最初の部屋
「お母さま、絵本を読んで。お願いよ」
毎晩のように枕元の母にねだるアイリに、母はしょうがないと微笑んで、それでも歌うように物語を聞かせてくれた。
お姫様や不思議な生き物が出てくるおとぎ話はアイリのお気に入り。
それを大好きな母の声で聞くと格別だった。
そんな優しい母がきゅうっと眉根を寄せて難しい顔をしている。
その日、学校の制服を着たアイリに、母は首を横に振った。「今日はお祖母さまの家に行くのよ」と。
「お祖母さまって森の奥に住む?」
「そうよ。時間がないわ。すぐに出ましょう。」
「お母さま、具合が悪いの?」
お祖母様は薬を作るのが得意だと聞いていた。しかしその質問も否定される。
「お馬は借りたの?」
また否定。「今日は歩いて行くの。遠いけど、アイリも頑張れるわね?」アイリはびっくりする。
お祖母さまの家は森を抜けたてさらにもう一つの森に入らなければいけない。いつも母は、村の大きいファントム家の馬を借りて出かけていたのに。それを徒歩で行くなんて。
普段とは違う森へのお出かけに心をときめかせたアイリだったが、すでに制服を着てしまったことだけには気落ちした。
アイリの学校の制服はカラスも驚くほど真っ黒なワンピース。膝小僧を隠す裾はレースひとつない。首は白の丸襟で、洒落っ気ひとつないのが、アイリは不満だった。
クラスの中には「シスターのようでかっこいい」なんていう子もいるが、シスターのどこがかっこいいのかアイリにはさっぱりわからない。
何より森歩きにこれほど不釣り合いな装いもないだろう。しかし、母は着替える時間も惜しいとアイリの手を引いて出かけた。
◇
アイリはまるで水面から浮き上がるように意識を取り戻した。何度か瞬きをしてあたりを見渡す。
そこは屋内、知らない部屋だ。
ボコッとした彫刻がされた肘掛が腕に当たって冷たい。随分豪奢な、しかし古ぼけた椅子に座っているようだ。
天井から下がる小ぶりなシャンデリアは、今まで絵本でしか見たこともないものだったが、あかりは灯っていない。暖炉もしんと冷えており、唯一の光源は小さな出窓から覗くまるい月だけだ。
薄暗闇の中、アイリの青白い肌と色素の薄い小麦の髪の色だけが浮いていた。
「お母さま? どこ?」
きょろきょろと部屋に視線を投げ、一緒に森を進んでいたはずの母を呼ぶ。しかし、答える声はない。
「知らない場所だわ。森へ歩く途中、まるでヘンゼルとグレーテルのようだと笑ったのが、罰当たりだったのかしら」
そう呟くが、しかし母は男親ではないし、アイリはグレーテルではない。
「こんなことなら小石を落として置くべきだったかなぁ」
そんな冗談を考えていると、ゴン、と奥で何かがぶつかる音がした。流石に肝を冷やしたアイリは「だれ?!」と尖った声を上げる。
その音はアイリの座っている椅子から離れた、テーブルといくつかの椅子の方からだった。暗くてよく見えない。
アイリは「よし」と腹に決め、椅子から飛び降りた。ボロボロの絨毯がしかれた床は、柔らかくアイリの足を受け止めた。
音のした椅子の方に進む。
「ねえ、誰かいるの? お母さま? それともぬいぐるみのミーティがお迎えに来てくれたのかしら」
するとそこには、椅子の影にうずくまるように小さな男の子が隠れていた。
「何をしているの?」
思わず大きな声を出したアイリに、男の子は頭をさすりながら、のっそりと身を起こした。どうやらテーブルに頭をぶつけたらしい。かくれんぼでもしていたというのか。
アイリが思わず目の前の頭を撫でると、男の子は目を零れそうなほど見開き、そして笑った。アイリの指を通る男の子の髪は、近くで見ると星屑のように美しい銀色だ。
「ねえ、ここで何をしているの? ここはどこ?」
アイリが撫でるのをやめ、男の子に問う。男の子は困ったように首を傾げている。
「私、お母さまと来たの。ねえ、私のお母さま、知らない?」
男の子は「見てない」と首をふる。
要領を得ない男の子に、これなら答えられるだろうと「あなたの名前は?」と問うた。
「私はアイリよ。アイリ・マキュリー。お母さまと暮らしているの。今年で8つ。今日は森の奥のお祖母さまの家に行く予定……。もう夜になっちゃったみたいだけど」
「僕はトム」
「ふうん、トム。あなたはここの家の子?」
「そうだよ」
「じゃあ私は自分の家に帰らなくっちゃ。ばいばい」
アイリはスカートをつまんでお辞儀をした。そのままひらりと踵を返して、ドアがあるであろう部屋の奥に進む。暗いので周りにある椅子やテーブル、壁を触りながら進んだ。
すると、「僕も行く!」とトムが駆け寄ってきた。
「ちょっと待っててね」
そういってトムは戸棚の引き出しからマッチを出し、テーブルに燭台に火を灯す。持ち運びができるそれを持って、アイリの足元を照らしてくれた。
灯りはトムの全身も照らす。やはり髪は銀色で、目は深い黒。着ている服は大きな屋敷に似合わず、薄くて煤のようなものでよごれていた。
小さくても、暖かな灯りひとつあるだけで、随分と気持ちが軽くなる。アイリは「ありがとう」と笑った。
この屋敷のトムが案内をしてくれるなら、どんなに広くてもすぐに玄関へとたどり着く。そう思い、アイリはトムに並んだ。
部屋はさほど広くなく、行き止まりはすぐだった。壁の中央に背の高いドアが立っている。しかしアイリは真鍮のドアノブをつかむことをしなかった。
ドアの、ちょうどアイリやトムの目線の高さに、大きな張り紙があったのだ。しかしそれはアイリには見覚えのない文字で、さっぱり意味がわからない。
「いちい、ザイ……てゅーる?」
張り紙の文字を追って唇を動かしたアイリに、トムは「読めるの?」と驚いた。しかしアイリは「読めない」と首をふる。
「文字の音はなんだか知ってる気がするけど、意味はさっぱり。これ何語? 読める?」
ーーおとぎ話の最後を教えて
ーーそうしたらおうちに帰れるよ。
張り紙の言葉を読んだトムに、アイリは「すごい!」と叫んだ。
「すごい!すごい! トムは読めるのね。頭がいいのね!」
飛びつくようにはしゃぐアイリに、暗闇でもわかるほどトムは丸い頬を赤らめた。
「でも、おとぎ話の最後って何かしら? ねえ、トムの家なら知ってるんでしょう?」
ドアを開けながらアイリが問う。しかしトムは「分からないよ。何のことだろう」と眉を寄せた。よくよくみると、かすかに其の肩がふるえている。
「トム! 怖がりな子! 一緒に行けば大丈夫だよ。自分の家なんて、何も怖くないでしょう?」
「……僕、実はこの部屋からあんまり出たことない」
「どうして? 学校は?」
「行ってないよ」
「ええっ、いいなあ!」
アイリは話を聞きながら、トムの空いた片方の手をぎゅっと握った。これなら怖くないだろう。
ふたりはドアをくぐり、不思議な洋館の、次の部屋へ足を入れた。
「ーーおとぎ話の最後を教えて
ーーそうしたらおうちに帰れるよ。」
……Continue