前編
侯爵令嬢とその婚約者と、二人に絡むお邪魔虫×2。
一見ありがちな構図ですが、やっぱりありがちではないお話です。
キーワードを確認の上でお読みください。
遡ること二十年前、王立学園の卒業式において、侯爵令嬢が公爵子息に婚約を破棄されるという事件があった。
そして現在、奇しくも同じような時期に似たような騒動が、学園の食堂を舞台に繰り広げられていた。
「エリスレア・バーヘイゲン! 嫉妬のあまりに隣国の王女殿下を虐げるなどという、貴様のような身の程知らずの無礼者が、我がフォルテス公爵家と婚姻を結ぶなど許しがたい! よって、フォルテス家嫡男たる我がディーンハルトの名において、即刻我が弟ランベルトとの婚約を破棄することを命じる!」
「「お断りいたします」わ」
大貴族の子息に相応しい、よく通る凛とした声で紡がれた言葉はしかし、対象となった令嬢と、他ならぬ彼自身の双子の弟に鮮やかに一刀両断されたのだった。
予想外も極まる反応をされ、妙齢の令嬢の胸を騒がせてやまないディーンハルトの華やかな顔立ちが、怒りのあまり見事なほどに真っ赤に染まる。
「な……ぶ、無礼だぞ貴様ら! この私が、筆頭貴族たるフォルテス家を思って出した正当な命令を、言下に切り捨てるなど……!」
「これはこれは、兄上らしくもない姑息なお言葉ですね。最愛のマルティナ王女の御為と、正確なところを仰っては如何です? 兄上が隣国の第三王女殿下に恋い焦がれていることは、既に学園中、いえ王都中の噂になっていますよ」
主に悪い意味で、という副音声は、幸か不幸かディーンハルトの耳には届かなかった。
「ま、まあ……王都中の噂だなんて。ランベルト様、どうか誤解なさらないで。確かにディーンハルト様は、隣国からの留学生として右も左も分からぬわたくしに、いつも優しくしてくださって、とても感謝しておりますわ。でも、わたくしが心から想いを寄せる殿方は、世界で一人きりですのよ。それは、ディーンハルト様ではなくて──」
「そうですか。殿下がどなたに想いを寄せようと、私には何ら無関係と申しますか、本音を言えば甚だどうでもいいので、是非私にもエリスにも、ついでに兄上にも恋愛的な意味では関わらないでいただきたいのですが」
「そ、そんな……!」
「ああ、マルティナ殿下。無粋に過ぎる不肖の弟のために、美しい貴女が涙を流されるなど……兄として、弟の不徳を深くお詫び申し上げます」
「ディーンハルト様……」
などと、どう見ても恋愛劇としか思えないやりとりを展開するのに忙しくしていたから。
一応、王女が想いを寄せているのは双子の兄ではなく弟ということになっており、兄はあくまでも王女への友情から、彼女の恋が実るよう全力を尽くしているのだそうだが……こんな光景を毎日のように公衆の面前で披露されては、むしろ名もなき生徒たちは、「兄とさっさとくっついてしまえ!」と叫びたくなってしまっている。
ギャラリーが必死で突っ込みたいのをこらえる中、槍玉に挙げられた侯爵令嬢エリスレアが口を開く。
曾祖母譲りの大人びた美貌と、父そっくりの神秘的な雰囲気にはそぐわないが、十七歳という実年齢には相応な仕草で小首を傾げ、不思議そうに問いを発した。
「わたくしがマルティナ殿下を虐げた、との仰せですけれど。そもそもわたくしは第二学年で、一学年の殿下とはクラスどころか学年も違いますのよ。虐げる以前に面識自体がほぼございませんし、接点も皆無ですのに、一体どこからそのような話が聞こえてきたのでしょう?」
すると、マルティナへの優しくも甘い態度とは一変、ディーンハルトは親の仇でも見るように、弟の婚約者を睨み付ける。
「マルティナ殿下ご自身より、涙ながらに相談を受けたのだ! 貴様はこともあろうに、『王女とは名ばかりの妾腹の姫風情が、我が婚約者たるランベルト様へ近づこうとするなど到底許せない』などと暴言を吐いたそうだな!? 昔から嫌味で高慢な女だと思ってはいたが、更に磨きがかかったと見える!」
