二度目の悪役令嬢は破滅を望む
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王宮で開かれた夜会で、私マルティナはぽつんと一人壁の花になっていた。私の婚約者である第一王子のデイビッド様が、隣に別の令嬢を伴っているからだ。
周囲からは、私を嘲るようにくすくすと笑う声が聞こえる。
「ねえ、見た? 今夜のマルティナ様」
「ええ。真紅のドレスが美しいけれど、かえってお一人でいるのが目立っていらっしゃるわ」
扇で口元を覆ってはいるけれど、これみよがしに私を見つめる視線は隠せてはいない。
「いくら美人だからって、元々お義姉様の婚約者だったデイビッド様を奪った上に、彼に近付こうとする令嬢を端から蹴落としてきたのだもの……」
「悪女っていう言葉がぴったりね」
「義姉のクロエ様に、恩を仇で返したのでしょう。自業自得よね」
彼女たちが話している内容は事実だ。社交界での私の評判といえば、絶世の美貌を利用して義姉を裏切り、第一王子の婚約者に収まったものの、執念深さから彼に疎まれ始めた侯爵令嬢という、どう見ても芳しくはないものだ。
母の再婚により家族になった、クロエお義姉様の婚約者だったデイビッド様を、私はあっさりと奪った。
デイビッド様に色目を使ったら、彼はすぐに私に落ちたのだ。
ーーそう、物語の筋書き通りに。私は、前世で私が読んだ小説の悪役令嬢に転生したらしい。
「なりふり構わずにデイビッド様の気を引こうとしているみたいだけれど……みじめなものね」
「デイビッド様はもうマルティナ様に愛想を尽かしているようだわ」
まだ陰口は聞こえ続けていたけれど、誰に何と言われようと私は構わなかった。
破滅が目前に迫る中、私は口元に薄い笑みを浮かべた。
(二度目はもう、間違えないわ)
悪役令嬢に転生したことに気付いた一度目のマルティナとしての人生で、私は破滅を回避しようとした。その選択が誤りだったなんて、あの時は思ってもみなかった。
今は、断罪されることに何の迷いもない。
デイビッド様が、ケイトリン嬢を伴って私の前にやってくる。
「マルティナ。お前は、ケイトリンを襲わせようとしたそうだな」
「ええ。婚約者に近付く害虫を追い払おうとしただけですが、それが何か?」
デイビッド様の言葉を肯定した私に、周囲がざわめく。
怖がったような表情を浮かべてみせたケイトリン嬢が、デイビッド様の陰に隠れてから、にっと笑うのが見えた。
冷ややかな眼差しと嘲笑の中、私はもうすぐ始まるであろう、デイビッド様からの婚約破棄を待っている。
むしろ、早く始まらないかと思っているほどだ。
そんな私を少し離れた場所から心配そうに眺める視線に気付いて、ちらりと視線の主に目を向ける。私の忠実な従者のミハエルだ。
もう一人、私を見つめる瞳に気付いて、私は小さく唇を噛んだ。私の大好きな紫色の瞳が、心配そうに揺れている。
(クロエお義姉様……)
将来の王妃になるために、ずっと厳しい王妃教育を受けてきたのに、私にデイビッド様を奪われたお義姉様。
私を軽蔑したっていいはずなのに、お義姉様の瞳は私を気遣う優しさで溢れている。
ーーもう、お義姉様に会えるのもこれで最後かしら。
目に涙が滲みそうになるのをぐっと堪えて、視線を正面のデイビッド様に戻すと、私は悪役令嬢に相応しい不遜な笑みを浮かべた。
私の復讐も、ようやく最後の一幕まで辿り着いたのだから。
***
私が物語の悪役令嬢に転生したと気付いたのは、デイビッド様が、クロエお義姉様との顔合わせのためにアントワーヌ侯爵家を訪れた時だった。
艶やかな金髪を靡かせ、深い碧眼をしたデイビッド様は、驚くほど美しい顔立ちをしていた。彼がお義姉様に会いにきたことも忘れて、私は思わず不躾な瞳を彼に向けてしまったほどだ。
彼が私をちらりと見て、彼と目が合った時、ぞくりと身体が震えるのと同時に、私は不思議なデジャブ感を覚えた。
(この光景、どこかで……?)
私の頭に、前世で読んだ小説の筋書きが甦る。そのまま、前世の記憶が一気に脳内にフラッシュバックした。
眩暈を覚えて、ずきずきと痛む頭を押さえる。
(もしかして……いや、もしかしなくても、私、悪役令嬢に転生してる?)
