お父さまの部屋【最終話】
「いいかい。よく聞いて。何を言っているか分からないだろうけど、決してこの言葉を忘れてはいけないよ。よくよくこの音を覚えていなさい。
ーーおとぎ話の最後を教えて
……そうしたらおうちに帰れるよ。
もしも、この言葉をお前が思い出したら、意味が分かってしまったら。そしたら私はおうちに帰って来れるんだ。いいかい?
ーーおとぎ話の最後を教えて
『ーー、ーー』
お前がこの合言葉を、その答えを、死の間際にだけ思い出すことを願ってる。お前たちの幸福を願っているんだ。……あいしているよ」
◇
あの晩に、アイリはそのまま森で朝を迎えた。
白んでゆく空と騒ぎ出す鳥たちを見上げていたアイリは、大変な幸福に恵まれる。なんと村へ向かう商人の馬車が、森を通りかかり、拾ってもらうことになったのだ。その商人はまだ年若い夫婦だったから、アイリは安心して荷台によじ登る。
もしアイリが幸福な子どもでなかったら、商人ではなく、人さらいか盗賊か、それとも魔女に拾われていたかもしれない。
そんなことを考えて、荷台に揺られていると、いつの間にかぐっすり眠ってしまった。アイリが目をさまし、日が傾いた頃には、村の入口が見えていた。
商人の夫婦にお礼を言い、アイリはまっすぐに家に帰った。
玄関を開けた時の母の顔といったら! アイリはあんなに目を丸くした母を見たのは初めてだった。母の顔を見た瞬間、どっと疲れを感じて、アイリは「お母さま!」とその腰に倒れこむように抱きついた。
母は丸く目を剥いたまま
「今までどうやって!? 一体どうして ああ、アイリ!」と吠え、アイリを抱きしめた。
しかし、抱擁はすぐさま解かれ、「とにかく、体を洗って。怪我は? この血はどうしたの? ああ、どうしましょう。どうしましょう」と服を剥かれ、湯をためた金だらいに放り込まれた。
「いい? アイリ、学校はしばらくお休みよ。外で遊ぶのもいけません。お部屋でじっとしていて。これ以上、お母さまを不安にさせないで!」
そう言われ、アイリは暖かい部屋着を着せられた。そして、アイリの部屋ではなく、もう随分使われていなかった部屋へと通された。
「ここはお父さまのお部屋だったんじゃないの? どうして?」
アイリが不思議に思うのは当然で、父がいなくなってから何年も、この部屋へ入ることは許されなかった。父の部屋は貴重な書物が多く、子どもが荒らしてはいけないと、いつも鍵がかけられていたのに。
母は、アイリの手を引っ張るように引いて「お願いよ」と何度も繰り返した。
「アイリ、ここにいて。お母さまの目の届かないところに行かないで。もちろんずっとじゃないわ。でも、お願いよ。少しの間だけ」
母に「お願い」など乞われたことのなかったアイリは仰天してしまい、何も考えずに頷いてしまった。
そうして今は、かつて父のものだったベッドに座って、あまりの退屈さに大きなあくびを漏らしている。
「もう、お母さまったらいくら何でも心配しすぎだわ。学校が休めるのは幸運だけど、まさか鍵までかけられるなんて」
アイリはベットから飛び降りて、ぐるりと部屋を見渡した。ぎっしりと書物が詰められた父の本棚は、天井に届きそうなほど。他は、アイリや母のものより大きなベッドと、文机。カーテンは昼間だというのに、母に引かれてしまい、ぼんやりと薄く太陽の光をに遮っている。
「これじゃあ、私、退屈すぎて、この部屋の本を読みつくしてしまいそうよ。あーあ、エイミーがお見舞いにきてくれないかしら。そうしたら、部屋から出してもらえるかしら」
これは本当に、本を読むしかなさそうだ。そう思ったアイリは、壁際の本棚に手を伸ばす。しかし、その手が届く前に、かつりと小さな引っ掛かりを覚えて、足を引いた。
床にうっすら埃が積もっていたので、アイリはしゃがみこみ、右手でそれをゆっくり撫でた。埃を払うと、床に細い線で掘られた四角い溝が現れる。
その溝は四方50センチほど。あまりに細く浅い線なので、よくこんな引っ掛かりに気づいたものだと、アイリは自分に驚きあきれた。
その溝に沿うように、小さな文字が刻まれている。アイリは床に這うようにして、顔を近づけた。
「イチイ? ザイ、テュー」
習ったことのないその文字をよく知っている。二つ、三つの音を口で転がして、アイリは瞬きをした。一瞬のその間。次に目を開いた時には、その文字が、文が、意味を持ったものとして、彼女の脳裏に浮かぶ。
