3 遠ざかる平穏
あの頃失くした大切なものが何だったのか、今は思い出せない。精神的ショックで記憶が抜け落ちるなんてよく聞く話だし、多分そういうことなんだろうと勝手に自己分析してみる。
どうせ忘れるのなら感情的な印象まで全て欠けたままであってほしかったけど、そう都合よくはいかないものらしい。そのせいで痛みだけは昨日のことのように覚えていて、俺の言動に制限をかける。
良くも悪くも平穏を望む、事なかれ主義。
家族には、昔はそんな風じゃなかったのにと困ったように悲しい顔をされる。そんなこと言われても、という感じだった……。
言魂使いを救うため、再里が犯罪組織の職員になると宣言しておよそ1年が経った、18歳の春。俺達は無事に高校を卒業しそれぞれの進路を歩む運びとなった。
俺は県内の私立大学に受かり、三月下旬から大学付近のアパートで一人暮らしを始められることになった。大学へは実家からも通えるけど、電車とバスを使っても片道2時間半かかる距離。さすがに毎日の通学でそれはきついので、それを理由に一人暮らしをしたいと親に頼んだ。
「もう大学生だしな。火の元だけ気をつけて頑張れよ。仕送りもするから」
父さんはそう言いあっさり許してくれたのでホッとした。
双子の姉の叶は遠方の国立大、しかも医学部に現役合格した。俺と違い叶は一人暮らしをしなければ通学不可能な身なんだけど、父さんも母さんも叶の一人暮らしにはいい顔をしなかった。
「まだ18歳だし女の子だし、何かあった時にそばにいられないのは心配よ。せめて希望と同じ部屋に暮らしてくれればまだ安心なんだけど」
「それも無理だしなぁ……」
「二人とも過保護。今の時代、女だって強いんだから。私は大丈夫。万が一アパートに変なヤツが侵入してきても返り討ちにしてやるから。そのために空手やってきたんだし」
叶が明るく言うことでようやく親は安堵の笑みを浮かべた。双子とはいえ、性別が違えば親の扱いも周囲の対応もそれぞれ違う。男でよかったと俺は思った。
将来は医者になりたい。そんな夢を唱える叶と違い、俺にはこれといって人生の目標がない。至って平凡な人生を送ってきたし、今後もそうなるんだろうと簡単に想像できてしまう。でも、そんな日々は悪くない。平凡が一番だ。言魂使い絡みのニュースを見るとなおさらそう思う。
俺のように言魂使いの能力を持たない人間にとって、言魂使いの誘拐や殺害にまつわる事件は今でもどこかの国で起きている戦争やテロと同列。ニュースなどで傷ついている人達のことを見聞きしその瞬間は胸が痛むが、数分後にはそんなこと忘れて友達からの電話に出てしまえる。そして笑って話を弾ませられる。
事件の渦中にいる人達からしたら、こんな俺の心情は無神経で憎しみすら覚える類のものだろう。分かっているけど人ってそういうものだ。他者から深く傷つけられたことのない俺には、言魂使いの痛みや苦しみなど理解しようがない。いや、理解して共感するのがこわいんだ。正直、関わり合いになりたくない。
失くす痛みを知っている。そんな俺は自分でも救いようがないと思うほど臆病でずるいヤツになった。危機回避能力が無駄に高い。言魂使い問題に積極的な再里がよく友達でいてくれたものだ。感謝と同時に罪悪感も覚える。
親元を離れて一人暮らしを始めることもそうだし、大学生活はきっと何もかもが新鮮な驚きに満ちているはず。新しい友達ができたり誰かと恋愛しながら楽しくモラトリアムな日々を送っていくんだろう。再里と違い、脱力感で出来ている俺みたいな男にはそんな日常が似合ってる。
慣れ親しんだ実家を後にし、これから一人暮らしをする3LDKのアパートで荷物整理をしながらそんなことを考えた。どうせ一人で住むんだから借りるならワンルームでいいと言ったけど、
「大学生っていったら友達付き合いが大事よ。一生付き合える友達ができるかもしれないんだから」
「そうそう。高校までと違って友達同士で飲んだりすることもあるし、突然人を泊めることになった時のことも考えておいた方がいいぞ。父さん達もたまには泊まりがけで希望の顔を見に行きたいしな」
親は二人そろってそんな主張をし、3LDKの、しかも築年数が浅い物件を探してくれた。そういうところにまで気が回らなかった俺は、親っていうのは人生の先輩なんだと改めて感じた。メインの二部屋は南向きで日当たりがいいし、唯一の北部屋はウォークインクローゼットになっている。一人暮らしの学生には贅沢すぎる気もするし親はたまにお節介だけど、素直にその厚意が嬉しいと思う。
一方で、こうして家族と離れて生活することができ、解放感でいっぱいになった。いつからだろう。あの家にいるのがしんどくなっていた。反抗期とか思春期だからという理由ではない。
『昔の希望はそんな風じゃなかったのに』
家族の面々からそう言われるたび嫌気がした。昔の自分と比較されることほどきついものはない。一度や二度の冗談なら流せるが、どうもそうではないらしかった。長年家族をやっていたら嫌でも分かる。うんざりした。
