第17話 余計なお世話だった?
校庭からは部活動のかけ声が響いていた。
一方、教室の中は放課後の静けさに沈んでいる。騒ぎを避けるようにクラスメイトたちは姿を消したのだろう。みんな、空気を読む力がすごい。
「帰ろうか、凪瀬」
「ちょっと待ってて。念のため保険かけとくから」
凪瀬は僕の席にちゃっかり腰を下ろし、スマホを凝視しながら指を動かしていた。
横顔に薄い笑みが浮かぶ。見慣れた地雷系の風貌とマッチして、思わず背筋がぞくりとした。
「……保険って?」
「弱みをちゃんとキープしとかなきゃじゃん? いろんなヒミツ」
「お、おう……」
やるなら徹底的に、ってか。不良マンガでしか見ないぞ。
凪瀬は指を動かしながら、ついでのように尋ねてくる。
「そーいえば、蒼一は?」
「授業の途中からトイレに引きこもってる。たぶん食あたりだろ」
「あー。救いがたいほどのアホだね」
「だな。……僕も今のうちにトイレ行っとくか」
「いってら」
教室を後にしながら、振り返る。
気の毒な顛末だったけど目的は果たせた。根も葉もない噂を育てる土壌は、これでだいぶ削がれたはずだ。
あとは少しずつ、時間が空気を変えてくれる。
それでも頭に残るのは、汐見澪の憔悴しきった様子。
陰口や悪評だけでは説明できない気がする。
家庭のゴタゴタ……だとしたら、赤の他人が首を突っ込める領域じゃない。
アイドル活動でトラブルを抱えているのなら、それも僕には手が届かない。
週刊誌にカチコミに行く根性もなければ軍団もない。芸能人の不祥事のように、おとなしく沈静化を待つのが賢明だろう。
ただ、学校くらいは安心できる場であってほしい。
まずは友達になってみよう。挨拶を交わして、ちょっとした冗談を言い合えるような、そんな関係になれたら。
彼女の気分も、少しは紛れるかもしれない。
……相手にされれば、の話だけれど。
***
トイレを済ませて教室へ戻る途中。
廊下の先に、小さな背中が見えた。
乱れたプラチナブロンドの髪。自信なさげな佇まい。
もう帰ったと思っていた汐見澪が、そこに立ちすくんでいる。
「……ん?」
その隣には、体育教師の永田山。悪い噂の渦中の人物だ。
永田山に肩を抱かれ、汐見はなすがままに連れられていった。
「……いや、さすがにマズくないか」
平静を装いながら、距離をとって後を追う。
階段を下り、角をひとつ曲がった先で、二人は生徒指導室に入っていった。
扉がピシリと閉まるのを確認し、近づいて耳を澄ませる。
中から低い声が漏れてきた。
『いろいろあって大変なんだろう? 先生が力に——』
『…………』
汐見の声は小さすぎて、扉越しには届かない。
あるいは返事に窮して、ただ黙っているのか。
『親戚と揉めてるらしいな。祖母の件は残念だったが——』
すべては聞き取れない。だが言葉の調子から、ぐっと距離を詰めているのが伝わる。
権力を笠に着た威圧感はあるが、永田山は悪人ではない。
少なくとも僕の目には、厳しい態度が武器の、下心の少し透けた男性教師に映る。
身近な大人代表として、本当に心配しているのかもしれない。
けれど、凪瀬の言葉が頭をよぎる。
——むしろ永田山のほうが頼られたいから、汐見さんに干渉してんの。
たしかに、その役目を永田山が担うのは違和感がある。
普通ならそれは、同性で担任の川嶋流美。……まぁちょっと頼りなくはあるけども。
でもまさか教え子に手を出すわけは……と思った瞬間。
『頼る人がいないなら先生が——』
『……いやっ』
小さな拒絶の声と、机のきしむ音。
考えるよりも先に体が動いた。
僕は拳を握りしめ、振り上げて——
コンコン。
「あー永田山先生、もしかしてそこにいます? 川嶋先生が探してましたよ」
一拍の静寂。
やがて扉が開き、永田山が顔を出す。
その奥には、肩をすくめてうつむく汐見の姿があった。
「あれ、汐見さんもいたんですか。相談の途中でした?」
「……いや、相談事は終わった」
「そうですか。ちょうどよかった、日直の仕事がまだ残ってて」
「川嶋先生はどこに?」
「さっき声をかけられたときは職員室の廊下でしたけど」
つらつらと嘘を重ねる。
バレたところで構わない。川嶋なら都合よく力仕事を押し付けるはずだ。
永田山は軽く頷き、廊下へと去っていく。
残された汐見は、目を見開いてこちらを見ていた。
「どうして……」
「余計なお世話だった?」
僕の問いかけに、今度は唇を噛んでうつむく。
彼女は答えない。え、本当に余計だったか?
