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4 絶望と希望




 希望のぞみと再会した時、真っ先に思った。表情筋が死んでいてよかった、と。


 おかげで、再会の喜びも、自分の存在を忘れられていることの悲しみも、希望に悟られずにすんだから。



 希望と再会する直前まで、私は浮かれていた。自分の体が風船のように軽くなり空に飛んでいくような感覚。そんなにも浮き立つ気持ちは本当に久しぶりで、自分の感情なのに他人のものみたいに思えた。それくらい、エデンで過ごした時間は長かった。



 エデンの施設を出てすぐ再里さいり君の車に乗り、希望の新しい新居へと向かった。


 目的地へ向かう車の中、再里君は言った。


「希望は紫乃しのちゃんのことを忘れてる。希望だけじゃない。希望の家族も」


「……そう」


「せっかく再会できるのにこんなこと聞いたらショックだよな。ごめん……。でも、希望の元で暮らす前にあらかじめ知っておいた方がいいかと思って……」


「私もそう思う。知れてよかった。だから謝らなくていいよ。再里君のせいじゃないし、私なら大丈夫だから」


 再里君は気の毒そうに口をつぐみ、しばらく黙ったまま運転を続けていた。


 希望だけでなく希望の家族まで私のことを忘れている……。それなりに衝撃的な事実ではあったけど、私は冷静にそのことを受け止めた。良くも悪くも、長い軟禁生活の中で感情の起伏を無くしたのかもしれない。


 どのみち希望は私のことなどとっくに忘れているものだと覚悟はしていた。だから別にいい。それ以上に気になるのは、なぜ希望が〝私のことだけ〟を忘れているのかということだ。


 希望の記憶がないのはおそらくエデンの差し金だ。私以外の言魂使い(オラルメンテ)の能力を使って希望や希望の家族の記憶を操作したのだろう。再里君が私を覚えていることからしてその可能性が高い。


 希望が私を忘れているのは別れのつらさによるショックからだと再里君は考えているようだ。そうであればいいと私も思う。エデンの手が希望にまで及んでいるなんて考えたくもない。


 そういう前置きもあったし、流れと共に人は変わるということを概念として知っていた。実際に私だって色々変わってしまった。希望だってそれは同じ。会わなくなって8年も経っているのだから。


 それなのに、希望の顔を見るまで生々しい現実というものをありのままに想像できていなかった。覚悟は出来ていると言いながらそれは完全に格好つけていただけ。実際には、いつまでも10歳の頃の希望がそこにいてくれると甘い期待ばかりが先走っていた。


 それを証拠に、希望と話をつけるまで車の中で待っていてほしいと再里君に言われていたのに、私はそれを無視して二人の元に歩いていってしまった。


 希望は変わっていた。背が伸びて声変わりもしている。幼い頃の面影はあるけれど、どこか憂いを帯びた眼差しと凛々しい表情。年月の流れを感じた。記憶の中の希望も素敵だったけど、今の彼はうんとかっこよくなっていた。


 それに、やっぱり優しい。私を預かるという話に希望は最初は乗り気ではなく再里君は困っていたけど、私は嬉しかった。無責任なことはせず、真に相手のためを思って深く考えるところは昔の希望そのままだったから。


 そう。私は何も望まない。少しだけ希望のそばにいられればそれでいい。


 再里君は私を希望に託すと、エデンから出た活動資金を希望に渡した。


「これ、紫乃ちゃんに関する出費に当てて。残りは協力費として受け取ってほしい」


「こんなの受け取れないって!」


 渡された封筒の中身を確認し、希望はそれを再里君に突き返した。


「実家から仕送りもらうし、それに三ヶ月だけでしょ?」


 三ヶ月。希望は念を押すように言った。


「そうだけど、女の子は何かと物入りだから。エデンではオシャレなんかさせてもらえなかったし、察してやってよ。な?」


 冗談ぽく言い、再里君はお金の入った封筒を希望の胸元に押しつけた。希望はしぶしぶそれを受け取ったけど、使う気はないと言い放った。


 希望は平穏な暮らしを求め面倒事を避けたいと思いながら生きている。それはきっと、8年前に私が誘拐されたせいだ。記憶はなくとも、心の底に落とされ消化されないままの悲しみや喪失感が希望をそうさせている……。


