2 摘み取られた初恋
お父さんはとても優しかった。
物心ついた頃、お父さんとはよく散歩をしていた。私が道端に咲いている花を摘んだら「そんなことをしたら花が可哀想だからもうしてはいけないよ」とやんわり注意してきた。その時は花の綺麗さに共感し喜んでもらえないことが悲しくて泣いてしまったけど、そんな私を抱き上げ胸元に抱きお父さんは言った。
「紫乃と同じで花も生きているんだよ。せっかく綺麗に咲いているのにそうやって折ってしまったら、花は痛みで泣いてしまうんだ」
「お花も痛いの?」
「そうだよ。傷つけられたら痛いんだ。犬も猫も、命あるものは皆同じなんだよ」
そこでようやくお父さんの言葉に納得がいって、以来、私は花を手折ることはしなくなった。
とはいえ、そういう言動は家族の中だけで通じるのであって、小学生にもなれば話は別だった。
小学二年の頃、学校から徒歩数分の河川で課外授業が行われた。クローバーが群生する場所で、担任の若い女の先生はクラス全員で四つ葉のクローバーを探そうと言いだした。生徒への課題だった。
普段の授業と違ってなんて楽しいんだろう。クラスの皆は喜んでクローバー畑をかき分けた。私一人だけ浮かない気持ちで課題に臨んだ。
「先生、三つ葉しか見つかりませーん!」
楽しげに不満を言うクラスメイト達を尻目に消極的な気持ちでしゃがみこんだ。傷つけてしまわないよう、たくさん生えたクローバーにそっと手を触れた。探すまでもなく、すぐに四つ葉のクローバーは見つかった。
「あった……」
見つけた人は摘んで先生に見せて下さいね〜。先生の声がしょっちゅう同じセリフを投げてくる。胸が圧迫された。どうか他の人に見つかりませんように。心の中で祈った。
探しているフリをしてクローバーを守るべくその場でジッとしていた。同じ場所から動かずしゃがみっぱなしな私を不思議に思ったのか、同じ班の男子が声をかけてきた。
「紫乃ちゃん、あった?」
「どうだろ……」
うまく嘘をつけず目を泳がせる私を見て、彼は私の隣に同じようにしゃがみこんだ。ダメだ。このままじゃ四つ葉のクローバーが見つかってしまう。
「これ……! あったんだ。取らないの?」
彼の口調は責めている風でもなく、単に疑問といった感じだった。
「取りたくないから」
「じゃあ俺が取っていい?」
「だめ!!」
初めて人に大声をあげた瞬間だった。彼はビックリした面持ちで私を見つめ、クローバーに伸ばそうとした手を勢いよく引っ込めた。皆の視線がこっちに集まる。顔が熱くなった。
「二人ともどうしたの?」
先生が私達の元にやってきて何事かと尋ねてきた。何でもないと言えばいいのに、クラス中から変に注目されてしまった恥ずかしさで頭が真っ白になり言葉が出てこない。
「あ、四つ葉のクローバーだ。見つかったんだね、すごいじゃない! 紫乃ちゃんが先に見つけたの?」
うなずこうとして首がコチコチに固まった。ウンと言えばこのクローバーは先生に摘まれてしまう。
「そうだよ。でも取るのはやめようよ。先生」
私の代わりと言わんばかりに彼は先生に意見を述べた。
「でも課題だしねぇ……」
困ったようにしばらく迷った末、先生は結局彼の意見を受け入れた。
「そうね。摘んだらせっかく咲いてるのが枯れてしまうもんね」
そして先生はクラス全員をこちらへと呼び寄せ、私の見つけた四つ葉のクローバーを摘むことなくそのままの状態で観察するよう皆に指示した。四つ葉のクローバーを見たことがない子も何人かいたので感動で声を高らかにしつつ皆は口々に私を褒めてくれたけど、それらの言葉は耳を素通りしていった。意識は彼の方にばかり向く。
高城希望君。
小学校に入学して以来二年間同じクラスで、今学期は同じ班になったけど今まであまり話したことはなかった。クラスは別だったけどたしか幼稚園も同じだ。友達と話している彼ならいつも視界に入る。とても優しい笑い方をする男子だという印象があったけど、それだけだった。今までは……。
