002.日常崩壊前
蒼佑の部屋は立川駅から少し離れた、多摩川が近くに流れる住宅街にあるアパートの3階だった。
アパートの入り口は最新式のオートロックでセキュリティも高く、音大に通う学生も住んでいるので防音もしっかりしていた。
間取りも1LDKと小さいながらもリビング・ダイニングがあり、自室と分かれていた。
高校生の一人暮らしにしては贅沢な部屋だが、蒼佑が望んだものではなかった。
蒼佑の実家は自分で言うのもなんだが、おそらく富裕層なのだろう。
芦屋にある自宅は庭付きの戸建てで、車も3台所有している。
蒼佑だけでなく、姉の紅羽も幼い頃からジュニアテニスアカデミーに通っており、基本レッスンだけでなく、それぞれ個別のプライベートレッスンにも力を入れてくれていた。
それ以外にも大会参加費や遠征費など考えると、二人合わせて一体いくらかかったのだろう?と、後々思い返してみると驚きを隠せない。
だから、蒼佑は上京するというワガママを押し通すに当たって、最低限の家賃や生活費で済ますつもりで両親と話していた。
どうせ部活で疲れて帰って寝るだけの部屋だし、そもそも男一人なのでボロアパートで十分だろうと考えていた。
最低限、部屋にバス・トイレは付いていて、自炊できるだけのキッチンスペースさえあればよかったのだ。
だが、両親がそれを許さなかった。
そもそも高校から東京で一人暮らしをすること自体に抵抗があったのだから仕方ない。
高校までは実家から通って、大学から東京というのは両親も納得できたのだろう。
姉の紅羽もそうだったように。
ただ、蒼佑はそうしたくなかったのだ。
早く実家を出たかった。
そんな蒼佑に両親は「なぜそんなに急いで東京に行きたいんだ?」と至極当然の疑問を投げかけてきた。
これといって不自由なく、それどころか金銭的にも恵まれた家庭環境だったことは自覚している。
それでも、蒼佑にはなんとも言えない違和感を感じる家だった。
紅羽が東京の大学への進学を決めて家を出てから、その違和感は真綿で首を絞めるをしめるように、より一層蒼佑を悩ませていた。
言語化できないその理由と、何不自由なく育ててくれているはずの両親への罪悪感ともいえる感情からいち早く逃れたい一心で東京行きを決めたのだった。
だから、両親に本心なんて伝えることはできなかった。
初めは紅羽と同居することを前提に交渉しようと考えたが、大学に通う姉と生活時間も異なるであろうし、決して姉弟仲が悪くないとはいえ姉のプライベートに近すぎるのも気が引けたのだ。
色々な背景と感情が混ざり合って最初のボロアパートでの提案となってしまい交渉は決裂するかに思えたが、予想外に紅羽が援護射撃してくれたことには感謝しかない。
その際に紅羽からは両親を安心させるためにも「家賃の心配よりもセキュリティの安全面を気にしなさい。」とアドバイスされた。
そんな紅羽の後押しと、「東京で何かあったら私がフォローするから安心して。」というダメ押しで、金持ちで姉に甘い両親は陥落したのだった。
自室の扉を開くと、リビングも同じ暑さの空気が漂っていた。
(せっかく買った卵もダメになっているかな?)
半分諦めてはいたが、とりあえず中身を見てみようとしていた。
中身を見たところでよくわからないし、臭いさえしてなければ焼いて一気に食べてしまおうぐらいに考えていた。
キッチンに目をやると、案の定流しの横にスーパーの袋が置きっぱなしになっていた。
(とりあえず冷蔵庫に入れてから風呂に入ればよかった...。)
軽い後悔と共にビニール袋を手に取った。
中には卵以外にも野菜やタイムセールになった肉も入っていた。
野菜は根菜類を買っていたのでまぁ大丈夫かなと勝手に決めつけたが、肉はちょっと食べられそうになかった。
気を取り直して卵のパックを手にとって袋から取り出した。
いつも買っている一番安い卵とは違い、透明のプラ製パックではなく紙製のパックだった。
中身が見えないから変色したりしてないか少しドキドキしたが、肉と違って卵は殻に覆われているから大丈夫じゃん!と自分に言い聞かせた。
紙パックを開くと、いつも買っているものよりも大振りな卵が10個並んでいた。
「う〜ん。焼いちまえば大丈夫かな?」
そう呟いたものの、やはり中身を見てみようと思い、後ろの食器棚に視線を移した。
料理用のボールを出そうかと思ったが、大きくて洗い物が面倒なのでとりあえず茶碗を取り出すことにした。
茶碗を手にとって振り返るまでほんの数秒だけ卵から視線を外していた。
だから、振り返った瞬間に卵の一つが急に動き出したことにびっくりした。
「わっ!」
「えっ!ヒヨコ?」
蒼佑は混乱していた。
(いくら室温が上がっていたとはいえ、たった1日で孵化するものなのか?)
(それよりも、ヒヨコってどうするんだ?)
(この部屋で飼えるのか?)
(鶏になったらしうるさくないか?)
(いやいや、そもそも飼わないでしょ!)
(でも、どうしたらいいんだ?)
(ヒヨコを捨てるのは無理でしょ!)
蒼佑は驚きのあまり声を出すことを避けて頭の中で声を出していた。
短い時間でも頭の中ではグルグルと色々な想像が駆け巡り、中でもダンボールに入れられて多摩川の橋の下に捨てられているヒヨコの姿は蒼佑の良心をエグッていた。
(それは無理!)
とりあえず何もできずにただ見守っていると、卵にヒビが入り始めた。
これから先どうしよう?という不安と、ただ単純にヒヨコが卵の殻を割ることを応援する気持ちとで複雑な気持ちだった。
(とりあえず、あとで姉ちゃんに相談しよう。)
そう心に決めると、誕生の瞬間を目のあたりにできる楽しみでドキドキしてきた。
この後に起こることなど想像もできず、蒼佑はただただ無責任に生命の誕生を応援したのだった。