 私に出会わなければ、希望はそんな風にならずにすんだ。私のせい。


 早くも自分の図々しさに恥ずかしさが込み上げてきた。一方的に傷つけておきながら再会できて嬉しいだなんて、どの口が言えたのだろう。


 この時、私は決めた。もう二度と希望には深入りしないと。あくまで居候。その立場をわきまえ、女を感じさせるようなことはしない。彼の私生活にも干渉しない。『一時ワケありでお世話になる他人』になりきることにした。



 再里君がエデンに戻り、私は希望のアパートへついていくことになった。


「どうぞ。まだ越してきたばかりで荷物とかゴチャゴチャだけど」


「お邪魔します」


 ぎこちなくこちらを見やり、希望は玄関の扉を支えてくれた。そんなさりげない気遣いからも年月の経過を感じた。今までもこんな風に女の子をエスコートしていたのかと思うと胸が痛い。


 中に通された瞬間、新築独特の匂いが漂った。外観も可愛かったけど中も広々している。


「靴、脱いでくれる?」


 希望は目を丸くして私の足元を凝視した。


「ごめんなさい」


 顔が熱くなる。そうだ。ここはもうエデンではない。エデンの自室では靴を脱いだり履いたりする習慣がなかったので、つい間違えてしまった。


「外国でもあるよね、靴のまま家の中歩いていい場所。アメリカだっけ」


 取って付けたように希望がフォローした。なんとも言えない気まずさが漂う。


「これからここで一人暮しをするんですか?」


「うん。今年から大学入るから実家は出た」


「そうですか……」


 なんとなくぎこちなさが残る。無理に話題を振らない方がいいのかもしれない。


 玄関をまっすぐ行って右手。希望についていくとリビングダイニングに着いた。対面式キッチンの向こう側に10帖ほどのリビングがある。リビングはソファーとテレビだけのシンプルな空間。大学生のアパートというより社会人ぽい部屋だ。


「他の部屋はまだダンボールだらけで、今はここしかまともに座れるところないんだ。近くで夕食買ってくるから適当に座ってて?」


「そういえばさっきも夕食をしに行くと言ってましたね。私のせいで予定が崩れてしまって申し訳ないです」


「いいよ。再里の頼みなら仕方ないし。あと、紫乃ちゃんタメでしょ? 敬語じゃなくていいから」


「……分かった。じゃあ普通にするね」


「紫乃ちゃんは食べたい物とかある?」


「……じゃあ、飲むゼリーお願いしていい?」


「それだけでいいの?」


「少食なの」


「そっか……。分かった」


 希望は半分納得いかない様子でうなずき、玄関を出て行った。


 初めて私を見た時、希望は心配そうに眉を寄せていた。自分でも分かっている。一般的な18歳の女性にしては肉付きも悪く痩せ細っていることを。


 だけど、希望の前では普通の18歳でいたかった。


 ここへ来る途中、再里君の厚意でファミレスに寄りフルーツタルトを注文してもらったけど、一口食べただけで吐き気がして戻してしまった。長らく点滴生活だったので、胃が普通の食べ物を受け付けなくなっていたらしい。


 その時服を汚してしまったので、代わりに再里君がショッピングモールに寄り道しピンクのワンピースを買ってきてくれた。ショッピングモールのトイレでそれに着替えた。


「紫乃ちゃんによく似合うよ」


 再里君に褒められたので、もしかしたら希望にも褒めてもらえるかもと甘い期待をして浮かれていた。だけど、それが全然似合っていないことを、希望の視線で気付いてしまった。悲しかった。


 深入りしないと決めたばかりなのに、すでにこんなにも希望のことを考えてしまう。彼の目に良く映りたいと、そればかり考えて。


「近くにいるのに遠いね。希望……」


 一人きりのリビングで、誰に言うでもなくつぶやいた。


 エデンの言う通り、今は能力が発動しない。だからこうして外泊も許されたのだけど、どうしてこんな状態になったのだろう。使いすぎて枯渇してしまったんだろうか。いや、言魂使い(オラルメンテ)の能力はそういう力ではないはずだ……。だったらなぜ?


