腰を浮かしかけたが、すぐに動きを止めた。
開きかけた唇が閉じ、視線だけで僕に託してくる。
「なんで……そんなに自分勝手なんだよ」
気づけば、すでに僕は立ち上がっていた。
「さっきから聞いてれば、自分たちのことばっかりだ。一度だって、汐見さんの気持ちを聞こうとしない」
震えた声が出る。感情を冷静に抑えようと試みるけど、それも決壊しそうになっていた。
叔母夫婦の不愉快そうな視線が一斉に突き刺さる。構うもんか。
「どうして彼女の様子に気づかない? やつれた顔、目の下のクマ……挙げ句に元気そう、だって? どう見誤れば、そんな言葉が出てくるんだよ!」
自分の声が応接室の壁に反響し、視線の圧力が全身に降りかかる。
喉は焼けるみたいに熱い。胸を叩く鼓動が次の言葉を無理やり押し出す。
「汐見さんは……学校を休んでまでおばあさんを看病して、最期まで一生懸命支えた……」
「……はぁ。だから言っただろ? 近くにいる澪ちゃんが看るのは当然なんだよ」
「散々お世話になったんだから、そのくらいは澪の責任でしょ?」
「じゃあ……どうしてだよ。どうして彼女を——おばあさんの葬儀から締め出したんだ!」
保健室で、彼女が打ち明けた事実——
「私は……おばあちゃんの最期を、見届けてあげられなかった」
「お別れの準備さえさせてもらえなくて」
「気づいたら、小さな骨壷の姿になって渡された……」
ぼろぼろと、とめどなく溢れる涙を落としながら、汐見さんは顔をぐしゃぐしゃに歪めた。
「やり口が汚いんだよ……逃げ場を塞いで、精神的に追い込んで、支配しようとする……」
汐見さんが、あれほどまでに憔悴していた理由。
眠る間際に『おばあちゃん……ごめんね』とすすり泣いていた理由。
後悔の念が心をむしばみ、自暴自棄な行動へと追い込んだ理由。
汐見さんは徹底的に部外者扱いされ、火葬場に同行することすら許されなかった。
二人きりで支え合い、笑い合いながら過ごした最愛の祖母に……最後のお別れの言葉すら、満足に伝えられなかった。
「あんたらは……最期を見送る、大事な瞬間を奪ったんだ! 汐見さんを任せられるか! ふざけんなっ!」
目頭が熱くなる。言い切った途端、心臓の鼓動だけがやけに大きく響いた。
ハッとして振り返ると、汐見さんの目は赤く染まり、潤んだ瞳が揺れていた。何かを言いかけて……結局、言葉にはならない。
反対側の凪瀬は、「よく言った」という顔で、唇の端をわずかに上げていた。
自分でも驚くほど衝動的に立ち上がっていた。気恥ずかしさを抱えながら、おずおずとソファに腰を下ろす。
それでも、後悔は一切ない。
「……まったく、失礼な子どもだな」
「感情的になりすぎよ。しょせん高校生ね」
孝也は呆れたように眉間を押さえ、実紀は冷ややかな声で切り捨てた。
「じゃあ聞くが、僕たちが後見人にならなければどうなる?」
「未成年の澪は施設行きよ。たぶん、この辺じゃないどこか遠く。それでも構わないの?」
脅迫めいた一言。
僕の言葉も、汐見さんの気持ちも、まるで届いていない。
目の前にいるのは、人間の皮を被った化け物だ。
諦めにも似たやるせない空気が、応接室いっぱいに広がっていく。
「——さて、後見人の件ですが」
張りつめた空気を断ち切るように、川嶋が淡々と切り出した。
「実は数日前から遺言執行者の仲井戸弁護士と連絡を取り合ってまして。昨日、直接お会いした際に——もう一通の遺言書を預かったんですよ」
今度は川嶋の内ポケットから、二通目の封筒がすっと取り出され、机の上に置かれた。
実紀はうんざりするように天を仰ぎ、孝也は眉間に深い溝を刻んだ。
川嶋は静かに頷き、促すような視線を向けた。
「確認してください。それこそが、彼女のお祖母様の意向です」
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次回は【9/23 22:00】更新予定です。
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