序章 履行
数キロほど離れたところまで飛ぶと、ライナスは下降した。街灯などはなく、星からの光に反射された、流れる雲とささめく平原が広がっているのみだ。さらさらと風の音が彼の耳をくすぐった。
そこに「はあ、はあ」という荒い息遣いが聞こえてきた。音の出どころである意識を失っているシルビアを地に下した。彼女の服は一層汚れたようであって土と煤を纏って黒ずんでいた。さらに両脚と左腕が黒焦げになっており、体中から体温調節による発汗以上に汗が噴き出している。
さて、どうしたもんか。ライナスは手を顎にあてたが、とりあえずその煤で汚れた白い頬を叩き、目を覚まさせることにした。
「う、、、ん」と声を出しながら、瞼が透明の重しを上げるようにゆっくりと上がっていく。そして金色の瞳が姿を現し、ライナスの姿をおぼろげに捕らえた。
「おい、無事か?」
しかし覚醒したシルビアはそれにこたえることはなく、まず痛みに悶えた。ライナスはそれを見て急いで腕で彼女の背中を起こした。回復魔法がかけられた液体の入った手で握れるサイズの円筒状の容器を取り出し、蓋を開け彼女の口に当てて傾けていった。
こぼしながらも、それを飲ませしばらく様子を見た。10分もすると、汗も引き、呼吸も平常に戻り、容体が安定したようだった。彼女はうつろだった目をライナスに向けて、自身に起こった出来事を整理し始めた。
「あいつは?……レイはどこへいったの?」
「……お前を襲っていた銀髪の野郎のことか?あいつならきっと死んだよ。」
「そう、よかった。」それだけ言うとシルビアは安堵のため息をつきつつ目を閉じた。
「大丈夫か?」一瞬ライナスは彼女がそのまま息を引き取るのではないかと危惧した。
「ええ大丈夫。いくらか楽になってきたわ」
「そうかい、それは良かった」
「それにしてもあなた強いのね、あいつを殺すなんて」シルビアは片膝をつくライナスを見つめて言った。
「そうでもない、たまたまだ。」
彼女はふふっと笑みをこぼした。
「とにかくありがとう。助けてくれて。それでここはどこなの?あなたはだれ?なぜ助けてくれたの?」ライナスは急の質問攻めに目を丸くした。
「まあおちつけって。そんないきなり聞かれても困る。そこまでおれはあたま良くない。」ライナスはすこし歯を見せた。
「そうね。あの、ごめんなさい。取り乱して。まさか襲われるとは思ってなくって。」
「まあそうだろうね。おれもまさか襲われているとは思わなかったよ。……そうだな、ここはさっきいた所から少し離れた平原ってところか。」
「そう。連れてきてくれたのね。本当にありがとう。」
「別に感謝されることをしたわけじゃないさ。」
「恩に着せないのね」彼女はまたふふっと笑って答えた。
「にしてもなんで襲われてたんだ?」
「さあ、サイコキラーの理由なんてわからないわよ。」ライナスは耳をピクリとさせて反応した。
「サイコキラー……か。知っているのか。あいつのこと。」
「ええ。レイ=ハミルトン。サラマンダーの加護を受けて炎魔法を多用する魔術師。あいつは、魔法を使って人殺しを楽しんでいるようだった。」
「そうかい。ただの快楽殺人者か。」ライナスは顎に手を当てて空を仰いだ。
「まあとりあえず生きていたようで一安心だ。それで、あんた、名前は?」
「そういえば名前を言ってなかったわね。私はシルビアよ。シルビア=キルヴィス。」
「あなたは?」シルビアは微笑みながら、残った片腕で握手しようと手を差し伸べる。
しかし、ライナスはにやりと笑みを浮かべたのみで差し伸べられた手が見えていないかのように問いに答えた。
「俺はライナスだ。ライナス=アゼルヴェイン」ライナスは自身の名前を発しただけだった。しかし名前を聞いた瞬間、シルビアの安堵の笑みが崩れ、唖然とした表情がとってかわった。