 ソファーの腰を下ろす部分に顔をうずめてジッとしているうちに、冷静さが戻ってきた。


 ここでお世話になる以上、希望にだけは迷惑をかけたくない。私が希望に特別な感情を持っていることをエデンに知られたら、エデンは希望が私をたぶらかしたと判断し、希望に危害を加えるかもしれない。再里君が間に入ってくれているうちは大丈夫かもしれないけど、再里君も新人だ。いつその立場が危うくなるか分からない。


 それに、ひとつ疑問がある。再里君はなぜ希望に私を託そうとしたのだろう? 希望は再里君の親友だし、そのうえ私のことを忘れている。そうでなくても希望は再里君に恩を感じているフシがある。再里君にとって都合がいいのは確かだ。


 助けてもらっておいて何だけど、裏社会に属するエデンに入った再里君が一般市民の希望に協力を願うのも不思議だった。再里君のように社交的な人なら、すでに裏社会に協力者を確保していてもおかしくない。なのになぜ希望に頼る?


 もしかしたらーー。


 ふっと脳裏によぎった想像を振り切るため、強く首を振る。私はダメだ。良からぬ妄想癖がついてしまっている。


 他人の思考も先のことも分からないけど、もしもの時のために早く能力を使えるようにならないといけない。万が一希望がエデンに襲われでもしたら、その時は言魂使い(オラルメンテ)の能力で彼を守れる程度には……。そのためには、ここで安定した暮らしを送って1日でも早く心の病気を治さないと!



 しばらくして、希望が帰ってきた。


「ごめん、遅くなって。これでよかった?」


「こんなに? わざわざありがとう。かえって気を遣わせたね」


「そんなことないよ。俺も食べたかったし」


 希望の手にしたコンビニの袋は二つ。片方は希望の夜ご飯と思われる唐揚げ弁当。もう片方には、私のリクエストした飲むゼリーの他に、二人分のヨーグルトとインスタントのスープ春雨が入っていた。


「軽い物選んできたつもりだけど、お腹空いたら言ってね。その時はまた別の物探しに行くから」


 頼んでいない物も私のために?

 

「しばらくは荷物の整頓とかでここにいるし、大学始まるまでは暇だから」


「分かった。ありがとう……」


 声が震えそうだった。


 当たり前だけど、ここはエデンとは全然違う。私の意思を当たり前のように尊重し、心まで気遣ってくれる人がいる。そんな風に扱われるのは本当に久しぶりで、戸惑った。そして、それ以上に泣きそうだった。人間扱いされるのがこんなに嬉しいということを、いつの間にか忘れていた。


 静かなリビングのフローリングに直座りし、希望と一緒に夕食を摂った。希望がそばにいてくれるからか、今回は戻すことなく飲むゼリーを飲みきれた。


「それ、おいしいよね。俺も風邪の時とかによく飲んでた」


「栄養あるもんね。これ」


 対面直後の気まずさは薄まり、自然と希望と会話していた。久しぶりに味覚を使ったせいだろうか。希望の買ってきてくれた飲むゼリーはさくらんぼ味で、パッケージにはビタミンとミネラルが豊富だと書いてある。控えめな甘さと酸味が喉を滑り落ち気持ちがよかった。素直においしいと思える。


 この瞬間が幸せだと思えるのは希望のおかげだ。


「ねえ、紫乃ちゃん」


「何?」


「……ううん。何でもない」


 希望は、私に対して尋ねたいことがあるんだと思う。当然だ。親友経由とはいえ、突然知らない女の面倒を見なければならなくなったのだから、私の身の上話くらい把握しておきたいのだろう。でも、強引に事情を聞き出そうとはしない。分かっていながらその優しさに甘える私はズルい。


