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『邪神の姫君』

 その夜、俺はエルピスを家まで連れて帰ると、陽芽が飛び跳ねながら喜びを爆発させ、エルピスに抱き着いていた。


 陽芽にしがみつかれているエルピスに見送られながら家を出る。


 母ちゃんには友達に勧められた予備校に行くと嘘をつき、何とか家を抜け出す。


 夜の街を飛ばし、自転車を一時間程漕ぎ続け、ようやくビーチに辿り着く。


 暗闇の海。


 俺は自転車から降り、ガードレールに立てかける。


 砂浜に向かって歩いていると、不自然に赤いコーンが並べられそして黄色い立ち入り禁止のテープが張られている場所がある。


 だが、そこには複数の足跡とクレーターがあるだけだった。


「ふむ。見たところ特に何もないようじゃが」


 ヒル子が手を額の前にあげ、遠くを見ながらきょろきょろする。


「だな」


 俺も周りを警戒しながら、砂浜を歩き続ける。


 細波が、静かに音を奏でる。

 夜空を見上げる。


「満月か……」


 あの日、エルピスと一緒に見上げた時を思い出す。

 その時はとても美しく見えたのを覚えている。


 すると、暗雲が満月を覆う。


 「なんじゃ? 月が消えたのじゃ」


 ヒル子が言った直後、暗雲が流されていき、そこから現れたものを見て、俺は背筋が凍り付く。 


 現れたのは、血で染まった真紅の満月だった。


 同時にイマジナイトが展開し、警告するように光を放つ。


「太陽!」


 変質し歪められていく周囲の景色に遅れまいと俺は叫ぶ。


「イマジナシオン!! 」


 変身と同時に、鮮血の夜空を稲妻が走る。


 異界に引き擦り込まれたと思ったその時だった。


「あら、どなたかしら? 」


 耳朶を震わす蠱惑的な声が背後から聞え、俺は振り向く。


 巨大な翼をはためかせた美女が、黒い大きな岩の上に足を組んで座り、俺を見下ろしていた。


 頭にはヴェールを被り、その下には煌めく銀髪が、星のように瞬く。


 漆黒のドレスは、胸元とおへそまで大きく開いていて、少し動けば中身が見えそうな程、煽情的だった。


 その瞳は血のように紅く輝き、俺達を見下ろし、微かに目を細める。


「お主、何者じゃ! 」


 ヒル子が尋ねるが


「あら、私の異界に土足で入ってきたのはあなた達よ。ならまずはそちらが名乗るのが礼儀じゃないかしら? 」


 人外の雰囲気を醸し出す、魔性の美女。


「明らかに邪神に連なる者じゃのう。気を付けよ、太陽」


 ヒル子の声で、いつまでも見ていたいという欲望が湧き出るのを何とか抑え込み、俺は口を開ける。


「俺は……八剣太陽。女神の守護者だ」


 そう名乗ると、美女の眼が細くなる。


 口が僅かに微笑む。


「へえ……あなたが噂の、女神の守護者なのね」


「太陽のことを知っておるのか! 」


「勿論。なにせあなたは、あの燃ゆる妖星を除いて、外なる神であるニャルラトテップを退けた唯一の人間なのだから」


 そう言うと、美女は妖艶に笑みを浮かべる。


 捕食者の色をその瞳に宿す美女に向かって俺は叫ぶ。


「お前は一体、誰だ! 」


 俺が問いかけると、美女はもったいぶったように頬に手を当てる。


「そうね、ただで教えてあげるのは何だかつまらないから……」


 と言うと銀髪の美女はその背中の両翼を広げ、浮かび上がり、俺を見下ろす。


「私を楽しませてちょうだいな」



 凄絶な笑みを浮かべた瞬間、太ももとドレスの隙間から、何かが這い出る。


 それは吸盤を持つ、蛸の脚だった。


「なっ?!」


 驚愕している間に、巨大な蛸の脚が何本も俺目掛けて伸びてくる。


