『chapter end:涙のイエスタデー』
目の前の睡蓮は、隈のある虚ろな目で俺を睨み返す。
「哀しい、ね。ただ……、そうね。疲れただけよ」
俺は間髪入れず叫ぶ。
「睡蓮! わかって欲しかったんだろ? 自分のことを! けど怖かったんだよな。理解してもらえるだなんて思えねえから。だから、謎々なんて周りっくどいことしたんだろ!」
睡蓮が苛々と歯ぎしりする。
「うるさいわね。このまま絞め殺そうかしら」
「助けてほしかったんだろうが! 」
締め付けが止まる。
俺はようやく楽に呼吸ができるようになる。
「私はお父様を産みなおすための存在よ。それ以外の在り方なんて、できるはずがない。」
「だから、どうした。例えそのために生まれたのだとしても、自由に生きたいと願うなら、そう願ってはならない理由なんかねえ! 自分が生きたいように生きることを望んじゃいけねえ理由なんてねえ! 」
クティーラが顔を歪ませて、呟く。
「……それは人間の価値観よ。いっておくけど、この現実世界を狙っているのは、父だけではないわ。あなたが今まで戦った怪物なんて雑魚でしかない。星すら滅ぼしうる邪神が相手よ。勝ち目なんかないわ。あなたもその身で味わったはずでしょう」
俺はその言葉で思い出す。
喪失と痛みの記憶を。
「どうしようもない運命ならば、身を任せた方が楽よ。なのに、どうして、あなたはそんなに必死になって抗うのかしら?
睡蓮の言うとおりだ。
辛く苦しい戦い。逃げ出したくなるようなことだって、何度もあった。
それでも戦い続けたその理由は
「抗うことを選んだから……」
俺は睡蓮に、炎の意志を叫ぶ。
「俺自身が、勇者でありたいと望んだからだ!」
睡蓮の眼が見開き、その瞳が揺れている。
「俺は女神の守護者だ。この街に住む皆、家族、友達、そしてエルピスを護るために戦う!だけど、君がもし自由になることを望むなら、俺が力になる! 必ず!」
睡蓮は首を振る。
「あなたが見た通り三人の兄はどれも強大な邪神よ。私に何かあれば、彼らが動く。私の躰を護るためにね。私を仲間にするということは、彼らが相手になるということよ」
「ああ! そいつらだって、倒してやるさ! 」
緩んだ蛸足の隙間から、俺は左手を伸ばす。
「手を伸ばせ、睡蓮! 」
力の限り、俺は想いを伝える。
「お前の運命、俺が変えてみせる! 」
「……」
蛸の触手が解け、俺は地面に着地する。
「見逃してあげる。とっとと行きなさい」
「睡蓮! 」
「……この街でこれから起きうるであろうことを、教えてあげる」
睡蓮が街の方を指さす。
「とある邪神が、この街に眼をつけた。あなたが対峙したニャルラトテップではない。それを従えうる強大な邪神」
「そんな奴がおるのか!」
ヒル子が俺の横に来る。
「ええ。まず最初は異界から眷属を送り込み、あなたたちの現実世界と繋げようとする。そしていずれは本体を顕現させる。」
俺とヒル子は睡蓮の話を黙って聞く。
「あなたたちも頑張ってはいるけれど、現実世界と異界の境界線は崩れかかっているわ。計画はもう終盤。最後の一押しとして、最も高い場所を選ぶつもりよ」
「最も高い場所……」
「ええ」
睡蓮はそれだけ言って黙って俺を見る。
「ありがとう」
俺がお礼を言うも
「言ったところで運命は変わらないわ。あなた達は負けるのだから」
睡蓮はそっぽを向く。
俺は睡蓮に背中を向け、歩きだす。
一歩、二歩、歩いて振り返る。
「なあ、睡蓮」
「なに?」
「見ててくれないか、俺の戦いを」
ルビーのように輝く睡蓮の眼が、俺をじっと見る
「どんな運命だろうと、変えることができる。それを俺が証明するからよ」
それだけ言って、俺はもう一度前を向き、歩きだす。
異界の壁がゆっくりと崩れていく。
気づけば、俺達は現実世界の砂浜に立っていた。
「ようやく戻れたようじゃの」
ヒル子が俺を見る。
朝焼けの海を見て、俺は莉々朱さんの最後の笑みを思い出す。
もう二度と誰も失わないために。
「征くぞ、ヒル子」
「おお!」
海を背に、俺は歩きだす。
最後の戦いへと向かうために。
紅い月が浮かぶ空の下、睡蓮が大岩に腰掛け、海を見る。
「望めば叶う……そんなことありえるわけないわ」
自嘲気味に呟くも、睡蓮は太陽の背中を思い出す。
もしも運命を変えうる存在がいるとしたら……。
邪神でさえも抗うことを選んだ勇者しかいない。
「そんな夢みたって、仕方ないのにね……」
紅の満月を見上げる睡蓮の頬を、涙が流れる。
「いやあ。楽しませてもらったよ! 」
とある異界の中、豪放磊落に大柄な女が叫ぶ。
「それじゃあ、行こうかねっと」
「あら、もう行くの?」
赤薔薇を手にした女が尋ねる。
「せっかく相手に相応しい人間が現れたんだ。早く見てみたいのさ」
大女は、がははと笑い、後ろに控える男の方を向くと
「ニャルラトテップ」
「はい、太母様」
「邪魔するんじゃないよ。あれは私の化身にするから」
「もちろんでございます」
黒いマントと浅黒い肌の男、ニャルラトテップがかしづく。
大女の姿が消えると、ニャルラトテップに向かって、薔薇色の髪の美女が言う。
「どう思う? 彼のこと」
「むろん、私は期待してますよ。そうでないと、この物語は終わってしまいますからね」
くくく、と笑うニャルラトテップを見て、薔薇色の髪の美女は頷く。
「そうね……」
そう言って女は、手にした赤薔薇を胸元に刺し、立ち上がる。
「最前列で見ててあげる。だから……」
薔薇色の髪の美女は呟く。
「負けないで」