 希望の食べている唐揚げ弁当の匂い。反射的にお母さんの手作り唐揚げを思い出し、鼻の奥がツンとした。お母さんは何かあると私を喜ばせるために唐揚げを作ってくれた。嬉しかったけど、幸せを感じた分、悲しみも深くなる。人間はそういう風にできている。


 神のごとき能力。言魂使い(オラルメンテ)として生まれたのなら感情という機能を欠落させておいてほしかったと、こういう時強く思う。私がこんな能力を持たなければ、家族の時間はまだここにあったはずなのだから。


 家族への感情なんて捨て去ったつもりだったのに、こんなささいなことで思い出は簡単によみがえり胸をかき乱される。お母さんとお父さんに対する好意。愛情。それを上回る憎しみ。


 どうして私をエデンに売ったの? 私よりお金の方が大事だった?


「紫乃ちゃん……? 大丈夫?」


「っ……!」


 希望に声をかけられ、思考の糸が切れた。


「思いつめた顔して唐揚げ見てた。一口食べる?」


「ううん。いらない。ありがとう。ごめんね、変な顔して」


「変な顔なんて思ってないよ。どうかした?」


「久しぶりに料理の匂い嗅いだから感慨に浸ってただけ。エデンではこういう食事をしてなかったから」


 とっさの嘘。


「へえ。そうなんだ。唐揚げ食べたことない?」


「あるよ。ずっと昔だけど」


「だよね。ビックリした〜」


 声音から興味があるのは明らかなのに、希望はそれ以上質問してこない。そういう優しさが嬉しいのに、同時につらい。やっぱり私は希望に深入りしてほしいのだろうか?


 私に気を遣ってけないことがあるのなら、私は希望の知りたいことに答える義務があるのかもしれない。ここでお世話になる以上は。


 私は話を切り出した。


「知りたいことがあるのなら訊いていいんだよ。希望にはその権利がある」


「それは、ないって言ったら嘘になるけど、無神経なこと訊くかもって思ったら何も言えない。紫乃ちゃんだって話したくないこと色々あると思うし……。それに俺は言魂使い(オラルメンテ)じゃないから、話を聞いたところでどうにもできない」


「うん。希望にとって言魂使い(オラルメンテ)って未知の存在だよね」


「そう思ってた。今までは」


 お弁当のケースを床に置き、希望はこっちに顔を向けた。中身はけっこう残っている。もう食べないのだろうか。


「でも、紫乃ちゃんと会って、言魂使い(オラルメンテ)のことを知りたいと思った。今まで目をらしてきたクセにムシのいい話なんだけど……」


「そんなことないよ。そう思ってくれて嬉しい」


 本当だった。希望が言魂使い(オラルメンテ)に関心を持ってくれたと知り、胸があたたかくなった。


「怒らないの?」


「どうして怒るの?」


「だって俺、今までニュースで言魂使い(オラルメンテ)の被害を知っても他人事と思ってた。再里みたいに熱くなれなかった。そんな俺に紫乃ちゃんを預かる資格ないかもって。こうなった以上最後まで引き受けるけど、何の力も持たない俺なんかが関わっていい問題なのかって思うのも本当で……」


「そう思うのは当たり前。普通だよ。私が希望でもそう思ったと思う。誰だって傷つきたくないと願うもの。だから、希望が後ろめたく思うことないよ。希望の知りたいことは何でも答える。居候させてもらうんだから、このくらいはさせて」


 わざと圧力のある言い方をした。そうでもしないと、希望はいつまでも遠慮してこちらに踏み込んでこられない。


 希望は立ち上がり、キッチンへ向かった。冷蔵庫から緑茶のペットボトルを二本取り出すとこちらに戻ってきて、一本を私に手渡した。そうすることで、彼なりに気持ちを落ち着けようとしていたんだと思う。


「じゃあ、訊いていい? エデンの食事ってどんな風だったの?」


「1日三食。全て点滴」


「点滴!? あの、病院とかで打ってもらう……?」


 私はうなずいた。希望は目を丸くして息をのむ。


言魂使い(オラルメンテ)は、エデンにいる間、ある時間を除いて言語無効化装置というガラス製マスクをつけなきゃならなかった。寝ている時も。普通に食事をさせたら、その隙に能力で職員を殺すかもしれないと恐れられていたから」


