『マタイによる福音書』
「マタイ? 」
「ああ」
「マタイって何だ? どういう意味なんだよ」
夕夜はため息をつきながら
「マタイによる福音書とは、新約聖書の中の福音書の一つだ。その中のある一節に、ブドウ園の主人のたとえ、というものがある……あるブドウ園の主人が労働者を雇った。彼らの中には、朝早くから働いていた人もいれば、夕方遅くから来て少しだけ働いた労働者もいた。ブドウ園の主人はそのどちらにも同じ給料を払った」
「へえ。そりゃ早くから働いてた人からしたらキレそうだけどな」
「ああ。普通はそうだろう。私も正確な内容は覚えていないが、この物語が伝えたいのはそういった常識ではなく、早くから神を信じていた人も、遅くなって神を信じるようになった人も、分け隔てなく等しく神の恵みを授かる、ということだ」
俺のポカンとした表情を見た夕夜が
「母の受け売りだ。母は……クリスチャンだったからな」
夕夜からまさかこんな話を聞くことになるとは思わなかった。
俺は納得すると同時に申し訳なくなる。
「すまんかった、夕夜。思い出させてしまってよ」
「気にしなくともよい。母が亡くなったのは、幼い時分だ。にしても……」
夕夜が外を見て、黄昏る。
「なあ、太陽。この世界は、どこか狂い始めてる。そう思わないか? 」
「おいおい、何言って」
「茶化すな! 」
冗談かと思った俺は、夕夜の真剣な表情を見て、黙る。
「……すまん。声を荒げてしまった」
「いや、俺も茶化して悪かった。だけど、どうしたんだよ? 夕夜、お前らしくねえぞ」
夕夜が押し黙る。
「何でも話聞くぜ」
俺の言葉に、夕夜はふうと息を吐く。
「夏休みに話したこと、覚えてるな?」
「ああ。夢子っていうもう一人の幼馴染だろ」
夕夜と会った翌日、夢を見て久しぶりに思い出した。
幼い頃、公園で虐められていた彼女を、俺と夕夜で助けたことを。
「そうか……お前は思い出したんだな」
どこかほっとしたような夕夜を見て、
「お前はって、どういう意味だ?」
夕夜が周囲を見て、誰も聞いてないことを確認する。
夕夜らしくない焦った様子に困惑する俺を見ながら
「太陽。お前は中学から私立に行ったから知らないだろうが、私と夢子はずっと会ってた。というか……付き合っていた」
俺は飲んでた水を吹き出しそうになる。
「は? だってお前! 婚約者いるって」
「ああ。だから親には内緒で付き合ってた。それで、私と夢子は約束したんだ。高校を卒業したら、駆け落ちしようと」
生徒会長で真面目一徹な夕夜が話すとは想像しえない内容に、口を開けたまま俺は聞いていた。
「政治家として跡を継がせようとする父に反対されるのは目に見えてた。だが叔父だけは私を理解してくれてな。相談したら東京の会社を紹介してくれた。そこで卒業後一緒に彼女と上京する計画を進めていた。だが……ある日から急に連絡がとれなくなった」
「とれなくなったって。いつから?」
「八月七日だ」
それを聞いた瞬間、俺は背筋が凍り付く。
俺が黙っているのを聞いていると取ったのか夕夜は話し続ける。
「ちょうど連続失踪事件があった時だ。もしかしたら行方不明になったのかと思った。だから私は夢子の両親に会いに行った。そしたら、何と言われたと思う?」
「なんて……言われたんだ?」
夕夜の端正な顔つきが、段々と歪みだす。
「『誰ですか?』って言われたよ」
絶句した俺を笑いながら、
「私はふざけているのか、と思った。だが、何度説明しようと、覚えていない。というより本気で何を言っているのか分からない様子だった……」
夕夜が手にした紙コップを握りつぶし、暑いコーヒーが握った手にかかるも構わず夕夜は話し続ける。
「私は頭がおかしくなりそうだった。当時の小学校の同級生にも全員会って話を聞いた。誰も知らなかった。覚えてないんじゃない、知らないんだ。小学校、中学校にも行った。彼女の、夢子の残したものがないか……。」
「卒業アルバムは?」
「……夢子の写真の箇所にあったのは、見知らぬ女だった」
冷静沈着な夕夜がここまで取り乱すのを初めて見た。
