月曜日
カランカラン。
「ありがとうございます。———またお越しくださいませ」
最後の客の少し丸まった背中を見送り終わると、女の細い体に、八時間勤務の疲れが一気に押し寄せてきた。癖づいたいつもの角度から、店長お気に入りのアンティーク調の振り子時計を覗く。時計は曖昧に、二十二時すぎを指していた。
「あ、五卓」
「どうしたんですか」
「また少し残して帰った」
シフトがいつもかぶる佐々木という男は、先刻帰った客のコーヒーカップを覗きながら、女に聞こえるようにそう言った。そして、「毎回だよなあ、これ」と呆れ口調で付け足した。
「そうですよね」
「だよな」
「癖なんでしょうか」
「癖ねえ」
カランカラン。
プレートをひっくり返すため扉を開けると、秋夜の冷たい風が、生あたたかい店内に這ってゆくのを女は感じた。外気に頭がくらっとするくらいには、彼女の疲れはピークに達していた。
キッチンに回ると、佐々木は、すでにカウンターのカップをシンクに運び終えており、冷蔵庫を覗きながら明日のモーニング用の食パンを数えていた。昼にはスラックスにしっかり仕舞われていたワイシャツがだらしなく出ており、おまけに少し柄物のトランクスが見えていたが、それを冗談混じりに言えるほど、女は彼と仲良くはない。すぐ目を逸らし、足早にシンクに向かうことにした。
彼がシンクまで運んだあの客のコーヒーカップには、いつも通り、5分の1ぐらいの液体が、蛍光灯を浴びてゆらゆら揺れていた。女はそれをしばし、意味もなく眺めていた。
「あのじいさんさ、なかなか帰ってくれないし、こんな時間までいるなんて、あの歳で家族とかいないのかね」
明日の仕込みを手際よくしながら、佐々木は嫌味っぽくそう言った。
「……確かに」
「独身貴族っぽいよな」
「ですかね」
「でもさ、ぶっちゃけ老後はつらいよ、絶対」
「うーん」
「態度も偉そうでさ、頑固だし」
「まあ」
「ああはなりたくないなあ」
あの客はいつも、二十時過ぎに夕刊を読みにやってくる。ヴィンテージっぽいベストと金縁のメガネの奥の、色素の薄い瞳が印象的で、毎回店で一番高いゲイシャを注文する。眉間と深い皺ときつく結ばれた口元から、確かに頑固さは女にも見て取れた。年は六十代後半に見えた。
「はは、ですかねえ」
女はいつものように、毒にも薬にもならない乾いた返事をして、そうとはバレないよう、すべてをかき消すように蛇口をひねった。コーヒーカップ中の黒がどんどん薄まって、茶色になって、透明になる。ソーサーの溝に水が溜まって、すぐにそれもシンクに溢れていく。彼女は、淡々と色が変わるそんな当たり前の現象から、妙に目が離せなかった。
「そういえばさ」
佐々木が背後で、今度はとぼけたように言った。
「この間入ってきた子、なんて言ったっけな」
「……ああ、今野さん?」
と、女は、思い当たる少女の名前を口にした。
「ああ、そうそうその子」
「二週間前くらいですかね」
「高校生だったっけ?」
「確か———」
「俺シフト被んなくてさあ、まだ会ったことないんだよね」
次々と彼の口から出る文字列を、女は泡のようだと思った。
「そうなんですか」
「そうそう、どんな子?」
「うーん、まあ、いい子ですよ」
「へえ」
「仕事覚えも———」
「え、ぶっちゃけ、かわいい?」
だが佐々木は、女と話したいわけではない。沈黙を作らないこと。それが会話の目的だった。そしてこの男は、会ったこともない人について話すとき、最初にそんな質問をするような人だった。
「———まあ、可愛らしい女の子ですよ」
「やっぱそうなんだ、なんか山口がさ、言ってたのよ」
「へえ」
「アイドル志望らしいよ」
「ああ、だから」
それからも佐々木は女に一方的に話をし続けた。彼女はうまく返事をできているか些か不安であったが、佐々木にとってそれは大した問題ではなかった。
「いやあ、疲れた。今日はよく寝られるわ」
「ええ」
「じゃあ、お疲れ」
佐々木が駅の方向へバイクを走らせてゆく。その背中をぼんやり見届けながら、駅前のバイク事故で男が一人死んだ、と、明日の昼のニュースで流れるのを想像して、彼女は満足するのだった。
女が家に帰ったのは二十三時ごろ。崩れたメイクを落として、シャワーを浴びる。シャンプーのポンプが軽くなったのに気がついて、もう替え時か、と、独りごつ。そして、シャワールームを出てスウェットに着替えると、ご飯を食べることもなく乱暴に横になった。
———佐々木は、自分とはちがう、と、女は思った。彼女ははじめて彼に会った時からそれを知っていた。彼女にはわからなかった。沈黙を回避するためだけに内容のない会話をする意味も、恋愛対象にされるはずもないバイトの女子高生の容姿を気にするわけも。
そして、女にはわかるのだ。あの客が、なんでこんな遅くまで喫茶店にいるのかも、なんでコーヒーをちょっとだけ残すのかも。
時刻は二十三時五十四分。