だから余計に意外だった。優しそうな笑い方をするから性格も穏やかなのだと勝手なイメージを持っていたけど、彼は先生を相手にしても物怖じする様子もなくサラッと自分の意見を述べた。しかも、それは多分クローバーを摘みたくなかった私のために。そんなところがどうしようもなくかっこいいと思った。
初めて覚える胸の高鳴りが何なのか分からず、だけどほんのり幸せな感情。希望君の姿があると視線がそちらへ引き寄せられてしまう。こんなことは本当に初めてで、自分が自分でないみたい。
クラスの輪から少し離れてクローバー観察の様子を見ていた私の元に、希望君はやってきた。
「さっきはごめんね」
彼はなぜか神妙な顔で謝ってきた。
「ごめんねって、さっきクローバー取ろうとしてたこと……?」
「うん。そう」
まっすぐな瞳で申し訳なさそうに言われる。ドキッとした。それも彼の優しさの一部分。私がクローバーを摘むのを嫌がったからこんな顔をしているんだ。
「もう気にしてないよ。希望君のおかげでクローバー摘まれずにすんだもん。ありがとう、先生にああ言ってくれて」
「花は土に咲いてた方が長生きするって、うちの父さんが言ってたから。それ思い出して」
「そうなんだ…! 私のお父さんと同じこと言ってる」
「ホントに? なんかすごいね」
思わぬ共通点。意外な意気投合。それまでただのクラスメイトだった希望君の名前をはっきり意識し、恋に落ちた瞬間だった。
それから、同じ班だった私達はみるみる仲良くなっていった。もちろんクラスには他に女の子の友達がいたし希望君にも再里君という男子の幼なじみがいたけど、希望君との会話は女の子の友達とは別の楽しさがあったし希望君の方も私と話すのを楽しんでくれているようだった。学校内だけでなく、希望君とはいつしか休みの日も朝から夕方まで遊ぶくらい仲良くなっていた。
給食のプリンを男子達に取られそうになった時、希望君はさりげなく助けてくれた。中庭掃除で服を汚してしまった時、自分の服の裾で私の服の汚れを落とそうと必死になってくれた。
私達は似ている。
話も合う。
何より希望はとても優しい。
どんどん好きになっていく。
いつしか互いに名前を呼び捨てしあうようになっていった。希望は私のことを親友みたいな位置で好きだと言った。それは決して恋愛感情の好きではないけど、それでも死ぬほど嬉しかった。
希望の特別でいられるのなら、私は一生いち親友でいい。私達は似ている。お互いに一緒にいることで欠点を補い合えるような気がした。
恋心をはっきり自覚できるようになった小学五年の頃、希望と私は全く違う環境で生きているのだと思い知らされた。
私のお父さんは優しかった。それゆえにどんな仕事に就いてもすぐに辞めてきてしまう。人から注意されたり責任のある仕事を任されることに耐えられないらしい。私が小学校に上がる前から色んな職場を転々とし定職に就けないまま。そのうち年齢や実務経験などで職探しにも制限が出てまともな職に就けなくなった。結果、お父さんは外で働かなくなり、お母さんはパートを二つ掛け持ちすることになった。それでも生活は苦しい。
学校で使う必要最低限の物すら買うのをためらわれ、お母さんは困った顔ばかりするようになった。お父さんは家に引きこもり、お母さんは働きづめでストレスを日々重ねていく。
「あなたがあの時仕事を辞めなければ今頃もっと余裕があったのに……。バイトでもいいから収入源を見つけてきてくれないかしら」
「悪かったよ。本当に……。でも俺なんかを雇うところはもうないよ。バイトでも」
「紫乃にもそろそろ新しい服を買ってあげたいけど今月も無理そうね。予算以上に食費がかかっちゃって。修学旅行の積立金も毎月取られたんじゃきついわね」
二人が顔を合わせるとそんなやり取りが繰り返され、場をしんみりさせた。遠回しに私の存在が負担だと言われている気がして、ただ生きているのも申し訳ない気持ちになる。食事中は特にしんどかった。お父さんは好きなだけ食べていいと言うけどお母さんは食費のことでこわばった顔をする。お米は遠慮しておかずだけですます日もあった。
「紫乃が言魂使いだったら億万長者になって楽させて〜って頼みたいくらいよー」