嫌な感覚に、背筋に冷や汗が流れた。自分の長い濃紺の髪と金色の瞳、マルティナという名前も、そして第一王子であるデイビッド様、クロエお義姉様の名前も、すべて覚えがある。
私が前世で読んだ小説の登場人物だ。
そして、小説の筋書きでは、デイビット様に一目惚れをしたマルティナは、お義姉様から彼を奪うはずだった。
名門アントワーヌ侯爵家に生まれたクロエお義姉様は、幼い頃にデイビッド様の婚約者に据えられることが決まった。そして、デイビッド様と実際に会うよりも先に、お義姉様の王妃教育は始まっている。
顔合わせのタイミングが遅くなったのは、後から知ったところによると、デイビッド様の我儘のせいだったらしい。お義姉様の姿絵を見た彼は、こんな地味な容姿の令嬢が婚約者だなんてと不満を言って、お義姉様に会うことを避け続けていたようだ。
ようやく渋々アントワーヌ侯爵家を訪れた彼が目にしたのが、私たち姉妹だった。
楚々とした控えめなお義姉様よりも、彼が私を見ていることは明らかだった。
クロエお義姉様より年下だというのに、私は年に似合わぬ色香を漂わせていたらしく、当時から完成された美貌の持ち主と褒めそやされていた。あまり自覚もなくて、お義姉様と比べる周囲の声に戸惑っていた私だったものの、悪役令嬢に転生したと気付いて合点がいった。
でも、私は不思議でならなかった。
(クロエお義姉様ほど素敵な方は、この世にほかにいないというのに)
優しくて思いやり深く、聡明で忍耐強い、義妹の私にもたっぷりと愛情を注いでくれたクロエお義姉様のことが、私は大好きだった。
私の美貌は母譲りだけれど、母は自分自身にしか興味のない人だ。私は生まれてこのかた、母のお飾りとして外に連れ出される時以外は、家でもずっと放置されていた。使用人による食事と最低限の教育以外は受けずに、愛情を知らずに育ったのだ。母が私に良い顔をするのは、自分に似て美しい娘を周囲に見せびらかす時だけだった。
母がアントワーヌ侯爵家の当主と再婚した時、私は怖くてたまらなかった。
高位貴族に相応しいマナーも知識も、私にはない。それでも、母からは、決して失敗するなという冷たいプレッシャーを感じた。再婚前は、私が何か失敗したり、母の機嫌を損ねたりすると、容赦なく叩かれたものだ。
再婚後初めての食事の席で、緊張のあまり手が震えてスープを溢した私は、母に激しく叱責された。その時、青ざめて縮こまった私を庇ってくれたのは、隣の席に座っていたクロエお義姉様だった。
「大丈夫よ、マルティナ」
労わるようにそう言ったお義姉様は、私が溢したスープをさっと手際よく拭くと、新しいスープの皿に変えるようすぐに使用人に頼んでくれた。
お義姉様の優しい笑顔に、どれほど救われたか。鼻の奥がつんとして、言葉では上手く言い表せないくらい嬉しかった。
義父は家名を重んじる厳格な人だったけれど、クロエお義姉様は温かな人柄で、私は彼女にすぐに懐いた。誰だって、お義姉様を知れば好きにならない人はいないと思う。
お義姉様は、私を本当の妹のように可愛がってくれて、貴族として基本的なマナーや知識は、すべてお義姉様が自ら私に教えてくれた。
私に向けてくれる笑顔は天使のようで、お義姉様の側にいると、まるで暖かな陽だまりにいるみたいだった。
だから、もし私がデイビッド様に気に入られても、私がデイビッド様に一目惚れをしたとしても、クロエお義姉様を裏切るつもりなんて、私にはこれっぽっちもなかった。
むしろ、小説の中のマルティナは、こんなに素敵な、恩人とも言える義姉をどうして裏切ったのだろうと、私は信じられない思いでいたのだ。
それに、自ら破滅の道なんて歩みたくはなかった私は、一度目の人生ではクロエお義姉様からデイビッド様を奪うことなんて考えられなかった。彼からは陰で言い寄られたけれど、軽くいなすうちに私には興味を失ったらしい。
一つだけ気になることはあったけれど、その懸念には蓋をしていた。
それが、その後の絶望に繋がるなんて、当時の私は知らなかった。
ーーその日は突然やってきた。
順調にクロエお義姉様の王妃教育が進み、デイビッド様との結婚式が近付いたある日、お義姉様は突然、湖に身を投げたのだ。
幸せの絶頂にいるように見えたお義姉様が、どうして突然身投げなどしたのか、私には訳がわからなかった。湖から引き上げられて、ベッドの上で意識の戻らないお義姉様に縋って、泣き叫ぶことしかできなかった。