 俺は咄嗟に転がりながら避け、剣を握る。


「ほらほらほらほら」


 次々と伸びてくる脚を、剣で薙ぎ払い、切り裂いていく。


 飛び上がろうと見上げるも、女がいない。


「どこいきやがった?! 」


「太陽、後ろを向くのじゃ! 」


 俺はそのまま背後の上空を見ると、満月を背に巨大な翼を広げた女が、再び巨大な蛸脚を伸ばしてくる。


 砂浜に大穴を穿つそれを何とか避けながら、包囲網から抜ける。


「これでっ」


 何とか体勢を立て直そうとするも、くすくすと聞こえる笑い声に、俺はまだ危機が迫っていることを悟る。


 俺は背後に巨大な何かを感じ、咄嗟に横っ飛びで避ける。


 女は両翼を広げ、縦横無尽に飛び回り、蛸足で攻撃を仕掛けてくる。


「何とか凌ぐのじゃ!」


「わかってらあ!」


 近づこうにも、その隙がなく、反撃の糸口を掴めない。


「こっちよ」


 焦燥感がつのった俺は咄嗟に振り向くと、俺の目の前、鼻先が触れる寸前の距離に女がいた。


「なっ?!」


 その紅玉の瞳を見た瞬間、身体が固まる。


 氷漬けになったように、身動きがとれなくなる。


 気付けば、俺の手から剣が離れ、砂埃を巻き上げ、倒れる。


 女が手を口で押え、ほくそ笑む。


 俺は何とか抗おうとするも、身動き一つとれない。


「太陽、何をしておるのじゃ! はよ逃げるんじゃあ!」


 女がゆっくりと近づいてくる。


「流石は勇者様、と言いたいところなのだけど……この程度なのかしら? 」


 女の白い手が兜に触れる。


 ミシミシと悲鳴を上げ、兜が砕け散る。


 剥きだしとなった俺の顔。その顎に白くて細い指が触れる。


 ぞくぞくとした高揚感と、背筋を凍るような恐怖が喉の奥から出ようとするも、声一つあげられないまま、為すすべもなく、女を見るしかない。


「太陽から、離れるのじゃー! 」


 ヒル子が飛び掛かるも、丸太のような蛸の触手に叩き落される。


「どこの神か知らないけれど、その程度の力じゃ、相手にならないわね」


「ぐぬぬぬ! 畜生めが!! 」


 ヒル子が蛸脚に押しつぶされながら、何とか抜け出そうとする。


 女の手が俺の唇に触れ、女の顔が近づいてくる。


「あのニャルラトテップを退けた人間と聞いたから、もっと楽しめるものかと思ったけれど、残念ね。それじゃあ……」



 俺はここで、終わるのか。


 この女にただ無残に殺される。

 諦めが心をよぎるも、エルピスの顔が浮かんだその時、心に火が灯る。


 俺には、護るべき人がいる。

 簡単に諦めるわけにはいかねえ!


 全身全霊の意志を込め、俺は身体に力を込める。


「お、れ、は……ま、だ……負けちゃ……い、ねえ」


 僅かに開いた口で言葉を紡いだ俺に、目の前の女が微かに目を丸くする。


「少しは見直した方がいいのかしら、ほんの僅かとはいえ私の眼に抗えるのであれば。けれど」


 再び、女の両目が紅く輝き、俺は口を開いたまま動かなくなる。


 何とか目だけ動かし、俺は女を睨みつける。


「本当はもっと楽しみたいのだけど、あなたを生かしておくわけにはいかないの」


 女が近寄ってきて、俺の耳元に息を吹きかける。


 くそっ! ここまでなのか、俺は!?


 女が俺の耳元で呟く。


「さようなら」


 心の底から溢れる想いと共に、あの人の顔を思い浮かべたその時だった。


 

 視界の端で、倒れていたはずの剣が浮かび上がる。


「何? 」


 女が剣の方を振り返る。


 俺の視線の先、浮かび上がった剣の柄の中心に、模様が刻まれ、形と成していく。


 現れ出たのは、薔薇の花だった。

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