人魚姫の部屋
アイリの学校の先生、テイザー女史は口うるさいと評判だ。木のように乾いた浅黒い肌にツンと尖った顎をこちらに向けて叱ってくる。
「アイリ・マキュリーさんはいつもぼうっとして、このままじゃ将来が心配だわ。勉強ができればいいってわけではありませんから」
「人形と人間の区別がついていないようね。よく物置にある古いぬいぐるみやマネキン人形に話しかけているわ」
「独り言が多くて、お友だちも困っているの」
ついには家にまでやってきて、そんな内容を母に言って聞かせることもあった。
アイリは当然憤慨して、テイザー女史が帰った後に彼女の誤りを母に説くのだ。
「テイザー先生はいっつもお小言ばかり! 私、人形と人間を間違ったりしないわ。今日、クラスの子と喧嘩したのはエイミーがいじめられていたからよ」
「エイミーって、クラスのエイミー・ダダ?」
母は話を聞いてくれる様子を見せてくれたので、アイリは大仰に頷いた。
「そうよ。前も話したでしょう。クラスに飾ってある人形のエイミー。それをマイクって男の子が乱暴に腕を引っ張って、壊そうとしたの! ひどいでしょう」
血を登らせるアイリに、母はため息をついて「それでも喧嘩はダメよ」とたしなめる。
アイリは不満ながらも「ごめんなさい」と頭を下げた。しかしその顔はふてくされ、ちっとも反省していない。その様子にまた母はため息をついて、さらにアイリは膨れるの繰り返しだった。
アイリは勉強の面では大変優秀で、叱られたその日の手習も一番上手いと先生に褒められた。計算ごとの授業だって簡単すぎて飽きてしまうのだ。退屈なのだから独り言くらい許してほしい。何も大声で歌って授業の邪魔をしているわけではないのだから。
そしてそんな優秀なアイリが、人形と人間の区別がつかないなんて3歳の子どものように評されるのは、彼女自身にとっては甚だ遺憾というものだった。
◇
そんなことだから、トムが学校に行っていないというのは、アイリにとって大変興味深いことだった。興奮のまま、テイザー女史とクラスの子たちの話を聞かせたアイリ。話しすぎたようだ。少し喉が乾いてきてしまっている。
張り紙のあるドアを開けて、隣の部屋にきたアイリとトムだったが、変哲も無い部屋に拍子抜けした。
最初の部屋とは違い、その部屋にはシャンデリアと暖炉が灯っていて、十分に明るかった。やや狭いそこはリビングルームのようだ。
布が破れているソファは呻くような音が鳴るが、座れないことはない。ローテーブルにはうっすら埃が積もっていたが、そこらへんに落ちていたタオルで拭わせてもらった。
しかし残念なことに、奥に行くドアに鍵がかかっているようで、玄関に向かうことはできない。カーテンを引いて窓の向こうを覗いてみたが、ここは2階のようだ。木登りが苦手なアイリにとってはここから出るのは、さすがに遠慮したかった。
どうしようもないのでソファにかけ、しばしおしゃべりをしていたのだが、暖炉の上にティーカップが一つ置いてあるのを見つけて、アイリは立ち上がった。
「ねえ、ここ、飲めるものあるかな。ぼろぼろの洋館だから全部腐ってる?」
屋敷の子どもであるトムに聞くには、随分失礼な物言いだが、アイリはそう言ってカップを覗き込む。
そして「まあ!」と甲高い声をあげた。
「ね、ね、トム。見てよ。人魚がいるわ」
カップを指に引っ掛けて、座ったままのトムに傾ける。
カップの中には親指ほどのゴム人形が入っていた。人形の女の子の足は緑の鱗で追われていて、髪には大きなリボンがついている。
「可愛い人形ね。これ、トムの?」
トムはふるふると首を横に振る。明るい部屋で一層輝く彼の銀髪が揺れた。
不意に「あ!」とアイリが声をあげる。
「ねえ、トム、人魚姫のおとぎ話、知ってる?」
「知らない」とまた首を振るトムに、アイリは得意げに顎をあげた。
おとぎ話は大好きで、母に毎晩読んでもらっている。アイリの得意分野だ。
「あのね、人魚がね。ええと、人魚っていうのは魚と人間の間の子みたいな、足が魚の人間なの。その人魚が王子様に一目惚れして魔法で人間の足を手に入れるのよ。でも失恋しちゃって、最後は泡になって消えちゃうの!」
身振り手振りを加えて熱心に話すアイリ。
トムは「悲しい最後なんだね」としょんぼり、俯いてしまった。
「そうだ! さっきの部屋、おとぎ話の最後を教えればいいって言ってたわ。この子は人魚だから、人魚姫の最後を教えればいいのね」
名案と瞳を輝かせ、そう言い募るアイリに、トムは「ええ……?」と沈んだ声を漏らした。思いの寄らない提案に不可解だと、眉を寄せている。
しかし、アイリはそんなトムに見向きもせず部屋をウロウロと歩き回った。手にはビニール人形を鷲掴みにしている
「泡……泡ってないかしら。どうしたら最後を教えることになるんだろう。話して聞かせるだけじゃダメ? ああ、そうね、この子は人魚だから」
ブツブツと呟くアイリは、しばしして、顔をあげた。トムに「泡ってなんだと思う?」と問う。トムは首を傾げながら「泡? ええと、石鹸、シャボン玉?」と答える。
「この部屋にあるかな。ねえ! 探すの手伝ってよ」
アイリに引っ張られ、ようやくトムはソファから立ち上がった。
ふたりで部屋の中をぐるぐると回って探していると、案外すぐにそれは見つかった。部屋の壁際に立つ大きな食器棚の中に、小さなボトルが紛れていた。開けてみると、所々塊になった白い粉が入っていた。鼻を近づけると石鹸の匂いだ。
「粉の石鹸があるなんて、この家はやっぱりお金持ちなのね」
アイリはそういいながらも、ためらいなくボトルを逆さにして、ビニール人形を真っ白にしてしまった。軽く人形をこすると、小さいながら泡が立ってくる。
そうして泡まみれになった人形を、アイリは暖炉に投げ入れた。
「ええ?! なんで?!」
思わず暖炉に駆け寄るトムだが、人形はすでに火に舐められている。この中に手を突っ込むほどトムは勇敢でも馬鹿でもない。加えて人魚の人形に大した執着はなかった。
しかし、アイリは人形に大変喜んではしゃいでいたはずだ。
どうして、と振り返ってアイリを見やる。アイリは「だって、泡をつけただけで人形が消えるわけないでしょう? しょうがないじゃない」と笑った。
「さあ、トム。行きましょう。早く帰らないとお母さまに叱られちゃう」
「え、でもドアが……」
開かない、というトムの言葉の続きは飲み込まれた。
アイリの手にひかれ、ドアへ向かう。そのドアが鍵などなかったように、あっさりと開いたのだ。
トムは再度ぎゅうとアイリの手を握り、不思議な洋館の、次の部屋へ足を入れた。
「人魚姫」
Bad end
……Continue