「……別にわたくし、必要以上に近い距離でさえなければ、どなたがランベルト様に近づこうと咎めはいたしませんわよ? ランベルト様はどなたかと違って、浮気性を患ってはいらっしゃいませんし」
さらりと皮肉る言葉は、プレイボーイと名高いディーンハルトの耳に痛撃を与える。
「まあ、マルティナ殿下に関しましては入学直後に一度だけ、『どちらのご令嬢かは存じませんが、婚約者でもない殿方にむやみに近い距離で接しようとなさるのははしたないことですわよ』とご注意申し上げたことは今思い出しましたけれど。──とは言え、この際ですので暴露してしまいましょうか。わたくしはフォルテス公爵閣下より、出来る限りマルティナ殿下をランベルト様に近づけぬようにと、幾重にも念を押されておりますわ」
ごく当然のように付け加えられた一言に、びくりとマルティナの小柄な体が震え、ディーンハルトはまたもや怒りに顔を赤らめた。
「──そのような理不尽な依頼を引き受けるとは、やはり貴様は殿下を疎んでいるのだな!? 父も父だ! 隣国の王家が我が家と縁付いてくださるなど最高の誉れなのだから、早くバーヘイゲン家の説得にかかればいいものを、よりにもよって『王女との婚約など、どちらの息子にも絶対に認めぬ』などと断言するとは!」
「兄上、それは誤解です。父上が認めないと仰ったのは、単に『王女との婚約』ではなく、『マルティナ王女との婚約』ですよ」
追い打ちをかけられたと思ったのだろう。念を押すようなランベルトの発言を聞いたマルティナは、既に潤んでいた瞳から、つぅ……と一筋の涙をこぼした。
「ああ、ランベルト様までそのようなことを……やはり、わたくしが側妃ですらない、愛人から生まれた王女だからいけないのですね……」
「論点はそこではありませんよ、マルティナ殿下。私が貴女を責めるとしたら、最愛の婚約者であるエリスを、根も葉もない虚言で貶めようとなさったことです。──言わせていただくなら、妾腹の王女という事実を誰より恥じて気にしているのは、他ならぬ貴女ご自身では?」
「────っ! あ、貴方に──貴方たちに、わたくしの何が分かると言うのですか! 両親がともに、れっきとした貴族である貴方たちになど、わたくしの気持ちは絶対に分からないわ!」
きっ、と。涙の残る瞳で恋する男性を睨むが、ランベルトはやはりほとんど動じてはくれず、軽く苦笑いを浮かべるだけだ。
──マルティナは、フォルテス家の双子とは同時に顔を合わせたが、ディーンハルトよりも弟のランベルトの方に、初めて会った時からずっと、驚くほどに強く心惹かれている。双子だけあって顔立ちはよく似ているものの、明るいと言えば聞こえはいいが軽薄さがにじみ出ている兄と、正反対に芯のしっかりした、決して揺るがぬ雰囲気をもつ弟では、彼女の好みに合致するのは後者だった。
けれど彼には、幼い頃からの相思相愛の婚約者がいた。王家の血を色濃く引いた、正統な王位継承権までをも有する侯爵を父とし、歴史ある侯爵家の令嬢を母にもつ、血筋や容姿、能力にさえ、一切の瑕疵もない理想的な貴族令嬢が。
──妬ましかった。ともすればマルティナよりも王女に相応しい生まれであり、令嬢としても全てを兼ね備えたエリスレアが。マルティナが求め、誰よりも手に入れたいと思っている男性の、正式な婚約者である彼女が。
だから彼女を、エリスレアを貶めようとした。それが上手くいけばランベルトは婚約者を見放し、こちらを振り向いてくれるに違いない。エリスレアとの結婚後は、フォルテス家の有する伯爵位を継いで分家となる予定のランベルトだが、王女たる自分を娶ることができれば、兄を蹴落として彼が公爵家当主となることも可能なのだから。既に広まっているらしいディーンハルトとの噂が問題と言えば問題だけれど、結婚後にはランベルトの妻らしく、同時に恋人らしく人前で振る舞ってみせれば、以前の噂などじきに消える。
