第15話 無視できないだろ
凪瀬彩伽が転校してきたのは、昨年の秋も半ばのこと。
父親の仕事の都合で、市外から引っ越してきたらしい。
担任の川嶋流美が「はい紹介おしまーい」と気の抜けた調子で言う。
その内容は名前と出身地のみ。
けれど、クラスの視線は彼女へと釘付けになっていた。
唖然とするのも無理はない。
漆黒の長いストレートに、冷たい青紫のインナーカラー。
目元は濃い黒で縁取られ、青に塗られたリップは血の気を感じさせない。
耳の軟骨まで連なるピアスが威嚇するみたいに光を反射した。
他を寄せつけない、棘を抱えた青薔薇の雰囲気。
地方の中都市。ほとんどが地元出身者で占められる公立高校には、あまりに衝撃的な姿だった。
ざわつく教室の空気を割って、ムードメーカーを自負する男子が声をかけた。
「凪瀬さん、攻めてるねぇ。それ何系って言うんだっけ?」
「あんたに関係ある?」
冷たい返しは一瞬で教室を凍らせる。
もし違う言い方をしていれば、新しい風として受け入れられたのかもしれない。
しかし今の彼女には、ただ異物を観察するような視線しか残されていなかった。
そんな空気を、担任の川嶋は「さーてと」とあっさり切り替える。
「席替えするぞー。こっちの端から元の名簿順で」
「えー! この前替えたばっかじゃん!」
「覚えられなかった」
「せめて生徒の顔と名前くらい覚えろー!」
あちこちから抗議が飛ぶけれど、我が道を行く女担任は意に介さない。「おい最後尾の山本、余ってる机と椅子とってこい」とパシリを命じた。
不満を飲み込みながら生徒たちが席移動を始める。
僕の前の席には、自然と例の転校生が来ることに。
そこで、彼女が不意に足を止める。
目の前に立った凪瀬彩伽は、驚いたように僕を見ていた。
「早く座れー」
川嶋に急かされて、何事もなかったように席へ腰を下ろす。
なんだ今の。もしかして目をつけられたか?
と首をひねった瞬間、彼女の制服の肩口に小さなシールがついているのが目に入った。剥がした値札の切れ端のような。
「あの、凪瀬さん。これ、とっていい?」
「え? ……えっ、恥ず……」
偶然のちょっとしたきっかけ。
それを境に、彼女と少しずつ話すようになった。
「鳴海、凛人……だよね」
「名前覚えるの早いね。川嶋先生より教師に向いてる」
「いや、あの……凛人」
「うん、呼び捨てでいいよ。僕も、彩伽って呼んでいい?」
「……いいけど」
「じゃあさっそく、……凪瀬」
「呼ばないのかよ」
見た目ほどぶっ飛んではいない。凪瀬は意外と冗談の通じる人間だった。
クラスメイトの遠巻きな様子はなかなか変わらなかったが、気づけば、孤立しがちな彼女の拠り所となっていた。
僕を介して都筑蒼一とも繋がり、クラス替えのあった二年生からは周囲の視線も変わって。
——今に至る。
午前の授業を終えて、昼休み。
朝食で補充したエネルギーもちょうど尽きかけていた。
「凛人、購買行こうぜ」
財布を片手に、蒼一が声をかけてくる。そこへ当然のように凪瀬が割り込んできた。
「あっ、わたしも一緒に行くー」
「彩伽は弁当あるんだろ?」
「あるけど、凛人といたいし」
「俺も凛人といたいんだよ。男同士でしっぽりと」
「え、きも……」
率直すぎる反応に、僕もすかさず頷く。
けれど彼女が一緒だと、どうしたって注目を集める。なかには不愉快な視線も混ざってしまうだろう。
昼食の買い物なんて、できればローリスクでさっさと済ませたい。
「悪いけど、すぐ戻るから」
「じゃあカフェオレだけお願いしていい?」
「お代は?」
「はーい」
凪瀬は腰をひねってポーズをつくると、ウインクと投げキッスを飛ばしてきた。
この会計はあとでちゃんと請求しよう。
教室を出るとき、なんとなく汐見澪の席に目をやる。