家事をしながら、お母さんは時々そんな冗談を言った。顔が笑っているからまだいいけどきっと本音なんだろう。
言魂使いといえばここ数十年の間で知名度が高くなった能力者のことで、聞く話によると願い事を口にしただけでどんな事でも叶える神がかった能力の持ち主。
言魂使いであるかどうかは生後間もなく行われる血液検査で判定され、それをオラルメンテ型と呼ぶ。略してOM型。OM型の判定方法は近年になってようやく実現したものらしく、少し前の世代にはなかった医療技術だった。
OM型は数字で記される。1から500まであり、数字が小さいほど高レベルのオラルメンテとなる。
OM型の判定方法が確立されて以来、人は生後すぐ血液検査でOM型を判定することが義務づけられている。
OM型の結果は生みの母親ですら知らされることなく医療関係者だけが把握できるもの。法律でそう定められている。無用なトラブルを防ぐためだ。言魂使いは社会的にも問題になりやすくそれ絡みの犯罪も多い。言魂使いは存在するだけで人の感情を乱す存在だ。家族間でもそれは同じ。そういった事情で、OM型は基本的に一生本人にも秘されたままとなる。OM型の違いは輸血には影響せず、血液型さえ同じなら言魂使いから言魂使いでない人への輸血も可とされている。
だったらなぜOM型を調べる必要があるのか。それは、言魂使い絡みの犯罪が起きた時、OM型の情報を持つ医療機関と警察が協力しあって捜査を進めるため。言魂使い絡みの犯罪は世界中で毎日のように起きている。
RhとABO方式の血液型はもちろん個々に伝えられる。私はRhマイナスのAB型。医療機関に保存されるカルテの血液型表記欄にはOM型も載っているそうだ。生涯自分のOM型を知ることはない。それが基本。
日本でもたしかに存在する言魂使い。でも、この時は身近にそんな話がなかったのでいまいち実感が持てなかった。ただ、日々元気を失っていくお父さんとお母さんのことで悩んでいた。世界を揺るがすオラルメンテ問題より家族の在り方の方が私にとっては重大だった。
昔は家族皆でもっと笑い合っていたはず。お父さんもお母さんもどうか悲観的にならないで明るくいてほしい。いつも寝る時、窓越しに夜空を見上げた。消えた二人の笑顔を思い出し、寂しい現実の痛みを和らげる。
希望の家はそんなこととは無縁の穏やかで安定した家庭だった。希望を含んだ四人家族で私の家より暮らす人数が多いのにお金に困っている様子もない。お父さんは大手企業の役員クラスでお母さんも歯科医師をしているとか。裕福なのがうなずける。
希望のお父さんとお母さんはアクティブな人で、キャンプやハイキング、山登りが好きな人達だった。長女の叶ちゃんも両親に似て明るくてサバサバしていた。叶ちゃんは希望の双子のお姉ちゃんだ。ショートヘアで空手も習っているボーイッシュな反面、整った顔立ちの可愛い子。
叶ちゃんとはクラスが違うけど、希望を通して仲良くなった。希望と叶ちゃんは二卵性の双子なので顔立ちは違うけど、やっぱり家族だから、二人の仕草や口調はたまに似ている。生まれた時から希望のそばにいる叶ちゃんのことがちょっとだけ羨ましくなったりもして。
希望と仲が良いというだけで、希望の家族は私のことまでキャンプや家族旅行に同行させてくれた。希望と二人で遊ぶ時と違いそういうことにはお金がかかる。お母さんにはとてもおこづかいなんて頼めないので最初は断った。
「紫乃はうちの家族みたいなものなんだから、気にせず来なよ」
「ありがとう叶ちゃん。でも、やっぱり私は行けないよ。お金のことで他所の家に迷惑かけるなってお母さんからいつも言われてるから……」
「そんなことか! お父さんね、この前ボーナスたっくさんもらったから楽しいことに使いたくて仕方ないんだって。だから気にしなくていいよ。私、紫乃に来てほしいな〜」
叶ちゃんはそう言い私の頭をポンポンと撫でた。同い年なのにお姉さんぽい叶ちゃんに照れてしまう。優しくされると嬉しい。
「そうだよ。紫乃ちゃんが楽しいならおじさんも嬉しい」