(どうして、こんなことに……)
その時になって、ようやく私は真実を知った。
クロエお義姉様が、デイビッド様や、彼を狙う令嬢たちから数々の嫌がらせをされていたことを。
デイビッド様が好色で、慎ましく身持ちの固いお義姉様を遠ざけたこともあり、彼の取り巻きの令嬢たちが裏では好き勝手なことをしていたらしい。
それを知って、私は怒りに震えた。お義姉様を追い詰めるような目に遭わせた者に、一人残らず復讐してやると心に誓った。
ーーでも、一番憎かったのは、私自身だった。
前世に読んだ小説では、ヒロインのクロエお義姉様が結ばれるヒーローは、第二王子のカーティス様だった。クロエお義姉様がデイビッド様から婚約破棄された後、お義姉様を密かに想っていたカーティス様が手を差し伸べ、二人は幸せになるはずだったのだ。その後デイビッド様が失脚し、カーティス様と結婚するクロエお義姉様が王妃になる、それがあるべき筋書きだった。
それに、小説では、湖に身投げするのはデイビッド様に振られた悪役令嬢の私のはずだった。
私が悪役令嬢としての役割を果たさなかったせいで、お義姉様をこんな状況に追いやってしまったと思うと、悔しくて苦しくて仕方なかった。
意識の戻らないクロエお義姉様を毎日のように見舞いにくるカーティス様が帰った後は、私はお義姉様の側から離れなかった。
ひんやりしたお義姉様の手を握って、私は何度も話しかけた。
「クロエお義姉様、今日はカーティス様が綺麗な薔薇の花束を持ってきてくださったのよ」
「今日は、貴族学校で数学のテストがあったの。お義姉様が前に教えてくださったお蔭で、完璧に解けたわ」
「だんだん風が暖かくなってきたわ。お義姉様が目を覚ましたら、また一緒に高原の別荘に行きましょう」
一日の終わりには、決まって祈るように、目を閉じたままのお義姉様の青白い顔を見つめて言った。
「お義姉様、お願い。目を覚まして」
お義姉様から答えが返ってくることはなかったけれど、お義姉様に話しかけることが私の日課になっていた。
いつか、クロエお義姉様が戻ってきてくれたら……
それだけが、私の希望だった。
でも、そんな私の願いも虚しく、クロエお義姉様は日に日に衰弱し、天に召されてしまった。
クロエお義姉様の側を離れることを拒んで、私は冷たくなった彼女の手を握りながら泣きじゃくった。
そのまま泣き疲れて眠ってしまい、目が覚めた時ーー私は、お母様が再婚したばかりの幼い頃に戻っていたのだった。
どうして私の時が巻き戻ったのかはわからなかったけれど、私は心に決めていた。
今度こそ、私は必ず悪役令嬢としての役割を果たそう、と。
私を優しさで救ってくれたクロエお義姉様が幸せになれるなら、私はどうなっても構わない。
二度目の私は、デイビッド様とお姉様との顔合わせの時に彼を奪った。クロエお義姉様に嫌われてしまうだろうかと思うと寂しかったけれど、背に腹は代えられない。
そして、マルティナとしての一度目の人生でお義姉様を追い詰めた令嬢たちを、一人ずつ破滅に追いやっていった。
時が巻き戻った今度は、彼女たちは私に嫌がらせの矛先を向けたから、私には彼女たちを破滅させるちょうど良い口実ができた。そのせいで、私の悪役令嬢としての立ち位置は確かなものになったけれど、かつてお義姉様を傷付けた令嬢を許すつもりなんてなかった。
取り巻きの令嬢を片端から排除していき、さらに彼の一番のお気に入りであるケイトリン嬢にまで手を出したためにデイビッド様の怒りを買った私は、今まさに、華やかな夜会の場で断罪されようとしていた。
***
デイビッド様がケイトリン嬢を背に庇うようにして、私を睨みつけて口を開く。
「いくら俺を愛するからといって、か弱いケイトリンに嫉妬のあまり害をなそうとするなんて、俺の婚約者として相応しくない。君との婚約は、今この場をもって破棄させてもらう」
デイビッド様の言葉に、夜会の場がざわめく。彼は高らかに続けた。
「マルティナ、ほかにも余罪の多い君をこのまま見過ごす訳にはいかない。君は国外追放の処分とする。君を除籍することを条件に、アントワーヌ侯爵家の責任は問わないと伝えてある」
さらに周囲のざわめきが大きくなる。
私には、クロエお義姉様を一度は死に追いやった彼への愛などこれっぽっちもなかったけれど、微笑んで答えた。