ディーンハルトには、当主の座を弟に譲らせることになるのは申し訳ないとも思うものの、お詫びも兼ねて少しばかり慰めてあげたし、今後もそうすることはやぶさかではない。
そもそも彼は女好きで、それに見合うだけの豊富な経験も積んでいるのだ。マルティナのことは隣国王女という立場もあり、それなり以上に好いてくれているが、それは間違っても恋愛感情ではない。むしろ彼は内心、エリスレアに拗らせた好意を抱いているから、「ランベルトとの婚約破棄後、正式に彼女を妻として娶ってやれば、フォルテスとバーヘイゲンの両家も納得できる結果になる」という説得と、数時間ほどをベッドで過ごすことで素直に協力を約束してくれて、今では立派な共犯者となっている。マルティナの国では、婚姻政策により国外に嫁ぐ可能性のある女性たちには、例外なく房中術が叩き込まれるため、マルティナも自分の体を交渉の材料として使うことに一切の躊躇はなかった。
今後もディーンハルトとは、義理の兄妹として長い付き合いになるのだ。お互い恋愛感情はなくとも相性は最高なので、それぞれに結婚した後も、彼とは関係を続けることで一致している。うっかり別の種が芽吹いてしまっても、彼らは双子の兄弟なのだし、子供の容姿で疑われることにはならないはずだ。血筋の上でも、どちらの子が公爵家を継ごうと何ら問題はないのだから。
そんなことを考えていると、ディーンハルトが別方向から、弟とエリスレアに攻撃を仕掛けようとしていた。
「口を慎め、ランベルト! 大体、お前やお前の婚約者に、マルティナ殿下のお心についてどうこう言える筋合いはない! そもそも恥じるべきと言うならば、バーヘイゲン侯爵夫人がかつて、我らの父に婚約を破棄されたのは有名な話だし、先々代侯爵家当主エヴァンジェリカも──」
──ヒュン、と。
口上を遮って、飛来した扇が風を切り、ディーンハルトの首筋を軽くかすめた。極薄の刃を宿したそれの接触部分には、文字通りのかすり傷ができ、ほんの少しばかりの鮮やかな血をにじませる。
特殊な細工でもされているのか、扇は見事に弧を描き、投擲した主──エリスレアのもとへと返っていく。
……ぱしっ、と当然のように自らの扇を片手で受け止め、慣れた様子で元のように口元にかざしながら、エリスレアは変わらぬ冷静な表情で、淡々と謝罪を口にした。
「失礼、手が滑りましたわ。護身用の武器とは言え、やはり適度に使用しなければ腕が鈍りますわね」
「な、な、なっ……! エ、エリスレア、貴様──!」
「兄上、今ここで口を慎むべきは貴方ですよ。他ならぬ我々の母こそが、父と侯爵夫人との婚約破棄の原因で、母が父の正妻の座を射止めるために夫人に冤罪をかけたことは、とうの昔に明らかになっているのですから」
──どこかで、聞いたような話だわ。どこでだったかしら……
記憶を探るマルティナは、ちらりとこちらを見たランベルトの視線には気づかなかった。
「だ、だが! 父はとうに母を離縁して悔い改めているだろう! だからこそ、お前とエリスレアとの婚約が成立したわけで──」
「確かに、過去の件に関しては、夫人の実家やバーヘイゲン家は許してくださってはいるでしょう。何だかんだと父も報いを受けましたからね。ですがだからと言って、現在の兄上の暴言まで許容するかは全く別の問題です。……大体、エリスがエヴァンジェリカ様を敬愛していることくらいは、仮にも幼馴染みならばよくご存知でしょうに。何故兄上は昔から、無駄にエリスを怒らせようとなさるんでしょうね?」
「うぐ……!」
「ああ、口先だけの謝罪なら結構ですわ。心のこもらない言葉など、何の意味も持ちませんもの。……それでも、謝罪すらなさらない御方よりは、よほどましと言えますけれど?」
ディーンハルトを冷ややかに切って捨てたエリスレアは、真っ向からマルティナの目を見据えて語気を強める。