希望のお父さんはうちのお父さんとは別の意味で優しい。優しさの奥に男性特有の強さがある。
「三人でガールズトークしながら楽しみましょう、ね?」
希望のお母さんは若くて明るくて綺麗だ。うちのお母さんは気持ちに余裕がなくいつも疲れていて、見ているとつらくなる。最近はうまくお母さんと目を合わせられない。希望のお母さんとの方が服や流行りの音楽の話題で盛り上がれた。
「それに、紫乃がいないと一番寂しがるのは希望だからっ」
「なっ! 何わけわかんないこと言ってんの叶は!」
顔を真っ赤にして叶ちゃんに言い返す希望。やっぱり好き。この場所が。希望のそばにいられるこの時間が。
「ありがとうございます。私も行きたいです」
希望の家族といると素直になれた。ここは居心地がいい。自分の家では親の顔色を伺ってしたいことを素直に言えない。
憧れの家族。優しい時間。うちとは真逆だと知るたびひどく胸を締めつけられた。希望の家族と過ごす時間は楽しいし素直な自分でいられるのは本当に幸せだけど、その分、今頃仕事で頑張っているのだろうお母さんのことを思うと泣きたくなった。
帰り道、希望が家まで送ってくれた。彼は私の心中に気付いたらしい。
「何かつらいことがあるなら話してよ。俺に話せないのなら叶にでもさ。アイツ紫乃のこと大好きだし」
「ありがとう。希望。大丈夫だよ」
希望の優しさが身にしみて涙がこぼれた。頬にこぼれた雫を、希望は何も言わずに指先で拭ってくれた。
「泣き虫だな、紫乃は」
「泣いてないよっ」
「そういうことにしとく」
「なにそれっ。あははっ」
希望は私を笑わせる天才だ。こうして自然と笑わせてくれる。
叶ちゃんが太陽だとしたら希望は月みたい。普段はあまり自己主張しないのに、大事なところで私の気持ちの綻びに気付き手を差し伸べてくれる。いつも見ていてくれるのが分かる。言いたくないことを無理に聞き出そうとしない配慮もありがたかった。たとえそばにいなくても希望とは心の糸でいつもつながっている。そんな気がする。
私の10歳の誕生日。希望の家族はいつものイベントと同じノリで私を祝ってくれた。隣県のホテルのリゾート施設を日帰りで予約してくれていた。希望のお父さんの父親が経営しているホテルだから少々ワガママな予約でも融通を利かせてもらえたらしい。
温泉や遊園地で楽しんだ後、私の家族用にとお土産もたくさん持たせてくれた。その土地でしか売っていないお菓子や雑貨。その中に、ホテルの料理長直伝の生しぼりオレンジジュースがあった。瓶入りの高そうな物だった。
「紫乃、オレンジジュース好きだって言ってたから。ここのおいしいから飲んでみて」
希望にそう言われ、頬が熱くなった。私の好物を覚えていてくれた。そんなところがたまらなかった。
その日、希望の家族は私の家族のことを気にして夕方には家に帰してくれたので、夜はお父さんやお母さんと誕生日のお祝いをすることができた。お母さんはきっと無理をしてくれたんだと思う。普段は高いからと言って買うのをためらう野菜や肉を使った手料理がたくさん食卓に並んでいた。近所で美味しいと評判のお店のケーキもある。
「紫乃、唐揚げ好きでしょ? 今日はたくさん揚げたから好きなだけ食べてね。いつも我慢させてごめんね」
お母さんは泣きそうになっていた。
「ありがとう。泣かないでよお母さんっ」
「だって、もう10歳でしょ……。ついこの間まで赤ちゃんだったのに、子供の成長って早いのね。だからなんか、感動しちゃって……」
「お母さん……」
私まで涙が出そうになった。お父さんは黙ってお母さんの肩を撫でていた。私の誕生日ってだけでおおげさだなと思った。成長を喜んでくれるのは嬉しいけど、二人の悲しそうな顔がやけに胸に貼りついた。いつまでも鼻をすすり薄く涙を流し続けるお母さんが心配になったけど、何でもないふりで私は楽しむことにした。
翌日、お土産にもらったオレンジジュースをお母さんと分け合い飲んでいた。その中に睡眠薬が仕込まれているとも知らず、私はいつも通り普通にお母さんと会話していた。
「高城さんのお宅には迷惑をかけてばかりで申し訳ないわね。希望君は本当にいい子だし、結婚したら紫乃は幸せになれるわね」
