エラの部屋
今でこそ母と二人暮らしのアイリだが、物心がつくかつかないかの時分、父も一緒に暮らしていた。
父の顔は覚えていない。ただ父の見目がたいそう美しく整っていたのは知っている。
父はあまり村と交流を持たず外に出稼ぎに出ていたけれど、それでも村人がその顔を見る機会はあって、「マァ、なんて顔のお綺麗な男だろうね」と驚いていたのを覚えているから。
アイリは自他共に認める母親似の子どもだ。青白い肌も色素の薄くうねった髪も、小ぶりの鼻も母から受け継いだ。決して不器量ではない彼女だけれど、それでも少しは父の要素が欲しかったと、朝、鏡を見るたびに考えてしまうのだった。
そんな記憶に薄い父だけれど、一度だけ、ふたりで一緒に森に出かけたことを覚えている。その時は祖母ではなく、父の友人に会いに行った。
「ねえ、こんな奥深くにお父さまのお友だち、いるの?」
大きな手を握りながら、アイリは父を仰いだ。足元の苔や草に滑らないよう、ぶら下がるように父の手を握っている。
随分高いところにある彼の顔は、さんさんと若葉を通して降りる白い陽光に照らされていた。森の中にいる父の瞳は、家にいる時より何倍もきらめいて、宝石にだって劣らない。
「そうだよ。森に住む、生まれた頃からの友人だ」
父は弾んだ声でそう応えた。
「僕は森で生まれたから、村ではうまく暮らせない。でも、心優しい友人がいつだって手助けしてくれる。彼らがいなかったら、いまの生活だってきっともっと苦しいものだったに違いない」
そんなことを話していると、倒れた大木の向こうから、父の友人が迎えてくれた。しかし、父の左腕にへばりつくアイリに気づき、すぐさま顔をしかめる。
「マキュリー、その子ども……人か?」
明らかに剣呑な声を上げる友人に、父はへらりと笑って片手をあげ、彼の名を呼んだ。
「やあ、そんな怖い顔をしないでおくれ。この子は私の娘だよ」
◇
アイリはまるで水面から浮き上がるように意識を取り戻した。何度か瞬きをしてあたりを見渡す。
そして「あれぇ」と頓狂な声をあげた。
その部屋は薄暗く埃っぽい。最初にトムと会ったあの部屋だ。
前と変わらず、豪奢な椅子に座ってアイリは目覚めた。前と違うのは、テーブルの上に置かれた火の灯った燭台。
それからトムが覗き込むようにして、アイリを見つめてくることだった。
アイリはぱちぱちと瞬きをして、彼の瞳を見つめ返す。
「私、眠ってたの?」
「うん」
「いつ眠ったんだろう? トムがこの部屋に連れ戻したの?」
ぼんやりとした瞼をこすりながら問うたが、トムは「僕じゃない」と首を振った。
「僕も気づいたらこの部屋に戻ってたんだ。向こうの部屋に入ったと思ったのに、ここにいた」
「なにそれ、変なの!」
アイリはううんと伸びをして、椅子から飛び降りた。そしてトムと手をつなぎ、「行こう」とドアへと向かう。トムが「待って」と空いた片方の手でテーブルにある燭台を取った。ドアには変わらず読めない文字が貼られている。
「ーーおとぎ話の最後を教えてーーそうしたらおうちに帰れるよ」
アイリが節をつけて歌い出すものだから、トムは堪えきれずにくすくすと笑みを漏らした。ついにはふたりで適当に声を合わせて歌いながら、人魚の部屋を通り過ぎる。
暖炉の前を通った時、人形の焼ける匂いが鼻についた。
構わず奥へ続くドアを開ける。
次の部屋には年上の少女が、暖炉の前でロッキングチェアに座り、アイリを迎えた。
肩口で切りそろえられた短い髪。薄く煤汚れたドレスローブから両の素足が覗いている。椅子の側には彼女のミュールが転げ落ちていた。
「こんばんは。あなたはだぁれ?」
「こんばんは。私はアイリ・マキュリーよ。こっちの男の子はトム。お姉さんは?」
「私はエラよ。座ったままでごめんなさいね。足が悪くて……。男の子?」
エラが首を傾げたので、真似するようにアイリも首を傾げる。しかしエラの様子も道理で、後ろを振り向いても、どこにもトムはいなかった。繋いでいた手もいつの間にか離れている。
「トム? トム、どこへ行ったの」
人魚の部屋に戻って呼んでも見当たらない。
アイリは悲しくなって薄く涙を浮かべながら、エラの部屋に戻った。
「友だちとはぐれちゃった」
そう俯くアイリに、エラは「それはお気の毒」と眉を寄せた。
「私の足が動けばお友だちを探す手伝いもできたのに。ごめんなさいねぇ」
アイリは俯きながらも「いいの」と首を振る。そして改めて顔を上げ、彼女と向き合った。
「エラはここの家の人? トムのお姉さんかしら」
アイリの問いにエラは「半分イエスよ」と笑った。
「ずっとこの家にいるけど、私に兄弟はいないわ」
「そうなの。でもトムもここの家の子って言ってたわ。会ったことはもちろんあるわよね?」