昔は家にいるのが楽しかったはずなのに、いつからこんなに家族と距離を置きたがったんだろう……。
まだ半分残っているけど、今日の片付けはこの辺でやめよう。ちょうど空腹だし何か食べに行こうかな。
まだ手になじまない新居の鍵を使って玄関の扉を閉め、アパート前の道路に出た時だった。歩道を歩いていると反対方向の車線から黒いセダンがゆっくり近付いてきて、運転席の窓が開いた。
「希望! どっか行くのー?」
見慣れた幼なじみが運転席のフロントガラス越しに手を振っていた。相変わらず人好きのする笑顔を見て、引っ越し疲れがフッと消えていく。
「再里……! どうしてここに!?」
「希望んちに電話したら、引っ越し先の住所叶ちゃんが教えてくれてさ。出かけるとこ? 入れ違いにならなくてよかった〜」
再里とはもう二度と会えないと思っていたから、驚き以上に喜びが上回った。再里はその場で車を一時停車させハザードを点灯させると、反対側の歩道にいる俺の元まで小走りした。
再里は高校在学中に運転免許を取り、卒業後はエデンという裏組織に心理カウンセラーという立場で潜入することが決まった。普通カウンセリングができる臨床心理士という職業は大学院まで出て専門的な勉強をしていないとなれないらしいが、エデンにはエデン独自の筆記試験があるとかで、学業面で優秀な再里はさらっと合格点を出し組織の職員になることが許された。再里は昔から心理学方面に興味を持ち独学していたので当然の結果かもしれない。
組織の情報が外部に漏れることを警戒しているエデンの創設者兼最高責任者に当たる人物は、職員を永久的に住み込みで働かせているし外出も許さない。エデンに入れば二度と元の暮らしには戻れない。それは再里も同じのはず。もし脱走など試みた場合、組織の裏切り者と見なされ、エデンに控える言魂使いの能力で命を奪われる契約となっている。卒業式の日、再里から聞かされた話だ。
「会いに来てくれたのは嬉しいけど、こんなとこ組織のヤツに見つかったらまずいんじゃないの? 一度エデンに入ったら外部との連絡も禁止されるって言ってたよね」
「うん。基本そうなんだけど、俺の場合、組織内で初のカウンセラー職ということで特別扱いされてるんだ。心理カウンセラーって特殊任務って言って他の職員とは業務内容が違うから、前もって幹部に連絡すればこうして自由に行動できる。それでもエデンのヤツらに監視されてることに変わりはないし、組織での仕事もあるから高校の時みたいに気ままに希望と会ったりはできないんだけどな」
けろりと言い、再里は右手の甲をこちらに見せるポーズを取る。手首には高そうなシルバーの腕時計が巻かれていた。
「中にはGPSが内蔵されてる。エデンのヤツは組織内部の人間のことを信用してないみたいだな」
「監視ってそういうことか……」
「これ、普通の腕時計に見えるだろ? でも自由に取り外しできない。特殊な加工が施されててな。休憩中に職員から聞いたんだけど、言魂使いの能力でそんな加工を施したって話。風呂中も取れないから防水。防水加工はさすがにノーマルな技術だろうけど。言魂使いを何だと思ってるんだろう。アイツら人間の顔した悪魔だ」
「そうなんだ……」
悲しくなった。再里がこうして会いに来てくれたのに、もう以前の俺達ではないのだと思い知らされて……。前までは無視できてた再里との差が一気に開いた感じだ。
再里の気持ちを尊重すると決めてから反対するのは諦めたけど、俺はまだ再里の組織入りに心から納得しているわけではなかった。正直今でもすごく心配だ。再里が言魂使いを助ける仕事をしたいと宣言して1年が経った。今になっても、どんなルートでエデンの存在を知ったのか話してもらえないままで、それもけっこう引っかかっている。
再里にとって俺は頼りなかった。そういうことかもしれない。言魂使い事件に関心の薄い俺とそうでなかった再里は、価値観や考え方もまるで違う。再里が俺をアテにしないのも当然。分かっているけど、やるせない。
そういった複雑な感情を再里にぶつけず心に留める。それが友達としてできる最低限のこと。なのでもう前みたく再里に本音をぶちまけたりはしない。
「せっかく会えたんだし、エデンのこと探ろうなんて思ってないからちょっとだけ付き合ってよ。これからちょうど夜飯行こうと思ってたとこだったし」
「ごめん、希望。そうしたいのはやまやまだけど飯は行けない。今日は緊急の頼み事があって希望を訪ねたんだ」
とたんに緊張感が張り詰める。不穏な雰囲気を察して胸がざわついた。組織の悪事に加担してほしい系のお願いだったらどうしよう。再里に頼まれたらきっと断れない。でも、犯罪組織の野望に関わるようなことは絶対したくない。
「どうしたの、改まって。俺にできることならいいけど」
顔がひきつってしまう。本心から力になれなくて申し訳ない……。心の中で謝り、再里から目をそらした。再里の声は彼らしいサバサバ感から悲しげなトーンに変わる。