机は空席のまま取り残されていた。
あからさまな嫌がらせの形跡はない。
しかし、そこに座っていないだけで、嫌な視線は今もなお突き刺さっている。
「事務所がヤバいとこだったらしいよ」
「見た見た、その記事」
「SNSも炎上しまくってたし」
「じゃあ絶対、マクラしてんじゃん」
聞きたくもない会話が耳に入る。
曖昧な噂が尾ひれをつけ、根拠のない憶測を膨らませていた。不祥事だの炎上だの、本当に彼女に関わっているのかは疑わしい。
けれど、嫉妬と面白半分の悪意が火に油を注ぎ、この炎はしばらく消えることはないのだろう。
購買に着く。
レジ前は焼きたてのパンの匂いと、我先にと列をつくる活気に溢れていた。
僕はサンドイッチとカフェオレ二つを手に取り、できるだけ素早く会計を済ませる。
一方の蒼一は、スイーツまで含めた大量の食べ物を両腕に抱えていた。
「めちゃくちゃ買うじゃん」
「いいんだよ。今日は好きなもんを好きなだけ食べる日だ」
「チートデイかよ」
「……ああ、まさにそれだな」
意味ありげに笑う蒼一。隠れて筋トレにでもハマってるのか。成果を見せつけられたら嫌だな。
「彩伽を待たせるのも悪いから、先に戻っててくれ」
「マイペースのくせに律儀かよ。あとでな」
お言葉に甘えて教室に戻る途中。
担任の川嶋と廊下で鉢合わせた。
「鳴海、いいところに。さっそく貸しを返してもらいたいんだが」
「パンを見ながら言わないでください。間接的な金銭授受とみなしますよ」
「それは困る。先生はとてもひもじいのに」
お腹を押さえて「くぅー」とわざわざ口で呟く。あまり同情心の湧かない姿だった。
「教師の給料はどこに消えたんですか」
「十三番台に預けてる」
「取り返しに行かないほうがいいですよ」
軽口を交わしたところで、気になっていたことを聞いてみる。
「汐見さんって、祖母と二人暮らしなんですか?」
「……凪瀬から聞いたのか。個人情報はあまり軽々しく口にするなよ」
「先生も僕の一人暮らし、ちょいちょいバラしてますよね」
「汐見の件はもっとデリケートなんだ。それにもう——」
リムレスメガネの奥の目が少しだけ曇る。
「……あいつの親族がちょっと厄介でな」
そう呟いたあと、川嶋は言葉を切る。
問い返そうとする前に、別の要求が飛んできた。
「鳴海、貸しの百をまとめて返してもらいたい」
「……食べ物以外で、利子のつく前に返せるなら」
「汐見のこと、目を配ってやれるか?」
教室での彼女の様子に、やはり気づいていたのか。
だけどその要望は、さすがに職務怠慢だろう。
「それって担任の仕事じゃないんですか」
「目線が違うだろ。贔屓でも特別扱いでもない、同じクラスメイトとして」
川嶋の表情に、普段は見せない真剣さが宿る。
「私にできることは私がやってる。おまえに頼めることを頼んでるつもりだ」
「でも、僕は彼女とほとんど話したことがないですよ。……挨拶すらまともに」
「じゃあ、これをきっかけだと思え。頼まれごとなら、無視できないだろ?」
たしかに。
僕も見過ごせないと思い始めていたところだ。
いじめの兆候はすでに出ている。
エスカレートする前に教室の空気を戻せるのなら、それに越したことはない。
ちょうどいい口実ができたのかもしれない。
貸し借りの精算と同時に、その役目を引き受ける。
——凪瀬との、つつがない日常を守るためにも。
「わかりました。できるだけのことは、やってみます」
僕の返事を聞くと、川嶋はすぐにいつもの覇気のない顔へ戻った。
教師のベースは普通反対だろ。
「……あ、そうだ。あと、力仕事がいくつか」
「借りた百は別件で返済予定なので、ここからは貸付になりますけど」
「損得勘定がしっかりしてるな……」