「結婚って、私達まだ小学生だよ。それに希望はそんなこと考えてないかもしれないし」
「男の人って素直でね、そういう行為に歳なんて関係ないの。男性って好きな人には無自覚に尽くしちゃうものなのよ」
希望と歩む未来なんてないと分かっていたくせに、どうしてそんなことを言ったの? お母さんーー。
その日を境に、私はオレンジジュースが大嫌いになった。まあ、今となっては点滴が食事だから直接その味を舌で感じることはないんだけど……。
エデンに来て7年が経った。
長いようで短い時間だった。いや、時間なんて存在しないのかもしれない。少なくとも私にとっては。あったとしても無意味。睡眠時間をはじめ自由時間ですら他人に管理されている。
エデンはオラルメンテ独占禁止法を無視し、世間に知られないようにオラルメンテの少女を買い取る組織だ。潤沢な活動資金で今日も暗躍している。
私の生家みたく金銭的に苦しむ貧困家庭をターゲットに、その家の子供が言魂使いなら漏らさず買い取る。それも決まって女の子供限定。男の言魂使いは力がある分、連れ去る時に抵抗されることもあり効率が悪いのだとか。その点、女の筋力は弱いので暴力でねじ伏せることができる。エデンは下劣な組織だ。
創設者の顔はまだ知らない。きっとろくでもない外道に決まっているけど。あの日私を地下室からスイートルーム並みの特別室に移動させた悪魔仮面の男・ゼロがエデンの最高幹部であることは後に知った。
姑息な手段でお金を稼いで私利私欲を満たす。そんなことのために言魂使いを連れ去っては使い捨てにし、秘密裡に埋葬している。言魂使いは能力こそ人外的だが体は普通の人間と同じで不死ではない。それに、OM型の数値が高い言魂使いはささいな願いを叶えるだけで命を落とす。
ここへ連れてこられた日に私の手枷を外してくれた同世代の女の子。《がらんどう106》。106という数字はOM型を示すのだと、ゼロは説明してきた。106といえば、全Fランク中でランクDの言魂使い。
106はあの翌日に亡くなった。私の手枷を外した罰として、ゼロが無理に彼女の能力を酷使したせいで。
私のせいで彼女は死んだーー。あの子にだってまだ先の人生があったはずなのに。
「遅かれ早かれアイツは死んでいた。ランクDなぞ話にならんからな」
軽い物言いをするゼロを見て叫びたくなった。それまでに味わったことのない悲しみと胸を焼き尽くす嫌悪で気が狂いそうだった。
外道! 人間のすることじゃない! 私をここから出せーー!! お前の好き勝手にされてたまるか!!
叫びは、言語無効化装置と呼ばれるガラス製マスクでシャットアウトされゼロには届かなかった。奴は鼻で笑いこちらへ近づくといやらしい手つきで私の太ももを撫でた。寒気と気持ち悪さでめまいがした。
何をするつもりーー?
殺されるのかと思い身が縮こまった。その時はまだ10歳で無知だったけど今なら分かる。アイツは私に欲情したんだ。ゼロはすぐに私の肌から手を離し、クックッと喉の奥で笑った。
「手を出して精神錯乱状態にでもなられたら使い物にならない。そうなれば俺の首が飛ぶ。自分の血に感謝するんだな」
それ以来、ゼロが私に触れてくることは一度もなかった。私のことはなぜか特別扱いしているらしく触るのをやめたけど、地下室で殴られていた女の子達はコイツにいつもこんなことをされていたのかもしれない。想像するたび吐きそうになった……。なんて汚い大人なんだ。
「お前はOM型2の言魂使い。100人に一人生まれるかどうかの高貴ながらんどう」
高貴な? どういう意味だろう。106の名札にもがらんどうと書いてあった。
「がらんどうは空っぽという意味だ。お前はランクAゆえ優遇されるだろうがここへ来た以上好きに言魂使いの能力を使うことは許されない、ただの人形だ」
私は自分のOM型をこの時初めて知った。原則医療機関の人しか知らない、マイナンバー以上に機密にされるべき個人情報だ。お母さんだって知らないこと。
どうして、私のOM型情報がエデンに漏れた……?