「ーーおとぎ話、の、最後を教え、て……」
アイリは滑り込むように脳裏に浮かんだ言葉に、また瞬きをした。アイリはこの言葉を知っている。何度もあの洋館で、トムと最初に出会った部屋で、この言葉を見た。あの晩、意味の取れないただの文字の羅列だったものが、今、確かに読める。
「トムに、意味を教えてもらったんだもの。読めて当然だわ」
アイリはそう言い聞かせて、腹ばいになっていた身を起こした。掘られて文字を指でなぞる。詰まっていた白の埃が、また指の腹を汚した。
「どうして、私の家にこの言葉があるのかしら? 有名な一節なの? 私は聞いたことがないけれど……」
アイリは、また二度、三度と繰り返し、その言葉を転がすようにつぶやく。
この家はアイリの家で、父の部屋。見知らぬ不思議な洋館ではなく、物語の登場人物やそれを模した人形なんて一つもあるはずかない。
それならば、この言葉が「教えて」と欲するものは。アイリには一つしか無いように思えた。
『ーー、ーー』
ポツリ、と幼い頃から慣れ親しんだ、とある言葉をつぶやく。
アイリは無意識であったが、その口から出た言語は、彼女が常に使っているものではなかった。喋ったことのない言語を、息を吐くように、呪文のように漏らす。そのことにアイリ自身は気がつかない。
途端、床に掘られた文字と溝が光を放つ。雪のような、雫のような細かい光が、突如、どこからか浮かび、部屋をくるくると舞った。
「えええ?! どうしてぇ?」
アイリが口をあんぐり開ける。
先ほどアイリが撫でたばかりの床が、溝の四角部分だけ抜け落ちたように、ぱっかりと穴を開け、地下へ続くハシゴを舌のように伸ばしていた。
「どういうこと? どういうこと?! 今のは開けゴマの呪文だったのかしら! 家にこんな魔法がかかっていたなんて!」
予想もしえないこのことに、ひと時の間、アイリは困惑した。馬鹿になった鶏のように四角い穴の周りをぐるぐる歩き回る。
しかし、それは本当にひと時の間だけ。
「秘密の隠し部屋ね!」
アイリは目を輝かせて、ギイギイと音のなるハシゴで地下へと降りた。
降り立った地下の部屋は狭く、少しだけ黴臭い。灯りはハシゴのすぐ脇にランプがあった。内装は父の部屋とほとんど変わらず、背の高いたくさんの本棚と、文机が一つ。本棚の中には本だけではなく、何かの資料か、図表や文字で埋め尽くされた紙束が、膨大に差し込まれている。他にも、曇って中の伺えない瓶が並んでいたり、植物の標本が無造作に掛けてあったりと、ひどく雑然としていた。
そして、流し見た限りではあるが、アイリはそれらに書かれた文字全てを、難なく読むことができる。
「ここもお父さまのお部屋なのかしら。何か宝物が隠れていたり、知らない場所に繋がっていると期待したのに」
つまんない! と唇を尖らせる。
アイリは落胆を抱えながら、父のものであろう文机に近づいた。文机には、一通の封筒が置いてある。読んでくれと言わんばかりの、封が空いたそれから紙を引きずり出す。
それは、父の置き手紙だった。
そして、手紙と一緒に入っていた、写真が一葉。 アイリはそのセピア色の写真を見て、息を飲んだ。
写真は今より若い頃の母。そして父。顔を忘れていた男だが、見た瞬間に彼が父だと、アイリには確信できた。村人が慄くほど均整のとれた目鼻立ち。写真でもその美しさは際立って、光を放つばかりであった。
そして、母に抱かれた赤ん坊は、おそらくアイリだ。赤ん坊を包んだ毛布は、アイリが幼い頃に手放さなかったと、覚え馴染みがある。そして、父と母に挟まれている、もう一人。
星屑を集めたような銀の髪。瞳は夜の湖の色。それらの色は、この写真では伝わらないけれど。
あの晩、洋館で出会ったそのままの姿の子どもが、父に抱きかかえられて、こちらに目線を向けている。
「ヒッ、……あ、あ」
ぐしゃり、とアイリの親指が写真にしわを寄せた。ぶるぶると全身を震わせ、アイリは写真の彼の瞳から、目を反らせない。
「ひ、ひ」と呻くような息が、止まらない。
彼の瞳に、アイリはよくよく覚えがあった。
思い出す。彼と手を繋いだ一晩を。彼を撫でた時の髪の柔らかさを。抱きしめた時の幼さを。この、夜のように黒い瞳でアイリを捉え、そのまま下へ、地面へ落ちていく彼を。落ちて潰れた肉の音を、アイリは思い出した。
