第24話 元気そうね
窓の外は、暗澹とした空に影を落とすにわか雨。
水滴がガラスを斜めに伝い、廊下の色を一段と暗くしていく。
今朝はあんなに晴れていたのに。典型的な梅雨の天気だ。
昼休み。
応接室へ向かうと、すでに川嶋流美が待っていた。
僕たちの姿を認めると、
「なんだ、またお手てを繋いでるのか」
「強力な磁石で、どうにも外れないみたいです」
「さっさと離せ。お遊戯会じゃないんだぞ」
川嶋は静かにそう告げると、キリッと表情を引き締め、眼鏡の奥を光らせた。
こんな雰囲気の担任教師は見たことがない。
汐見さんが、覚悟を決めたようにそっと僕の手を離す。反対側の凪瀬も続いた。
僕も、ここからは手じゃなく、存在そのもので支えるつもりだ。
「鳴海、凪瀬。その表情は抑えておけ。……まずは冷静にな」
ノックののち、ドアをくぐる。
革張りの匂いと、シックな掛け時計の秒針が室内に響いている。
普段は足を踏み入れない応接室は、学校の中にあって別世界のように感じる。
どこか息苦しい。
その原因は、すでに応接椅子に腰を下ろしている二人にある。
ローテーブルを挟み、ソファに川嶋先生、汐見さん、僕、凪瀬の順で腰を下ろす。
正面の奥には叔母夫婦。
「お伝えしていたように、汐見の希望で友人のふたりを同席させます」
川嶋が丁寧な口調で先陣を切る。
相対する夫婦は温和に応じた。
「大丈夫ですよ。そのほうが澪も落ち着いて話せるのなら、こちらとしても大歓迎です」
すでに座っていた女の人——叔母の鉢谷実紀は、しっかりメイクのコンサバスタイル。頬はマットで、口紅は落ち着いた赤色。
隣の男性、鉢谷孝也は浅く腰掛け、背筋の伸びた真面目なビジネスマン然としている。
叔母夫婦と聞いていたが、二人とも想像よりずっと若い。三十代半ば、といった印象。
汐見さんの話から、もっと嫌味な見た目を想像していた。
「澪……無事でよかった。帰ってこなかったから心配してたの」
小さく腰掛けた汐見さんを見つめ、実紀が眉をハの字に寄せる。
「……でも、良かった。元気そうね」
「……はい」
実紀の言葉に、汐見さんはぐっと堪えるように返事を絞り出した。
少しかすれた声。組んだ指先が、膝の上でかすかに震えている。
「連絡が返ってこなかったから、澪に何かあったのかもと思って、学校に連絡したの」
「そしたら、今日は澪ちゃんが登校してると教えてもらってね。こうして慌てて来たんだ」
実紀の言葉を孝也が引き取り、ホッと表情を崩した。
「とにかく、何事もなくてよかった」
「そうよ。もう、連絡もなしに外泊して。母は気にしなかったと思うけど、普通は大問題よ?」
彼女の言う『母』とは、汐見さんの祖母のことだろう。
どこかトゲのある言い方が耳に引っかかる。
「……さっそくだけど、本題に入りましょう」
心配はここまでとばかりに、叔母夫婦は姿勢を正した。
「——澪、あなたのことは私たちが保護者として引き受けます」
実紀は、よく通る声でまっすぐ言った。
「まだ話し合いの途中だったよね。母の死で辛いのは私も同じ……でも、ちゃんと決めなきゃ」
「そうだよ、澪ちゃん。お祖母様が亡くなった今、頼る大人が必要だろ?」
襟元を指で正しながら、孝也が柔和に続ける。
「君は、まだ高校生だからね。大人の目で見守らないといけない」
「未成年後見はいろいろ手続きが必要だけれど、私たちが責任を持って進める。安心していいからね?」
頼る大人。大人の目。
最初の印象も汐見さんを気遣うものだし、二人の主張も真っ当に聞こえる。
事前に彼女の告白を聞いていなければ、信頼に足る大人に見えただろう。
それがたとえ、表向きの顔だとしても。
「まあ……学校は別のところに転校になるが、まだ二年生だ。遅すぎることもないだろう」
「もし進学するつもりなら、学費の減免とか、奨学金って制度もあるのよ。その分、勉強をちゃんと頑張らないとね」
ほがらかな表情で、説得力たっぷりに話している。
まるで、準備していた台本をなぞるよう。
しかし同時に、決定的な視点が欠けている。
そこで、黙っていた汐見さんが、小さく声を出した。
「……実紀さんたちとは、一緒に住みたくない」
「え……じゃあ、どうするの?」
「……おばあちゃんの家が、あるから」
