第19話 勘違いだって
扉を開けると同時に、早朝のやわらかな外気が流れ込む。
玄関の前には、陽光を浴びて後ろ手を組む女の子が待っていた。
「おはよ、鳴海凛人くん。来ちゃった」
ピンクメッシュの映える凪瀬彩伽は、目を細めて朝の挨拶を口にした。
ごくりと唾を飲み込み、僕はニコッと平静を装う。
「今朝はずいぶんと早いね」
「凛人のことが心配だったから」
「そっか。ありがとう。……朝ごはんを食べて着替えて歯磨きしたら出られるけど、外で待つ?」
「いや、そんだけ待たすなら中に入れてよ」
「そこで着替える予定なんだけど」
「凛人の概念は家中に行き渡ってるわけ? リビングでいいから」
当然、通用しない。僕が自室で着替えればいいだけだ。
「……じゃあ、家に入る前にひとつだけ」
「なぁに?」
「たとえば、段ボールに入った捨て猫を拾うじゃん? 放っておけなくて、食事あげたりお風呂に入れたりするよね?」
「しない。猫アレルギーだから、保護施設を探して預ける」
「あ、そう……」
「わたしね、いやーな予感がしてるわけよ」
凪瀬のじろりとした視線が玄関に移る。
おそらく靴を確認している。隠しておいてよかった。
「……スリッパが一組ない」
「あー、それ。昨日汚して洗濯中。僕が履いてたの使う?」
「……ふぅん。じゃあ遠慮なく、お邪魔しよっと」
玄関から上がった一歩目で床がきしむ。あれ、まだ新しい家のはずなんだけどな。
外を眺めたせいか、明度が一段と下がって見えた。家中に影が降りたように、途端に空気が重く感じる。
冷や汗が背筋を伝う。
無表情の凪瀬から、ホラーめいた気配が垂れ込めてくる。
「あ、そっちは客間」
「……」
凪瀬が客間の扉を開け、無言で中をのぞく。
そこは物もなく、がらんとしていた。
「……間違えた」
「あ、あはは。もー。間取りわかってるくせにー」
「オカルト現象ってやつを調べようと思ってさぁ」
昨晩の通話中、咄嗟にひねり出した言い訳。
誤魔化したつもりでいたけれど、彼女は誰かのいた気配を確実に嗅ぎ取っている。
メイクでつくられたタレ目が、ジトーッと家中を舐め回す。
異様に喉が渇く。
そういえば、朝から一滴も口にしていない。
「あれは冗談だから。勘違いだって」
「勘違い……ならいいけど」
「まあとりあえず、ニュースでも見ながらリビングで待っててよ。すぐ身支度するから」
「……朝ごはんは?」
「食パンでもかじりながら一緒に走ろ? 角を曲がったところで二乗の出会いが待ってるよ」
「いや、わたしは食べてきたし、事故もいらん」
足取りの重い凪瀬をリビングに押し込み、テレビを点ける。
朝の情報番組で都合よくエンタメの話題が流れた。彼女が食いつけば、少しは時間を稼げる。
「四千秒で支度する。口でカウントして待ってて」
「一時間も数えさせる気?」
「け、計算早いね……」
「気にせず、ゆっくり準備すればいいじゃん」
「あ、いや、せっかくいい天気なんだし、このまま早く学校に向かおうよ。じゃあ四百秒、ね?」
「いーち、にーい……」
ゆっくりと数えながら、凪瀬は胡乱な目つきでこちらを見つめている。
ヤバい。頭が働かない。
カウントダウンを背に、まずは顔を洗うため洗面所に向かった。
幸い、天井から物音は聞こえてこない。
「ふぅ……」
青ざめた顔を水で洗い流していると、
ミシリ——後方で足音。
鏡に映った凪瀬が階段を上がっていく。
タオルを放り投げ、僕は追いすがった。
「ちょっ、凪瀬! どこ行くの!?」
「凛人の部屋」
「え、なんで!」
「ちょっと、顔を上げないでよ。下から真っ白なパンツを覗くつもり?」
「あ、ごめ——」
顔を背けた、その一瞬の隙をつかれた。
ドドドッと凪瀬が階段を駆け上がっていく。てらてらのピンクじゃねーか!
そのままガチャッと扉を開ける音が響く。
——マズい、バレる!
必死に追いつくと、凪瀬は部屋の前に無言で立っていた。
……え、どうして何も言わない?
早鐘を打つ心臓を抑えつつ、隣に並んでちらと覗き込む。
いつも通りの、静かな僕の部屋。
枕もベッドの定位置に、掛け布団もぴっちり整えられている。
床に敷いていたもう一組の布団も、どこに消えたのか綺麗に片付けられていた。
そこに、他人のいた痕跡は残っていない。
汐見さん、グッジョブ。ほんとにいい仕事してる。
「……な? 凪瀬、だから勘違いだって」
「……そうかもね」
凪瀬は目をつぶって、諦めたように「ふぅ」とため息をつく。
そして、ゆっくりと僕の顔を見た。
真紅のリップが、おもむろに動く。
「慌てて出てきたわりに……綺麗すぎるベッドじゃない?」
ガコッ。
金属が外れるような鈍い音。
同時にクローゼットが勢いよく開き、布団やブランケットが雪崩れ落ちる。
その中から——「あ、しまった」という顔の汐見さんが滑り出てきた。
というか、呟いた。