「そんな……!」


 緑茶のペットボトルを強く握りしめ、希望は動揺を鎮めようとしている。理屈は分かるけど納得できないといった顔だ。


「ガラス製の言語無効化装置は知ってる。ネット通販でも見たことあるし……。でも、それを外せる時間もあったんだよね?」


「うん。エデンの用意した原稿を声に出して読む時間だけは言語無効化装置を外してもらえた」


「原稿?」


「エデンは、決して警察に捕まらないよう言魂使い(オラルメンテ)を買い取っていた。言魂使い(オラルメンテ)の能力で金銭を稼ぐために。原稿にはそういった願い事が書かれていた。私が原稿を読むとその内容は実現していたの」


 本当はそれ以上に非人道的な願いも叶えてきたけど、あえて希望には言わなかった。ここへきて、私は希望に嫌われたくないと思ってしまった。不本意とはいえ、私は人の命を奪ったことがある。希望にはどうしても知られたくない。


「エデンのヤツ、ひどいな……」


 希望は憤った。両手をかたく握りしめている。その手に、私はそっと右手を載せた。希望は驚いたようにこっちを見つめた。


「大丈夫だよ。私はもうエデンの人間に利用されたりしない。再里君のおかげで、こうして脱出への一歩を踏み出すことができたんだから」


「そんなにうまくいくかな? もちろんうまくいってほしいんだけど、スムーズに事が運び過ぎてて逆に不自然というか。紫乃ちゃんの目標に水差すようなこと言ってごめん……」


「ううん。希望の意見、聞きたい」


「ありがと。俺、すごくネガティブ思考なんだ。昔はそうでもなかったんだけど、いつからかこうなって……。だから間違ったこと言うと思うけど。再里はまだ新人だし、エデンに試されてるんじゃないかって思うんだよ」


 そうかもしれない。エデンは、あえて自由に再里君を動かすことで、彼が言魂使い(オラルメンテ)専属心理カウンセラーとしてどの程度の実力があるのか観察しているのかもしれない。むしろそうであった方が納得がいく。貪欲どんよくなエデンのことだ。簡単に脱出の兆候を逃すとは思えない。


「紫乃ちゃんがここにいられるのは三ヶ月。その期間が過ぎたら、エデンは再里を使って紫乃ちゃんを連れ戻しにきそうな気がする」


「その前に何とかして逃げ切らないと……」


「何かアテはあるの?」


「うん。大丈夫。再里君が当たってくれてる」


 嘘だった。本当はアテなんて何もない。親や親戚などいないも同然。私の血族は皆、私のことを行方不明者扱いしている。


 ゼロから聞いた。言魂使い(オラルメンテ)を売った親とは誓約書が発生する。エデンに娘を売ったことは他言無用であり、親権者はその誓約を守る代わりにエデンから大金を受け取る。それが本当なら、学校や親戚にも私は行方不明になったと伝わっているはずだ。


 再里君もそれは理解していて、そのうえで私が外にいられる時間を長引かせるつもりらしいけど、いつまでそれが通用するのか分からない。ゼロからも優秀な人材だと褒められていたけど再里君は新人だ。希望の言う通り、権限がないわりに再里君の思うように行きすぎていて不自然だ。何か裏があるに決まっている。


 こうして希望の家にいられる間に、私は逃げ先のアテを見つけなければならない。エデンには決して見つからない場所を。そんなもの、あるんだろうか?


「こんなこと言うの酷かもしれないけど、ひとつ方法が浮かんだ…!」


 希望が声を上げる。


言魂使い(オラルメンテ)って、口にした願いなら何でも叶えられるんだよね? だったら、自分の能力で言魂使い(オラルメンテ)の力を消すっていうのはどう?」


「それは、エデンにいる間に何度か考えたことがあるよ。エデンに居た頃は言語無効化装置のせいで試せなかったけど、今なら…!」


「そうだよ。やってみる価値ある!」


 私から言魂使い(オラルメンテ)の能力が無くなれば、エデンはもう私のことなど狙いはしない。ただの人間になれる……!!