「ああ。でもあそこは古いし、大きな震災が起こればいつ潰れてもおかしくない」
「それでも土地付きだから買い手は見つかるでしょ。澪に余計な手間はかけさせないから」
実紀と孝也は、やさしく取りなすように言葉を重ねる。
叔母夫婦は相続した祖母の家を処分するつもりらしい。
その提案に、汐見さんが慌てて食い下がる。
「で、でも、あそこは——」
「将来の資金をつくらないと。母の遺産も、あとで澪が困らないように、私たちがしっかりと管理してあげる」
やっぱりだ。
汐見さんのためと言いながら、本人の意向をまともに受け取ろうともしない。
これは、はたして話し合いと呼べるだろうか。
「……嫌、です。転校するのも、あの家を売るのも」
「澪ちゃん、わがままばかり言っちゃいけない。今まではお祖母様に可愛がられて自由に育ったかもしれないが、そろそろ大人にならないと」
「姉たちももういないのだから、次の選択に目を向けましょう?」
と、そこで——。
こちらを横目で見ながら、実紀が鼻で笑う素ぶりを見せた。
「今は友達がいて転校したくない気持ちはわかるけど、これはあなたの将来の話よ。つまり、私たち身内の話」
「それにね」
孝也が食い気味に被せる。革の椅子がばり、ときしむ。
「アイドル活動をしていたらしいけど、あれも事務所の不祥事で大変じゃないか。記事で読んだが……本当にヒドいところだったみたいだ。澪ちゃん、君の決断が正しいとは限らない証拠じゃないか」
「ねえ、澪、わかるよね? あなたは未成年で、何もかも自分で決めるには早すぎる」
実紀は、これが答えだと言わんばかりに言い放つ。
「こんなに心配してる。私たちが唯一の家族なの」
言い分だけ並べれば、筋は通っているように聞こえる。
未成年の管理は大人が——正論に近い。
僕だって一人暮らしとはいえ、両親の家で、仕送りをもらって生きている。決して自立しているわけじゃない。
けれど、どうにも空気がざらついていた。
言葉はたしかに汐見さんへ向けられている。だが、二人の視線は彼女に注がれていない。
むしろ、その背後にある『何か』を見ているようで。
「……じゃあ、どうして」
最初はかすれて聞き取れないほどの声だったが、言葉の矛先ははっきりしていた。
汐見さんは、顔を上げないまま続ける。
「両親が亡くなったときに、手を差し伸べてくれなかったの」
それを聞いて、実紀は「はぁ……」と深いため息をついた。
「仕方ないじゃない。当時は私も二十代で独り身だったし、そもそも母が引き取ると言ったの」
「……でも、おばあちゃんが入院してから、一度も様子を見に来なかった。おばあちゃんは、実紀さんをずっと待っていたのに」
「行こうとはしたさ。でも僕たちにも仕事や生活がある。なかなか足を運べなかったのはわかってくれるだろ?」
孝也が遮るように言い訳を並べる。
「これからをやり直したいんだよ、澪ちゃん」
「もう私たちしか頼れないの、澪」
言い終えると、叔母夫婦はすっきりした顔を見せた。
言うべきことは言い切った——そう告げるような表情だった。
短い沈黙。
そこで、様子を窺っていた川嶋が、静かに切り出した。
「お二人の言うこともわかりますが、もう一年もすれば汐見も成年。それなりに判断できます。最近の子どもは、意外と大人ですよ」
ふたたび沈黙が落ちる。
時計の硬質な針の音だけが、やけに大きい。
いつの間にか、手のひらが痛い。強く握りすぎていたらしい。
隣の凪瀬も、組んだ指が真っ白になっている。相当、我慢の限界にきているようだ。
こんな相手だから、彼女はこんなにも苦しんだ。
行ったり来たりと上辺を並べて、都合のいい理屈で支配しようとする。
腹の底では汚い下心がぐちゃぐちゃ煮えているくせに。
左肩越しに、プラチナブロンドの髪が揺れる。
汐見さんが、意を決したようにもう一度顔を上げた。
「おばあちゃんの家……私たちの大切な思い出は——絶対に渡さない」
絞り出す声、それでもまっすぐな視線で、彼女は言い切った。
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次回は【9/22 22:00】更新予定です。
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