「承知いたしました。ですが……恐れながら、私を陥れた方もこの場で詳らかにさせていただきたく思います」
「何だと?」
私はお義姉様の隣に並ぶカーティス様を振り返った。小さく頷いた彼が一歩前へと進み出る。
腹違いの弟で犬猿の仲のカーティス様の顔を見て、デイビッド様は不満そうに片眉を上げた。
「カーティス、お前には何の関係もないことだろう」
「いえ。私の婚約者であるクロエの義妹君のことですから、無関係ではありません」
カーティス様は、虹色に輝く水晶玉を掌の上に取り出した。それを見て、デイビッド様が目を瞠る。
「それは、『真実の水晶』……?」
カーティス様が手にしているのは、王家の宝物である真実の水晶だった。
前世に私が読んだ小説の最後のシーンで、カーティス様がデイビッド様が起こした不祥事を暴くために使用したアイテムだ。
カーティス様が高く水晶を翳すと、不思議な輝きが水晶球の周りに溢れ出し、光の幕に映像が映し出された。
デイビッド様の瞳が揺れる。
「それは……」
その映像には、デイビッド様とケイトリン様が共謀して私を背後から湖に突き落とす場面が映っていた。
大きな水音と共に、冷たい湖に落ちてドレス姿でもがく私の姿が見える。
夜会の会場は一瞬しんと静まり返ってから、ひそひそと囁く声で満たされた。
「マルティナ様は、デイビッド様の気を惹くために自分から湖に落ちたって噂を聞いたけれど…」
「まさか、デイビッド様とケイトリン様が突き落としたの?」
デイビッド様は身体を震わせると、怒りで顔を真っ赤にして叫んだ。
「嘘だ!! こんなものはまやかしだ……!」
「嘘じゃない。お嬢様はお前らのせいで死にかけたんだぞ!!」
従者のミハエルがデイビッド様相手に食ってかかる。
彼があの時、私を暗い水の中から助け出してくれなかったら、私は今頃この世にはいなかっただろう。湖は私が想像していた以上に冷たく、そして深かった。
デイビッド様の隣で、ケイトリン嬢は真っ青になっている。
私は、きっと湖にまつわる何かが自分の身に起きるのではないかと予感していた。
マルティナとしての一度目の人生では、悪役令嬢の私の代わりにお義姉様が湖に身を投げた。
二度目の今は、私が自分から湖に身投げするつもりがない以上、湖に関係する事故か何かに巻き込まれるような気がしていたのだ。
そんな時に、ちょうどデイビッド様とケイトリン嬢が、私を湖に落として亡き者にすることをこそこそと計画しているのを耳にした。私はこれ幸いと、カーティス様に真実の水晶でこの場面を記録してほしいと頼み込んだのだ。
当時、お義姉様と私、それにデイビッド様とカーティス様、ケイトリン嬢を含む高位貴族数人が、王宮からもそう遠くない湖畔へピクニックに行くことになっていた。カーティス様は、私があまりに必死に頼むものだから、仕方なく真実の水晶を持ち出してくださったようだ。
真実の水晶が映像を再生できるのは一度きりだから、最も効果的と考えられる、数多くの貴族や王族が参加するこの夜会をターゲットにした。そうでなければ、デイビッド様に揉み消されてしまう可能性が高かっただろう。
その時、夜会の場に姿を現した国王が口を開いた。
「デイビッド。王家に伝わる真実の水晶の力を、第一王子であるお前が知らない訳はなかろう」
「父上、今の映像を見たのですか……!?」
デイビッド様の顔は、紙のように白くなった。ケイトリン嬢もわなわなと震え出す。
頷いた国王は続けた。
「お前は廃嫡とする。マルティナ嬢の命を狙った罪、その身をもって償ってもらおう。……デイビッドとケイトリン嬢を連行しろ」
兵士に連行されていくデイビッド様が、私を見つめて悲痛な叫びを上げる。
「マルティナ、助けてくれ!」
「さようなら、デイビッド様」
私は、最後に彼にとっておきの笑顔をプレゼントすると、踵を返した。
(これで、私の役割は終わったわ)
私はようやく詰めていた息を吐いた。
カーティス様は王位を継ぐことになるし、クロエお義姉様は将来の王妃になる。
ただ、私がデイビッド様の取り巻きの令嬢たちに復讐したことは事実だ。
元から国外追放は覚悟していた私が、夜会の場から足早に抜け出して王宮を出ようとしていた時、ちょうど私の背後から声がかかった。
「マルティナ!!」
「クロエお義姉様……」