「いいえ。ここにはもう何人か住んでいるようだけれど、私は足が動かせないからこの部屋からろくに出たことがないの。ずっとここに座ったまま。だから本を読んだり、歌ったり、眠ったりして過ごしているの。食事を運んでくれる人はいるけれど、小さな男の子じゃないから、きっとそれはトムじゃないわぁ」
アイリは「そうなの」と頷いた後、おずおずと彼女の足に目を向けた。
「その……足をどうしたのか、聞いてもいいのかしら」
すると、エラはぱぁっと喜色を浮かべた。目を見開き、唇の端を持ち上げて「よくぞ聞いてくれた」と両手を広げる。
「もうね、ずっとずっと退屈だったから、誰かに話を聞いて欲しかったの!」
「これはね、村の意地悪な連中にやられたのよぉ」
エラが重大な秘め事を漏らすように、声を低くする。アイリは聞き漏らさないようにと、ロッキングチェアのすぐ傍に座った。絨毯の上に直で座っているが、前の部屋ほど埃は積もっていないし、大丈夫だろう。何より暖炉の真ん前なので、体が温まる。
「私の母はね、村で魔女だと言われていたの。どうしてそう疑われるようになったのかは分からないわ。でも母は魔女と、私は魔女の娘と言われて、たくさん酷い目にあったのよぉ」
エラは間延びした口調のまま「恐ろしい、恐ろしい」と話す。しかしその声には怯えはなく、どこか楽しげで、確かに魔女めいていた。
「魔女はね、痛みを感じないと言われているの。だから針で刺されたり、川に落とされそうになったりしたわぁ。この足はその時に動かなくなってしまったの」
「痛かった?」
「当然よ! 私は魔女じゃないもの」
ふん、とエラが鼻を鳴らす。
「でも結局、村の連中はお馬鹿だから疑うことをやめないで、母はとうとう私を村から連れ出して、この館に隠したの。そうしなければ、今にも親子揃って火あぶりにされるところだった。だから私はそれから何年もこの館で一人きりなのよ」
そこまで話すと、エラは細く息を吐き、声を沈ませた。
「本当はね、私、もうすぐ結婚するはずだったの……。結婚を申し込まれていて、でも突然魔女なんて噂が立ってしまって、それきり。足も動かなくなったから、もうあの人とダンスも踊れないわ……」
エラは「久しぶりにいっぱい話したから疲れたわぁ。ちょっと休むわね」と目を閉じて動かなくなった。顔を見上げると、彼女の目元にホロリと一粒の涙が浮かんでいる。暖炉の火を受けてチラチラと光っていた。
アイリはなんだかいたたまれなくなり、慌てて視線を外し、立ち上げる。
エラはそれでも眠ったままだったので、アイリは部屋をぐるりと見て回り、こっそりため息をついた。奥へ進む扉はやはり鍵がかかっているのか、ノブが回らない。
床に小さな鳩のぬいぐるみが落ちていたので、とりあえず拾っておいた。
「トムもいないし、おとぎ話もよく分からない。親が魔女のお姫様なんていたかしら。それとも足のないお姫様?」
鳩は当然何も言わない。眼前まで持ち上げて「どうすればいいと思う?」と問うても、のっぺりした黒い瞳でこちらを見返してくるだけだ。
アイリはまたため息をつき、窓際に行って月を見上げた。月は随分高いところまで登っている。「私、こんなに夜更かししたことないわ」と母を想った。もう母とはぐれて随分時間が経っている。こんな夜遅くまで家に帰らないなんて、きっと後でとても叱られてしまうだろう。
アイリはエラの元にいき揺り起こす。時間を問うと、寝起きでさらに間延びした声で「もうすぐ12時よぉ……」と答えたきり、また眠ってしまった。
アイリは合点がいって、手に握った鳩に「ああ! お前はエラのお母さまが寄越した鳩なのね!」と叫んだ。それならばエラの靴が転げ落ちてしまっているのも納得である。
アイリはエラをまた起こそうかと迷ったが、やめておいた。確認はしたいけれど、まさか本人に向かって「あなたは灰かぶりのエラね?」などと失礼なことを聞くのは躊躇われる。
アイリはいそいそとエラの足元に傅き、そばに転がる彼女のミュールを拾い上げた。ミュールには金糸で刺繍が施されてり「やはり」とアイリは笑った。
棒のような細いエラの足をつかんで、両足の靴を履かせる。「これでいいわ」と鳩のぬいぐるみをエラの膝に置き、アイリは奥の扉に向かった。
ドアノブはあっけなく回る。アイリが奥の部屋に入ろうとした時、エラは目が覚めたようで「このぬいぐるみは何?」と問うてきた。
「優しい魔女のお母さまが遣わしてくれた鳩よ」
アイリが振り返ると、エラは「なぁに、それぇ」と眉根を寄せた。
「一人じゃ寂しそうよ。連れてお行きなさいな」
エラがそう言うので、アイリは鳩のぬいぐるみを受け取って、今度こそ次の部屋へとドアをくぐった。
「シンデレラ」
Bad end
……Continue