結局、該当する記憶にたどり着けなかったマルティナは、喧嘩を売るような様子の侯爵令嬢に、王女のプライドをもって対峙した。
「あら。わたくし、どなたかに謝罪しなければならないことをしましたかしら?」
「まあ、恐れながらマルティナ殿下は、記憶するということと、正確な聴力にあまりご縁がないようですわね。つい先ほど、わたくしが言ってもいないことを言われたと仰り、ディーンハルト様を誘導して公衆の面前で貶めようとなさったことも覚えていらっしゃらないのですか?」
「実際に口にはしていなくとも、貴女の目がそう言っていましたわ。わたくしは何も悪くありません」
「そのような被害妄想が言い分として通じると、本気で信じておいでなら、おめでたいにもほどがおありかと。──やはり殿下は、ディーンハルト様と同じかそれ以上に、母君によく似ていらっしゃるようですわね」
とっさに意味が理解できず、マルティナは思わず柳眉をひそめた。口調も素に戻ってしまう。
「──一体何が言いたいの? 貴女の言葉の意味するところが、わたくしには全く分からないわ」
「それは後ほど、ディーンハルト様にお聞きくださいませ。ディーンハルト様は是非、母君の離縁後の消息をたどってみることをお勧めします。そうすれば、公爵様が何故お二人にマルティナ殿下との婚約をお許しにならないのかが分かるはずですわ」
「もしも面倒だと仰るなら、私の口からこの場で詳細にお教えいたしますよ」
にこやかに申し出るランベルトだが、その目は欠片も笑っていない。
言い知れぬ不安が背筋を走るものの、提案そのものはマルティナには嬉しいことでもあるので、必殺の上目遣いで少々の変更を願い出てみた。
「それは、この場でなくては駄目でしょうか? ことはどうやら、フォルテス家のプライベートに関わるお話のご様子。そのようなことを話題になさるのなら、可能な限り他人のいない場所がよろしいですわ。今日は全学年が午前授業ですから、ランベルト様も時間に余裕はありますでしょう?」
「なるほど、それは賢明ですね。では図書館の自習室へ参りましょうか。兄上はどうします?」
「……いや。私は、家に帰って記録を調べる」
何に思い当たったのか、答えたディーンハルトの顔色がやけに青い。
共犯者の様子に内心で首を傾げながらも、マルティナはようやく訪れた想い人との逢瀬の機会に、胸を躍らせながら食堂を出ていった。
だが無論、自習室には二人きりではなかった。
それどころか、最高に鬱陶しい恋敵がついてきて、あろうことか同席までしたものだから、マルティナの機嫌は地の底を這うレベルで損なわれてしまう。確かにランベルトにとって彼女は婚約者なのだから、間違っても他人ではないけれど。
すっかり膨れっ面になった王女へ、エリスレアを隣に座らせたランベルトが、口元だけに笑みを浮かべてこう言った。
「改めてご挨拶いたしましょう、マルティナ殿下。──私は、フォルテス公爵家が次男ランベルト。先日十八歳となりました。父は当然、現フォルテス公爵ですが、母の元公爵夫人は兄と私が生まれて間もなく離縁され、現在は貴国の王の寵姫となっていると聞いております。名をアレイナと言いまして──当然、殿下はよくご存知ですね?」
──明かされた情報は、第三者には言葉以上の意味はほぼ皆無で、けれどマルティナには十六年間の人生で最大の衝撃を与えるものだった。
「……そ、んな。アレイナですって……!? それは、その名は……っ!」
「ええ。間違いなく、貴女様の母君と同じお名前ですわ、マルティナ王女殿下」
エリスレアの声音には情というものが皆無で、こんな場合でなければ八つ当たりしたくなるほどに平坦に響く。
一方のランベルトは、すっと目を細めて決定的な一言を発した。
「初めまして。ようやくお会いできましたね、親愛なる異父妹殿」
エリスレアの扇はフィクションの産物です。昔の某TRPGシリーズにあった武器がモデル。本家は両手に一つずつ持って使い、ビジュアルというか戦い方が好みでした。