クロエお義姉様は、カーティス様とミハエルと一緒に駆けてきた。
二度目のマルティナとしての人生では、いつも奔放に振る舞って、お義姉様に迷惑をかけ続けてきた私だったから、何を話せばいいのかわからなかった。
けれど、お義姉様は涙目でぎゅっと私に抱きついた。
「マルティナ、ありがとう」
「お義姉様……?」
「時が戻る前のこと、全部覚えているわ。あなたが私の側で、毎日私の手を握って話しかけてくれたことも聞こえていたの」
「!!」
私ははっと息を呑んだ。
「お義姉様も、あの時のことを覚えているの……?」
「ええ。気がついたら時が巻き戻っていて、何が起きたのかわからなかったけれど、ようやく確信したわ。あなたもあの時の記憶があるから、私のためにこんな行動をしてくれたのでしょう?」
私の両目からは涙が溢れた。
優しいお義姉様の気遣いで、実家に戻るつもりはなかった。私の未来が変われば、またお義姉様の将来も変わってしまうかもしれない。
頷く代わりに、私は願いを込めて言った。
「お義姉様、どうぞお幸せに。……カーティス様、お義姉様をどうかよろしくお願いします」
カーティス様が頷いたのを見届けてから、私はミハエルに視線を移した。
彼と別れることは、お義姉様との別れと同じくらいつらい。
「ミハエル……ごめんなさい、迷惑をかけてしまって。貴方なら、これからもアントワーヌ侯爵家で重用してもらえるはずよ」
ミハエルは、元は戦争孤児だ。母が再婚相手に嫁いでしばらくしてから、私はこの国に迷い込んできた彼と出会い、周囲が止めるのも聞かずに、彼を拾って従者にした。彼は、私が前世に読んだ小説には登場していない。
賢そうで綺麗な面立ちをした少年だった彼を、私は放っておけなかった。昔の私とよく似た、どこか虚ろで憂いを帯びた眼差しが胸に刺さったからだ。実際に彼は頭脳明晰で機転がきき、優秀な従者としていつも私の側にいてくれた。
二度目のマルティナとしての人生で私が真っ先にしたのも、彼を探すことだった。
「お嬢様、俺を置いていくなんて許しませんよ」
ミハエルは何の躊躇いもなくそう言うと、ふっと口角を上げた。
「お嬢様は俺のすべてです。ようやく俺の手が届くところに来てくれたお嬢様のことを、手放す訳がないでしょう」
彼の瞳の奥に烟る熱に気付いて、私の頬にも熱が集まる。
心が折れそうになった時、いつでも私の側に寄り添って支えてくれたのは彼だった。いつしか、私はそんなミハエルを好きになっていた。
けれど、もし周囲の誰かが私の気持ちに気付いたら、ミハエルはきっと侯爵家から追い出されてしまうと思って、その気持ちはずっと胸の奥にしまっていたのだ。
(……悪役令嬢として破滅することが、きっと彼と結ばれる唯一の道だったんだわ)
今更ながらそのことに気づいた私に、ミハエルが手を差し出す。
「さあ行きましょう、お嬢様」
「ええ」
クロエお義姉様は、私の心の内を読み取ったように微笑んだ。
「マルティナ、大好きよ。ミハエルと一緒なら私も安心だけれど……何かあったら、いつでも私を頼って」
「ありがとうございます、お義姉様」
笑顔でお義姉様とカーティス様と別れると、ミハエルは私に言った。
「こういう事態を想定して、馬車も、しばらく滞在できる先も用意してありますから」
「さすがね、ミハエルは。……でも私は、あなたが隣にいてくれるだけで十分よ」
珍しく頬を色付かせたミハエルに、私は尋ねた。
「ねえ、あなたに一つお願いがあるの」
「何ですか、お嬢様?」
「これからは、私のこと、マルティナって呼んでもらえないかしら」
ミハエルは照れたように、綺麗な顔をさらに染めながら言った。
「……わかった、マルティナ」
「ふふ。ミハエル、これからもよろしくね」
ミハエルの温かな手に、ぎゅっと力が込められる。
これまでに感じたことのないような幸せを感じながら、私もミハエルと繋いだ手をそっと握り返した。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!
また、5月9日に書き下ろし「婚約破棄され家を追われた少女の手を取り、天才魔術師は優雅に跪く」第4巻(電子書籍)が発売されます。こちらも読んでいただけたら、とても嬉しく思います。
コミカライズ版の「義妹に婚約者を奪われた落ちこぼれ令嬢は、天才魔術師に溺愛される」も、どうぞよろしくお願いいたします!