「女の子を預かってほしい。実は今、連れてきてる」
「え……!?」
再里の視線を追うように黒いセダンを見た。助手席には誰もいない。後部座席の窓は黒塗りで中が見えないけど、おそらくそこに再里の連れてきた子が乗っているんだ。
維持していきたい平穏が音を立てて崩れていく。どんな子かなんて訊かなくても分かった。
「エデンから助け出した言魂使い……?」
「ああ。心理カウンセラーって創設者にも最高幹部にも認められる特別な職で、立場上俺が彼女を連れ出すことは容易だった」
「連れ出してどうするつもり?」
「彼女をエデンの手の及ばない場所へ逃がしたい。そのために俺はエデンに入ったんだ」
訊くまでもなく知っていた。再里の目的は言魂使いの救出。だから言魂使い専属心理カウンセラーになったんだってことも。
再里は友好的な性格で頭もいい。連れ出したからには何かしら今後の計画があるんだろうってことも分かる。だけど、エデンに入ったばかりの新人がそんなにも都合良く事を運べるものだろうか?
「再里の目的は理解してる。できることなら力になりたいと思う。でも……」
「大丈夫。エデンのヤツらは俺が彼女を脱走させようとしているだなんて微塵も考えていない」
「そんなことってある? 絶対怪しまれるでしょ!」
感情的になってしまう。再里が悪いわけじゃないのに責めるような言い方しかできない。自分が情けなかった。
「怪しまれてない。そこは心配ない」
最高幹部の男に指示され、再里はとある言魂使いのカウンセリングを引き受けた。その子は心の病気が原因で能力を使えなくなったので、再び能力が使えるよう、再里はカウンセリングという名目で彼女を自由の身にした。エデンもそれは了承しているという。
「本当ならじっくりカウンセリングをして彼女の心を癒していけたらいいなと思ってたんだけど、そんな悠長なことは言っていられないほどひどい状態だった。このままエデンの施設に住まわせてたら彼女の心は本当に死んでしまう」
「それは可哀想だけど……」
再里の声音と表情は深刻だ。できることなら力になりたい。でも、事態の深刻さを感じれば感じるほど、俺なんかにどうにかできることではないと思えてくる。再里みたいに専門知識も情熱もない。何よりこんな薄情なヤツが。
「俺なんかにそんな重要なこと引き受けられるのかどうか自信ない。再里の言葉は信じてるけど組織のことは信用できない」
「希望にしか頼めないんだ。彼女はエデンではない別の場所で心身を正常に戻す必要がある。でないと彼女は二度と普通の人間には戻れない……。俺が預かれるのならそうするけど、前話した通りエデンに入ることが決まってから実家とは縁を切ったから、俺の家はもう組織内部の職員寮だけ。それでは彼女の療養にならない」
再里の気持ちが痛いほど伝わってくる。いつもは明るく元気な再里の、こんなに必死な様子は初めて見た。友達として力になるべきだ。分かってる。俺は子供の頃再里に助けられた。恩があるし、再里の力になりたいって気持ちは嘘じゃない。見捨てるなんてできない。できるわけがない。
でも、それ以上にこわい。俺はもう平穏を失いたくない。平穏を失ったら日常がどうなるかを嫌ほど知っているから……。
「重いこと頼んでるって分かってる。でも、こんなこと頼めるの希望しかいないんだ。どうしてもダメか? 俺は彼女を助けたい」
切なく歪んだ再里の瞳からは確固たる意志が伺えた。目標まであと一歩。ここで頑張れば再里が長年抱いてきた夢は実現するのかもしれない。
「今俺が預かってその子の心の病気が和らぐとしてもそれは一時療養みたいなもので、時期が来たらエデンに帰すんだよね。そんなのかえって残酷じゃない?」
「それはそうだけど、表向きそうするだけだ。今すぐには無理でも、彼女を逃がせる瞬間をいつか絶対作ってみせる」
「そのために俺の元で彼女の気持ちを安定させる必要がある、と……」
再里がうなずいた時、再里の車の後方扉が開く音がした。俺達は同時にそっちを見やる。
中から存在感の希薄な女の子が出てきて、こちらへそろりそろりと歩いてきた。失礼だけど、彼女の長い髪の印象もあいまって幽霊のように見えた。肌全体が青白く、少し触れただけで小枝のように折れてしまいそうな細い体。
エデン内部で彼女がどんな扱いを受けてきたのかを肌で感じ、寒気がした。立ち続けることすらつらいのか、少し動いただけなのに彼女は小さく息切れして苦しげに顔を歪めている。心だけでなく肉体面にも問題がありそうだ。
彼女が着ている淡いピンク色をした長袖のワンピース。体のラインが出るようなデザインで作りも可愛いけれど、彼女がそれを着ても華々しさや女性的曲線は全く感じられなかった。唯一肌の見える首筋や手の甲はやはり血色が悪く、骨と皮だけなのが触らなくても分かる。食物飽和の日本において、どんな暮らしをしていたらこうなるんだ?