——いや、この表情は……違う。
「あの、永田山に何か——」
「されてない」
短く遮る。冷たい響き。
目を合わせようともせず、汐見はか細い声を落とす。
「……ごめんなさい」
それだけを残し、ふらつく足取りで歩いていった。
追いかけるには二の足を踏む背中だった。
「きっかけは、早くも失ったかなぁ」
いきなり馴れ馴れしかったか。クラスメイトと認識されているかどうかも怪しい。
僕の目線からできる手助けなんて、本当にあるのだろうか。
「ま、何事も距離感だよな」
一歩目で縮めようなんて思っていない。
徐々に近づいて、心を開いてもらえればいい。
まあ、この件はいちおう川嶋先生にチクっておこう。
永田山に下心があるかはわからないけど、二人きりの空間で誤解を招く行動をとったのは確かだ。
歯止めがあれば、過度な干渉は控えるかもしれない。
***
教室に戻ると、凪瀬が僕の机に腰かけていた。
興味なさそうに眺めていたスマホから目を離すと、
「トイレ長すぎん?」
「ちょっと野暮用があって」
「もっと野心を出して」
「——ふん、瑣末事を片付けていた。だがそれも、我が覇道のため!」
「ノリいいじゃん」
「凪瀬が振ったんだろ」
馬鹿みたいなやり取り。
学校生活にいつもの日常が戻ってきた。
今日はストレスのかかる出来事が多かったから助かる。
こういうのでいいんだよ。こういうので。
「じゃあ、帰ろ?」
「校門前で早くも分かれ道じゃん」
「駅まで送ってくれてもいいけど?」
「……そうしますか」
駅へ向かう道すがら。
凪瀬は趣味の話に花を咲かせる。
好きなマンガがアニメ化するとか、でも制作会社を知らなくて不安だとか。
僕もそれなりにマンガ好きなので、頷きながら聞いていた。
「……あ」
「凛人、どしたー?」
「いや、忘れもの。気にしないで」
「それ構ってムーブすぎん?」
「凪瀬がよくやるやつね」
「それな」
蒼一に貸した数学のノートを思い出す。
机の中に入れると言ってたな。カバンに入れとくよう頼んどけばよかった。
そのまま駅に着くと。
改札前で、凪瀬はにっこりといい笑顔を見せる。
「じゃあ今度はわたしが凛人を送る番〜」
「エンドレスだろ」
「あと三往復くらいしよ?」
「あ、そうだ。明日は迎えに来なくていいからね」
「えっ、なんでよ」
「毎日一緒に登校したらありがたみが薄れる」
「えー生意気。もう迎えに行ってあげない」
彼女はべーっと舌を出した。
新しい靴で足が心配、とは口にしない。言えば反発して、余計に来たがるから。
「……ねぇ、待って」
凪瀬がふいに声を落として言った。
深刻なトーンで引き留めると同時に、僕の胸に小さな頭がトンと収まる。
甘い香りがふわっと漂う。
そのまま上目遣いで僕を見つめて、
「凛人……なんだか、ヤな予感がするの……」
え、それはどういう——
「って、毎回へんなフラグ発言するのやめてくれない? 結局なにも起こらないのに」
「なら、べつにいいじゃん」
「だからよくないんだよ。逆に、なんか起これよって気持ちになる」
凪瀬の一挙手一投足が僕を惑わせる。
これも抱きつく口実だと思えば、むしろ胸がキュンとする。
名残惜しそうに改札を抜けていく凪瀬の背を見送って。
「……せっかくだし、取りに行くかぁ」
机に置きっぱなしの数学のノート。
なくても困らないけど、帰り道に寄るくらいの手間だ。
夏の気配が近づく夕映えの校舎へ、足を向ける。
ラブコメみたいな日々を、明日もまた繰り返す。
そんな幸せでいい。こんな幸せがいい。
「……あれっ、蒼一?」
校門の前に、都筑蒼一が立っていた。
その表情は、普段の親友らしからぬ沈痛さを帯びて見える。
校舎のほうが、どこか騒々しい。
「凛人……また、ダメだった」
「え、なにが?」
「俺が、油断したから……ごめんな……」
何を言いたいのか、さっぱりわからない。
ノートを写しきれなかった、とか……それで?
サイレンの音が幾重にも重なり、近づいてくる。
残っていた生徒たちがせわしなく校内へ戻っていった。
「えっ、屋上から飛び降り?」
「うちの生徒?」
「マジっ? 誰!?」
背筋に冷たいものが走る。
嫌な予感しかしない。
駆け足で校門をくぐる。
校舎脇の花壇を大きく囲むように、人だかりができていた。
青いビニールがばさりと風に鳴り、先生たちが大声で制止を叫んでいる。
嗚咽と悲鳴、口を押さえて苦い表情。
生徒たちの多くは目をそらし、顔を伏せていた。
湿った土と鉄の匂いが鼻を刺した。
「亡くなったの、あの人らしい。二年の——」
汐見澪。
……嘘だろ?
ついさっきまで、生きていたのに。
……どうして。
どうして、あのとき僕は追いかけなかった。
それは本当に、余計なお世話だったか?
「……そうだ。おい、蒼一……っ」
振り返る。
だが、さっきまで立ちすくんでいた親友の姿はもうない。
足音すら残さず、忽然と消えたように。
赤い光が明滅する。けたたましいサイレンの中で、耳にこびりついた声がリフレインしている。
——また、ダメだった。
ペトリコールの匂いが強まる。
夕暮れの空には、暗雲が垂れ込めていた。