106は助けを求めて私の手枷を外した。高レベルの言魂使いがやってくることを彼女達はあらかじめゼロから聞かされていたというから、間違いない。彼女達はエデンから逃げることを諦めていなかったんだ。
他の言魂使いはどうか知らないけど、私はここではいい扱いを受けている。寝心地の良いベッド。広々とした個室。本当にホテルのスイートルームなのかもしれない。相変わらず食事はさせてもらえず1日3回の点滴で栄養を与えられる生活だけど、欲しい物は要望書に書けば一部の禁止品を除き何でも与えてもらえるし、エデン専属の教員が来て年齢に見合う学習をさせてもらえる。定期的な歯科検診や健康診断もある。清潔な部屋で暮らしているので病気など滅多にしなかったけど、体調が優れない時は看護師により手厚く看病された。
人の気配は常にそばにあるのに誰とも会話できない日々。そんな生活のせいで読書が得意になったし、独学だけど絵を描くのも上手くなった。実践はできないけど料理のレシピも覚えた。普通に学生をやっていたら絶対手に取らなかったであろう難しい専門書も読みあさり知識もついた。
安定した贅沢な暮らしには代償がもちろんあった。週に一、二度のペースでゼロに指示され、渡された原稿の文章を声に出して読む。それは誰かを殺すための言葉だったり失敗を目論む願望だったりした。そんなことに加担したくなくて、はじめは首を横に振って抵抗の意思を見せた。するとゼロは同室にレベルFの女の子を連れてきて、私の目の前でその子のお腹を容赦なく拳で殴りつけた。彼女の口にも言語無効化装置がついていた。それでも彼女の苦痛ににじむ様が肌に伝わってくる。
「それを読まないとコイツは死ぬぜ?」
私に選択権はなかった。
目の前で誰かが傷つけられるのはもう嫌だ。私がこれを読めば彼女は助かる。実際そうなった。ゼロに殴られた女の子は恨めしげにこちらを睨んでいた。いいねあなたは原稿読むだけでいい暮らしができて。そう言われた気がした。彼女がここを出て行ってもその眼差しは脳裏に強く残ったままだった。
原稿の内容はあえて記憶しないようにした。そうでないと今度こそ精神が崩壊する。
能力が発動したのか、原稿を読み終えてすぐ頭蓋骨が割れるのではないかというほどの激しい痛みが脳に走り、同時にひどい吐き気に襲われた。点滴生活なので吐くものはほとんどなかったけれど、だからこそよけい気持ちが悪く不快感は増す。
すぐにエデン専属の医者が現れて私を介抱した。そこまで苦しんでも二日くらいすれば体調は元に戻る。とはいえ、苦しみの体験は繰り返される。願い事の内容が複雑化するほど私の体に起きる異変も大きくなった。これが言魂使いの能力を使った代償で、106が死んだ原因だ。もっとも、私はどれだけ力を使おうが死ねないけれど。私のようにOM型の数値が低い言魂使いはどんな無理をしても死なないらしい。細胞レベルで肉体が強いとかで。
ここへ連れてこられたばかりの頃は、逃げることを諦めないと強く心に誓った。能力を使えないよう常に言語無効化装置を着けさせられているけど、どこかで脱走のチャンスが来るはず。一縷の望みにかけて、職員達の隙を狙った。でも、そんな機会は全く訪れなかった。言魂使いについて熟知しているエデンの人間は皆、私に対して一切隙を見せなかった。医師も看護師も。清掃員でさえ。
自分の発した言葉のせいで見知らぬ誰かが不幸になったり死んだりする。能力を使わされるたび追いつめられ、死にたい気持ちが胸を染めていった。能力は無限だ。使っても使ってもなくならない。代償を受けても体を休ませればまた発動する。
何のために生まれてきたんだろう、私はーー。