胸が激しく痛み、シクシクと軋むような音が頭に響く。それは、昔失くした何かに対する感情とひどく似ていた。こんな感情、二度と味わうつもりはなかったのに……。
初対面のはずなのに、彼女の視線がこちらに向いた瞬間、ひどく懐かしい感じがした。見た目こそ不健康だけど優しそうな顔立ち。寂しそうな目の奥に宿るひたむきな強さ。この目を俺は前にもどこかで見たことがある。
「紫乃ちゃん……!」
再里は彼女に近付いた。
「そんなに歩いて大丈夫?」
「平気」
温度のない彼女の声。空気までひんやりした気がした。まるで言葉を話す人形だった。
紫乃なる彼女は、平気という言葉とは裏腹に大きく体をよろけさせ再里の胸元に倒れ込んだ。彼女が再里に助けられた言魂使いの女の子……。
手を取り合う二人を見てなぜかまた胸が痛んだ。彼女の憔悴具合に同情したのかもしれない。この時はそう思った。そのくせ、目の前の出来事に現実感が伴わなかった。だだっ広い映画館の中、たった一人でスクリーンに向き合っているような感覚。
「その子が今言ってた…?」
「紫乃ちゃん。俺らと同じ18歳なんだ」
紫乃……。頭の奥で針に刺されたような痛みが生じる。
強い風が吹いた。さらりとした長い髪が吹き乱れるのも気にせず、紫乃ちゃんは俺を見た。
「初対面で図々しいお願いをしているのは痛いほど分かってる。あなたには決して迷惑をかけない。だから協力してほしい」
悲しみが染みついたまっすぐな瞳。同い年なのに彼女が妙に大人びて見えるのは、俺なんかとは比べものにならない深い傷を負っているから? 人生の経験値からして俺とは違う。別世界の人……。
「エデンに戻る気はない。再里君もひそかにそれは認めてくれてる」
「再里、そうなの?」
再里は小さくうなずいた。再里はエデンの力になるフリをして彼女の脱走を手伝う、そういうことか。
「私はエデンから逃げ切ってみせる。その後は決してあなたに頼らないと誓う。だから三ヶ月。ううん、一ヶ月でいい。あなたの家に居させてくれませんか?」
真摯な声音で紫乃ちゃんは深く頭を下げた。たまにポツポツと通りがかる人が何事かとこちらを見ていく。
「待って、頭あげて」
彼女の肩を掴んで顔を上げさせ、口早に言った。
「分かった。いいよ。三ヶ月くらいなら何とかなると思う」
これで平凡な暮らしは確実に遠ざかった。
「ありがとうございます!」
眩しい笑顔を浮かべ、紫乃ちゃんはうっすら頰を赤くした。記憶ははっきりしないけど、やっぱり俺はこの笑顔を知っている気がする。そんな思いを強めたのは、さっきまではなかった胸の高鳴り。
甘いような渋いような、ほんの一瞬にしてそのどちらにも転がってしまいそうな移ろいやすい感情。ほんの少ししか顔を合わせていないのに、俺は紫乃ちゃんに好感を抱いた。
再里の頼み事というのはもちろんだけど、紫乃ちゃんと対面し言葉を交わした瞬間、彼女を預かることへの抵抗感は不思議なほど消え去った。それに、預かるといっても三ヶ月。長いといえば長いけど、大学の夏休みが始まる頃までと思えば短い。きっとあっという間だ。
平凡な暮らしを望んだのはもう過去のこと。紫乃ちゃんに出会って初めて、俺は言魂使いと呼ばれる能力者に関心が湧いたのだった。