第11話 抱き枕
健全な精神を保つには、やはり日々の食事が大切だ。
それは、心の回復にもきっと役立つはず。
祖母の料理が思い出の味だと言うので、今夜は家庭的な和食にしてみた。
だし巻き卵、ほうれん草のおひたし、お麩の味噌汁。
そして、糸こんにゃくをたっぷり入れた肉じゃが。
完全にイメージで決めた献立だが、暖かみのある食卓感はそれなりに出せた気がする。
おばあちゃんっ子の汐見さんが、少しでも癒えてくれたらいいけれど。
ダイニングで向かい合い、「いただきます」と同時に手を合わせた。
一口食べた彼女の顔に、懐かしむような感傷が生まれる。
「おばあちゃんの料理を思い出す……」
「……うん、よかった」
そのために選んだ献立だ。期待通りの反応に、そっと胸をなで下ろす。
「……懐かしい。おばあちゃんの、シャトーブリアンヒレステーキ」
「えっ、どれで思い出した!?」
「それに、おばあちゃんのオマール海老のテルミドール……」
「……ん?」
「あと、真鯛のポワレ 〜旬の野菜とフルーツソースを添えて〜」
「それ汐見さんが食べたいメニューだろ! ズルい手を使うな!」
「冗談だよ。……鳴海くんの肉じゃが、とても美味しい」
「素直にそう言ってくれ。気に入ってもらえてよかったよ」
夕飯も終えて、夜間の穏やかな時間を過ごす。
汐見さんの表情は相変わらず変化に乏しい。しかし瞳の焦点はテレビへと注がれるようになっていた。多少はリラックスできているらしい。
気になることと言えば、スマホを触っている様子はない。たぶん持っているとは思う。今は離れた方がいいと、本人も自覚しているのかもしれない。
しかし、肝心なのはここからだ。
同居生活で何より大切なのがルールの設定。最初に決めておかないと、後々トラブルの元になる。
将来の予行練習も兼ねて、僕はこの家のルールをきっぱりと提示することにした。
時計の針が十時を回ったころ、汐見さんを布団の敷いた客間へ案内する。
「こっちにもテレビがあるから、好きに点けて」
「……え」
「喉が渇いたら冷蔵庫から勝手に取っていいし、自分の家だと思って過ごしてよ。ノーブラで徘徊は遠慮してほしいけど」
「……やだ」
「ただし、地下の部屋には決して入らないこと」
「やだ、部屋に入る」
「あ、もちろん冗談。ないからねそんなもん」
「鳴海くんと同じ部屋で寝たい」
「…………」
噛み合わない会話を沈黙で終える。
……汐見さん、それマジで言ってんの。
僕は我慢強いほうだと思うけど、汐見さんは誰から見ても美少女で、おまけにスタイルも良い。
彼女の魅力がなんでも貫く矛だとしたら、僕の理性はそれなりに脆い陶器のお皿。故事成語は生まれない。
それでも、かろうじて保っている理由——
汐見さんの行動は、正常な判断とは言いがたい。
寂しさや痛みを紛らわすために、たまたま近くにいた僕に寄りかかっているだけ。
彼女を支えてあげたいとは思う。
でも、弱みにつけ込むような真似は絶対にしたくない。
だから、僕は約束を求める。
「じゃあ、あらためて誓える?」
「……誓う?」
「僕に誓ってほしい。汐見さんが、自分を大切にするってこと」
昨晩の自己犠牲めいた行動や、海で見せた諦めの仕草。
彼女の精神は未だ揺れている。深海で仄かに光るクラゲのように、孤独に漂ったまま。
だから意味なんてなくても、口約束で繋ぎ止めたい。
「傷つこうとしないで。諦めないで。心を閉ざさないで」
そして僕自身も約束する。
「頼っていいから。助けようとするし、できなくても、できるだけ寄り添うから」
起こってしまった事実は変えられない。
つらい境遇も、失った人も戻らない。
過去は変えられない。僕たちはそれを、身をもって知っている。
でも、これから変えられることだってあるはずだ。
「汐見さんがまたひとりで歩けるまで、ここにいていいから」
「……うん」
「だからね。いつか、いろいろ話してほしい」
「……うん。……わかった」
下を向いたまま、汐見さんは小さく鼻をすする。
ほどなくして、彼女の細い手がそっと僕のシャツの裾をつかんだ。
「鳴海くんと同じ部屋で寝たい……」
「……そこは譲れないのね」
***
布団一式を運んで、僕の部屋。
蒸し暑くなりつつある夜を、窓全開の夜風で冷ます。
「あの、せめて枕は交換しない?」
「やだ。これがいい」
ベッドの上で僕の枕を頑なに抱きしめたまま、汐見さんは返す気はないらしい。明日も早く目が覚めそうだ。
電気を消すと、すぐに疲労が眠気を呼び込んだ。夜更かしする余裕は微塵もない。
次第にまぶたが重くなる。
意識も徐々に——
そのとき、薄手のブランケットが擦れる気配。遅れてシャンプーの香りが鼻をくすぐった。
「……なんで忍び込んでるの」
「あ、バレた」
汐見さんが布団に潜り込んできた。枕もちゃっかり持参している。
「まさか、ブラはとってないよね」
「外した方がよかった?」
「よくない」
ツッコむ気力も薄れていく。いい加減、僕も眠い。
すると、冷たくさらさらとした感触が、短パンから伸びた僕の素足をなぞった。
汐見さんの素足がスルリと絡んでくる。
まるで抱き枕のように。
「……おい。汐見さん。寝ぼけてんの?」
「……うう……おばあちゃん……ごめんね」
ああ、そうだ彼女は——
「って、それ言えば許されると思ってない?」
「…………」
「おい、無視すな」
首だけ動かして隣を見ると、彼女はもうスゥスゥと寝息を立てていた。
疲れが睡魔に勝てなかったのは汐見さんも同じらしい。
今日は泣かずに、いい夢を見られますように。
——それはそれとして。
なんとか抜け出そうと、そっと身をよじる。
起こさないようにゆっくり……と、隣から小さな吐息が漏れた。
「んっ」
汐見さんがぴくりと身体を震わせる。腕の締めつけがさらに強まり、体温のぬくもりがじわじわと僕を包んでいく。
……どうしよう、出られない。
据え膳食わぬは男の恥、か。
でも、男に二言はないから。
朝まで堪えるしかないな。やれるよな……相棒?
「……ってか、やっぱり外してんじゃん」
微睡みの中で、伝え忘れていたことを思い出す。
伝えていいものか、まだ決めかねている言葉。
こんな状況でも、かろうじて平静を保てているのは——
僕には心に決めた人がいる、ということ。