与えられた部屋の外には元SPの見張りが何人もいて、室内には監視カメラもある。言語無効化装置も外せない。常に監視されている。もうやめてほしい。自由になりたい。死にたい。もう命なんていらないからひと思いに殺してほしい。
一人きりの空間で、気持ちはどんどん病んでいった。こんなことになるなら叶ちゃんに空手を教えてもらっておけばよかった。そうすれば言葉を封じられたって力で抵抗してゼロの言いなりにならずにすんだだろうし、閉じ込められていた106達を助け出すこともできたはずだ。もっとうまくいけばエデンに捕まった言魂使い全員で逃げ延びられたかもしれない。
希望に会うためにここを抜け出したかったけど、そんなことを願う資格、私にはないと今は思う。だって、もう10歳の頃の私ではないから。
17歳。今の私は人殺しだ。親に売られた身とはいえ、自分の不幸を免罪符にできないほどの深い罪を犯した。自発的にそうしたわけでなくても罪の重さは同じ。お腹を殴られていた女の子の鋭い眼差しが忘れられなかった。私さえいなければ彼女は痛い思いをせずにすんだのだ。恨まれて当然。一方、心のどこかで納得いかないのも本当だった。
私だって好き好んでこんなところにいるわけじゃないーー! 言語無効化装置すらなければ……。
そういうことばかり考えてしまうせいで、私は言魂使いの能力をうまく発動できなくなった。指示通りに原稿を読んでもただの朗読に終わる。私としては正直そのことに安堵したけど、組織内で唯一のレベルAが言魂使いの能力を使えないという異常事態にエデンの職員達は焦燥した。医師によると、私は心の病気で、それにより能力が使えなくなったとのこと。
言魂使いの能力は健康な心身で発動される。それは新しい発見だと喜ぶ組織の研究者がいる中、ゼロは苛立ちをあらわに舌打ちをした。
「こうならないよう大切にしてやったのに、なぜだ」
エデンにとって不都合ということは、私にとっては望みがあるかもしれない。使い物にならないのなら殺してくれればいい。
しかし、やはりと言うべきか、ゼロはそんなに甘くなかった。
「少々手間だが諦めるのは早い。策はある」
どうあってもエデンは私を手放す気はないらしい。
一度でいい。恋愛小説に出てくる恋人同士みたいに手をつないで、希望と同じ学校に通ってみたかった。小学生の時みたいに笑い合って。
でも、無理だ。もうそんなのは叶わない。希望だって、今頃私のことなんて忘れて別の子と仲良くしているかもしれない。私がいなくなってもう7年も経っているんだから……。
死ぬまでエデンの奴隷か、私はーー。
飼い殺しにされたこの状況、普通の女子高生になんてなれないのだと思い知った。いろんな意味で、私の人生は終わった。
……だから驚いた。エデンを脱走できる日が来たことに。
「つらかったでしょ? 君は自由だ。もうエデンの言いなりにならなくていい」
8年ぶりに再会した同級生が、エデンの職員として私の部屋にやってきた。しかもそれは、よく知る人だった。
エデンの言魂使い専属カウンセラーとして私の元に訪れた再里君は魔法のごとく言語無効化装置を外してくれた。長年首に巻きついていた鎖を外されたような何とも言えない心地がした。気が狂った末に幻想を見ているのだろうか。信じられない。言魂使いを人間として見ていないエデンの職員がこんなことをするなんて……。
「夢……?」
「本物だよ。握手してみる?」
「……!」
再里君の手は温かかった。久しぶりに感じた人の体温。つながった手から失われた何かが吸収されていくようだった。人の手ってこんなに熱があったっけ? 記憶から薄れていた感覚を思い出し動揺した。希望のことが脳裏をよぎる。
「再里君だよね? 希望の友達の……」
「覚えててくれたんだ、俺のこと」
絶望に暮れた1年が過ぎ、18歳の春を迎えたばかりのことだった。病んだ心に柔らかな光が射した。