「でも、今はまだ試せないね。なぜか能力が使えなくなってるみたいだし……。自分でもどうしてこうなったのか分からない……」


 エデンの医師らは心の病気のせいで能力を使えなくなったと判断したけど、私はどうも納得できなかった。


 たしかに、エデンを出る直前、私は精神不安定だった。毎日のように死にたいと思っていた。でも、今は落ち着いている。本当に心の病気だったら外に出た程度でここまで落ち着けないだろうし、こうしてすんなり希望と会話などしていられないはずだ。


 高レベルの言魂使い(オラルメンテ)は細胞レベルで肉体が強いと言われているので、もしかしたら心においてもそうなのかも。高レベルの言魂使い(オラルメンテ)ほどタフなのかもしれない。


「希望。能力を使えるかどうか、今ここで試してみてもいいかな?」


「う、うん。どうぞ! ってのも変か」


 苦笑し、希望は手のひらをこちらへ向けた。「やってみて」の合図らしい。


 もしここで能力が発動すれば、私が能力を使えなくなった原因は心の病気とは関係ないということになる。それは大きな発見だし、能力が自由に使えるのならエデンから逃げるための大きな手助けになる。


「と言っても、自発的に能力使うのこれが初めてだから何していいか分からないね」


「そうなの!?」


「うん。ずっとエデンの命令しか聞いてこなかったから」


「何かしたいこととかないの? 欲しい物とか」


「そうだなぁ……」


 考えているフリをしたものの、私には欲しい物なんてなかった。どうしても欲しいものはひとつだけあるけど、それは言魂使い(オラルメンテ)の能力で手に入れていいものではないことを分かっているし、エデンでの暮らしは良くも悪くも物質的に豊かなものだったので物欲も感じない。


「私はこうして生きているだけで幸せかな。だから希望の願いを唱えるよ。何でもいいよ。言ってみて?」


「え、俺!? エデンの話聞いた後だしすっごい言いづらいんだけどっ」


 優しい希望。だから、そばにいるとこっちまでつられて優しい気持ちになってくる。エデンで感じていた孤独や苦しみが溶かされていくのを感じた。


「優しいね、希望は。遠慮しなくていいのに」


「遠慮とかじゃなくてっ。誰だってこうなるよ」


「ふふっ。そうかもね。でも難しく考えなくてもいいよ。例えば、その残った唐揚げを温めるっていうのでもいいし」


 私は床に置かれたお弁当のケースを指差した。希望は唐揚げ弁当を半分近く残してしまっている。


「でも、能力使ったら代償があるんでしょ? ニュースで聞いたことある。温めるくらいなら電子レンジで出来るし。あ、レンジまだダンボールの中だった!」


「はい。温めるの決定」


「やめて! そんなことで代償負わせられない……!」


 私の手首を希望の手が掴んでいた。想像以上に力強くてたくましい希望の腕。緊張のあまり、思わず希望の手を振り払ってしまった。思ったより力が出てしまい、無防備だった希望の手は簡単に離れた。


「ごめんね……」


「ううん。俺が悪かった。能力使えるようになってるかどうか確かめないと、言魂使い(オラルメンテ)の能力を消すことすらできないのにね」


「そうだよ。もう」

 

 どうしよう。少し触れただけなのに胸がすごくドキドキする。希望の熱がまだ肌に残っているみたい。


 二人の気配だけが満ちる静かなリビングはとても静かで、心臓の音が聞かれてしまうんじゃないかと心配になった。外を走る自転車のベル音や、どこかの家から時折聞こえる犬の鳴き声。緊張を紛らわせるかのように外の音を探したけど、それも無駄と言わんばかりに頬はどんどん熱くなっていく。