不意に、学校でかつてテイザー女史や学友たちに言われた言葉が、頭をかき混ぜるように響く。
「人形と人間の区別がついていないようね。よく物置にある古いぬいぐるみやマネキン人形に話しかけているわ。どうしてそんなことをするの?」「なんで人形なんて言うんだよ! ダダを苛めてるのは俺じゃなくてお前じゃないか!」「ねえ、アイリちゃんはどうして頭がいいのにおかしいの?」「アイリちゃんって、人間じゃないみたい」「どうしていつもあなたは変なの?」
「あ、あああ、ああ、ああああううああああああああ」
アイリは、震えとともに、次第に声を漏らした。その声は引き付けのように止まらず、どんどん大きく、甲高くなっていく。
「あ、ああああ、あああああああああああああああああ、え、あああああ、あ、あ」
ヒィ、と時折に息継ぎを挟みながら、それでも悲鳴は止まらない。
喉が裂けろと、息が絶えろというように。
笛のような甲高い咆哮を、アイリは地下室いっぱいに響かせた。
「あ、あ、あ、ああ、ああああ! ああ!」
かつて共に過ごし、育ち、手を繋いで眠った彼の顔。忘れてしまっていた彼の名前。存在。それをアイリは今になって思い出す。
「あなたの、あなたのなまえ、名前は、ああああああああああ、
ーートム・マキュリー!!」
◇
愛する妻ローズへ。子どもたちへ。
この手紙を読んでいるということは、トムが、エルフの言葉を理解してしまったのか。
私はすぐに迎えに発とう。
どうか、三人とも、その場を離れず、とどまっていておくれ。
どんなに遠く、世界の裏側にいようとも、ふた晩あれば、君たちの元に馳せ参じよう。どうか、待っていて。私は家に帰れるのか。
もしかしたら、ローズはトムから何も聞いていないかもしれないな。
私は彼に、この部屋を開き、私にそのことを伝える合言葉を教えていた。
その合言葉は、私の血を強く引いてしまった証明だ。それを思い出してしまったということは、子どもたちがもう人間として生きてはいけないということだ。
だから、私は、君たちを迎え、幸せにすると誓おう。
家を、家族を捨てて出た私を怨んでいるかもしれない。
今更と怒るかもしれない。
けれど、今まで人間としてこの村で、この国で静かに暮らしていた幸せを、私は壊したくはなかったんだ。
君は私を認めて契ってくれたけれど、いつだって人間として生き、それを望んできた。
幸運なことに、今、この手紙を書いている頃の子どもたちは、ひどくエルフの血が薄い。体の発育は早く、知能はひどく低い。まるで人間の赤子のようだ。もしこのまま私のエルフの血が二人に出ないようなら、
ーー君たち三人は、人間として生きていける。
君たちの側にいない父を、幸せにできない夫を、ローズ、君が憎んでいてもそれは正当だ。それでも、君が望んだから。どうか波風のない人生を、君たち三人に。
ああ、でもこの手紙を読んでいるのなら、それも、叶わなかったのか。けれどどうか、絶望しないで。ローズ、君が、子どもたち二人が、覚悟を決めてくれ。
私は人間にはなれないけれど。君たちが人間を諦めるのならば、私は必ず君たちを幸せにできる。すぐに迎えに行くから。
だから不安にならないで。たとえこの先、子どもたちの体の成長が止まろうと、不思議な言葉を発しようと、見えない者たちの声を聞こうと、
トム、アイリ、二人は私の愛おしい子ども。ローズ、トム、アイリ、愛しているよ。待っていて」
◇
アイリの甲高い悲鳴は、彼女が気を失うまで止まらなかった。
アイリはついには膝をつき、額を冷たい床へと押し付ける。もう、ぐしゃぐしゃになってしまった写真と手紙は、アイリの手から離れ、床へうち捨てられている。
アイリの両の手は、ガリガリと彼女の頭を掻き毟る。彼女の幼く小さな爪の間に、薄い頭皮と滲んだ血が詰まる。
甲高い悲鳴の間に、かすれた声で、「トム」「お母さま」とアイリは呼んだ。
けれど、この地下室では、その声は誰にも届かない。母は地下室への扉を開けられない。
手紙には父が迎えに来るとあった。合言葉を唱え、魔法が解かれた今、きっとアイリの父はこちらに飛んで来ているのだろう。
けれど、合言葉を幾度も間違え続けたアイリは、もう、おうちには、父母の元へは帰れない。
ーーおとぎ話の最後を教えて
ーーそうしたらおうちに帰れるよ。
『めでたし、めでたし』
Bad end