「ライナス=アゼルヴェイン……ですって?」
「さっきなんで助けたかって聞いたな。別に助けたわけじゃない。そう。あんたをこの手で「殺す」ためさ。」
「殺人・窃盗・放火・叛乱と、なかなか派手にやっているようだね。」ローダルクから渡された、もはやくしゃくしゃになった紙を出して言う。そこにはシルビア=キルヴィスという名前と人物の特徴が記載されており、かろうじて読める。
そして、ライナスの目の前の女性とその人相は一致していた。
「最近、召喚器を奪ったそうだね」
「さあ、犯罪者。お前が奪った召喚器を渡してもらおうか?」ライナスは顔を近づけて微笑んで言った。
「ふふふ、あはははははは」いきなりシルビアの笑い声がこだました。ひとしきり不気味な笑みを浮かべたのちシルビアは口を開いた。
「そう。あなたがあの「死神」ライナス。ふふふふふ。」
「殺人鬼に殺されそうになって、まさか死神に助けられていたなんて、笑い話もいいとこね。」
「……そうだな」ライナスが遠くを見るかのようにシルビアのことを目を細めて見つめた。
「そうね。確かに奪ったわ。ただ、それだけでここまで情報が洩れるなんてね」
「御託はいい。さっさとみせるんだ。」
「……」やや不機嫌な顔を見せてシルビアは自身の胸元に手を伸ばした。
「これよ」シルビアは胸元にあったネックレスをとって、手に添えた。ライナスは思わず凝視した。そこには月のように形作られた透き通った宝石に穴があいて、首飾りに仕立て上げられていた。
「これが……。」黒髪の少年はふと考える表情をとった。
「一つ言っておくけど、私はこれを手に入れてからいろんなことを試したけど、何も起こらなかったわ。あなたこんな何の役にも立たないもので命を狙っていたの?」
「違う。お前にとっては役に立たなかっただけだ。」
そのままライナスは何も言わず、シルビアを抱き上げると近くの草原にあった小ぶりの岩塊へ寄りかけた。
そして「そう……か」などと言いながら、おもむろに草原へと歩き始めて、3mほど離れた場所で止まった。
シルビアは彼の行動にやや困惑した。
「すぐに奪うものと思ったけど」
「ああ、すぐにもらうさ」ライナスは振り返りながらいった。
「……ますますわからないわね。」
「すぐにわかる。」
「そう……。まあなんでもいいわ。でももう一つだけ。これを渡したら私を見逃してくれるのかしら。」片手で宝石をいじりながら妖艶な目をライナスに向けた。
しかしライナスはその言葉をバッサリと切り捨てた。
「なにをいっている。お前はこれまでモノも命も奪ってきたんだろう。なぜ自分だけは奪われないと思うんだ。」
「ふふふ、そう……そうね。」シルビアは宝石を握りながら笑みを浮かべた。
「でも、それはあなたも同じよね。私の命を奪おうというんだから。」
「ははははは、まあ、そうなるな」ライナスも笑って答えた。
「じゃあ! これ!! あげるわよっ!」急に語気を強めてシルビアはネックレスをライナスめがけ投げた。すぐさまライナスは後ろへと地面を蹴る。
そしてシルビアが投擲につかった手をそのままに、投げた宝石に加速魔法をかけようとした。しかしそれは魔法の発動には移らず、思慮の域でとどまった。
一迅の激しい風と共に、鈍い音を立ててシルビアの下半身が一瞬のうちに「落ちた」からであった。ただそれは彼女の頭の中でのみ辿った思考であった。ライナスはシルビアの手を伸ばした上半身が羽ばたく龍の口の中で地を離れているのを視認した。
それに気づいたか気づかなかったか、ほどなくして彼女の思考も切れた。
地上ではシルビアの下半身から血液が飛び散って弧を描いた倒れたが、その液滴は計算されたかのようにライナスの足元あたりまでですべてが落ちた。
「犯罪者の命を捕らないわけないだろう。」ライナスは言い捨てた。