 希望の方を見やった。首に片手をやり、もう一方の手でさっき持ってきたお茶を飲んでいる。希望の頬も心なしか赤い。


 このまま待っても、希望は私に能力を使わせようとはしないだろう。だったら……。


「じゃあ、お世話になるお礼も兼ねて……」


 意識がアパート内を巡るイメージを脳裏に浮かべ、私は両目を閉じた。


「エバーグレイス201号室の荷物を、生活できるレベルに整頓したい」


 言葉にした瞬間、脈拍が速くなるのを感じた。そして、一回瞬きをした直後、軽くめまいがした。願いが叶ったことを直感する。


「紫乃ちゃん……!」


 ふらつく私の肩を、希望がとっさに支えてくれた。暖かい腕に、再び鼓動が速まる。


「もしかして、今のって…!」


「整頓できてない部屋、見てみて?」


「分かった」


 私をそっとソファーに座らせると、希望は他の部屋を確かめに行った。そしてすぐ戻ってきた。


「これが言魂使い(オラルメンテ)の能力…!? 部屋が片付いてた。さっきまで雑然としてたのに……」


「そう。よかった」


「よかったって、他人事みたいにっ。体は? 何ともない?」


「平気。エデンで言わされてた願望に比べたら全然マシだよ」


「そうなの? もう無理しないで……」


 希望は不安そうにうつむき、私の隣に座った。希望の重みでソファーがわずかに沈む。


 そんなに不安そうな顔をしないで。私は大丈夫だから。そう言ったところで希望は納得しない。私は黙ったまま希望を見つめた。


 私がいなくなった頃、希望はつらい思いをしたのだろう。私の想像以上に。


「もう大丈夫だよ。希望」


 二度とそんな思いはさせない。あなたには。


「よかった……」


 私の体調が大丈夫という意味に受け取ったようだ。それでいい。希望にはそのままでいてほしい。


言魂使い(オラルメンテ)の能力を消したい。普通の人間になりたい」


 それまでで最も念を込めて言葉を紡いだ。


 フツウノニンゲンニナリタイ。たった13文字。だけど重要な願い事。


 願いが叶った暁には、頭痛や関節痛、腹痛といった形で体のどこかに必ず異変が現れる。願い事の内容が難しければ難しいほど代償は大きくなる。そんな痛みもこれが最後だと覚悟を決めた。それなのに、代償はちっとも訪れなかった。


「……ダメみたい」


 私はつぶやくように述べた。


言魂使い(オラルメンテ)は、自らの能力を消失させることはできないみたい……」


「……紫乃ちゃん」


 希望はそれきり黙り込んだ。私にどう言葉をかけていいのか分からないようだ。それもそうだ。それに希望は優しいから、言魂使い(オラルメンテ)の能力を無くせばいいという自分の発言に対して深い責任を感じてしまっているんだ。希望は全然悪くないのに。


『殺人鬼にも天使にもなる。言魂使い(オラルメンテ)の存在意義は、人の手で管理されて初めて成立するのだ』


 ゼロの言葉を想起した。エデンで意識を取り戻した初日に言われたこと。なぜこんなタイミングで思い出してしまうのだろう。


 冗談じゃない。創設者の顔はいまだに知らないけど、ゼロのような人間を最高幹部に据えるような組織なんて下衆げすの集まりに他ならない。そんなヤツらに管理されるなんて死んだ方がマシだと何度思ったことか。


 管理されるのが嫌なら自分で管理するしかない。分かっている。分かっているけど、能力者であることをやめられない現実に、私は重たいなまりを飲まされたような心地になった。


 自分はわりと冷静な性格だと思っていたのに、ここへきて気持ちが乱れっぱなしだ。どうしてしまったのだろう。おかしい。


 気持ちの整理がうまくできない。やっぱり私は心の病気というやつなのだろうか? だからこんなにも気持ちが不安定になる? 私はもう、エデンで過ごす以前の自分には戻れないのだろうかーー。



 希望のそばにいられるのはたった三ヶ月。エデンの動きによってはもっと短期間になってしまうかもしれない。その間に、私は独りで生きていく術を見つけなければならない。そのために強くならなければ……。


 今後の目標ははっきりしているのに、今はどうしてもそんな心持ちになれなかった。落胆で胸が潰されそうだった。


 希望が何度か名前を呼んでくれているのに、それを無視して私は自分の頭を抱えていた。


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