「なあ、太陽。お前だけだ。思い出したのは。夢子のことを。何か知らないか? 」
俺は、夕夜に言うべきか迷う。
この世界に邪神が襲ってきていることを。そして、俺がそれと戦っていることを。
もしかしたら、何か関係があるかもしれねえ。
『……どうするのじゃ?』
ヒル子の問いかけに、俺は心の内で首を振る。
この戦いに、一般人である夕夜を巻き込むわけにはいかねえ。
「わからねえ」
「そうか……」
「けど、何かわかったら、必ず夕夜に伝えるぜ」
夕夜は俺を見て力なく頷くと、それ以上口を開くことはなかった。
夕夜と店の前で別れた後、俺はゲームショップEDENに向かい、店長と話す。
「そっか。マタイによる福音書だったとはね」
「その、キリスト教とやらの逸話を、何で睡蓮は言ってきたんじゃろうな? 邪神の眷属のあやつであれば、関係ないと思うのじゃが」
ヒル子の言うとおりだ。
「福音書とは別の意味で言ってるかもしれねえってことすかね」
店長はうんと頷く。
「それに、夢子さんっていう夕夜君の彼女のことも気になるね。一人の人間の存在を完全に消し去る。それも周囲の記憶もろとも何て、できるとしたら邪神しかいないだろう」
「っす」
俺は夕夜に言うべきだったのではないかとの言葉が頭を離れない。
「彼の言うとおり、君がエルピスちゃんと出会ったあの日から、世界が狂い始めたのは間違いない。けど、睡蓮さん。邪神の一味である彼女をもし仲間にできたら、世界から消えた夢子さんをついてもわかるかもしれない」
ヒル子が手を叩く。
「なるほどのう! あの女なら、邪神についても詳しく知っているはずじゃ」
「だから、太陽君が気に病む必要はない。君はこの世界を守護ってるんだから」
俺ははっと顔を上げる。
店長がにこっと笑う。
「一般人である幼馴染の友達を巻き込むわけにはいかない、と考えた君の判断は間違っていないさ」
「……あざっす」
と俺は頭を下げる。
俺は家に帰り、リビングに入ると、テーブルの上で母ちゃんが何か箱を開けていた。
「ただいまー」
「お帰り、太陽」
俺は階段を上って、自分の部屋に入る。
重い腰をあげて小論文のテキストを広げるも、全くやる気にならない。
「なあ、ヒル子」
「なんじゃ? 」
ヒル子は漫画を読みながら、浮かんでいる。
「予言のこと。お前はどう思う? 」
「そうじゃのう」
ヒル子が漫画を放り、俺を見る。
「我はそう予言には重きを置いてはおらん」
「なんでだよ?」
「まずはノーデンスの言うことじゃからの。我は信じとらん!」
キレるヒル子に苦笑する。
するとヒル子が目を細めて俺を見る。
「それにじゃ。太陽……予言に従わずとも、お主は為すべきことを成し遂げるからじゃ」
ヒル子の姿が何だか大きく見える。
気恥ずかしくなった俺は顔を背ける。
すると部屋のドアががちゃっと開けられ、ヒル子が即座に姿を消す。
「太陽。あれ、誰かいたの? 声が聞こえたけど」
「電話、電話。ノックしてくれよ、母ちゃん」
「はいはい、悪かったわ。陽芽の水泳教室迎えに行って、買い物もいってくるわ。あ、冷蔵庫におばあちゃんから送ってもらった果物あるから」
「さっきの箱? なんの果物? 」
「ブドウよ。しかもただのブドウじゃないわ。シャインマスカットよ! 」
「まじかよ! 超高級な奴じゃねえか!」
「夕食後にみんなで食べるから、先に食べないように。いいわね」
「わかってるよ」
と母ちゃんが降りていき、玄関から出ていく。
俺は階段を降りてリビングに向かう。
「なんじゃ、そのシャインマスカットとやらは」
「見た方が早い」
俺は冷蔵庫をあけると、よく冷えた、大きな房のついた宝石のように輝く白葡萄が入っていた。
「たいそうな果物じゃのう! 見たことないのじゃ」
「高級品だぜ! 俺も殆ど食べた事ねえ!」
と俺は閃く。
「これだ」
「は?」
と、房からちぎった葡萄をもぐもぐ食べるヒル子を止めるべく襟を引っ張る。
「ぎゃっ! なにをするんじゃ?! 」
「ブドウだ! これを睡蓮にあげるんだよ!!」




