14 身命の儀式
叶ちゃんがいなくなったのを確認し、再里君は持っていた鍵で実家の施錠を解いた。ここ数ヶ月誰も立ち入らなかったのだろう、家の中に一歩足を踏み入れると充満した埃のにおいと乾いた空気が鼻をついた。薄暗い空間はまるで私達の未来みたいに街灯が薄く差し込むだけだった。再里君が手慣れたように点けた室内灯が闇を消した時、何となくホッとした。
それまで生き急ぐような足取りだったのに、ここへ来て再里君の動きは鈍くなった。叶ちゃんとの思わぬ再会に動揺したのは、私だけではなかったらしい。
高校卒業まで自室として使っていた部屋に通された。ここでもまた再里君の手で明かりが灯される。再里君について来た理由を忘れてしまいたくなった。気付かれないよう小さくため息をつくと、再里君も似たような息を漏らした。
「まいったな。まさか叶ちゃんに会うなんて」
再里君の能力のせいだよ、とは言えなかった。ここまでの道のり、電車の中で再里君は言っていた。叶ちゃんに会いたい、と。単純にそれが叶ったのだと思う。再里君ほどの言魂使いであれば制御できる願い事だけど、その時の彼は憔悴していたので、無意識のうちに能力を抑えられなくなったのだろう。私にもそういう経験がある。
「これが顔を合わせる最後になるかもしれない。叶ちゃんと話さなくてよかったの?」
「話すことなんかないって」
再里君は軽く笑いを混ぜながら作り笑いをする。彼は無理をしている。本当は叶ちゃんと話したかっただろうけど、ここまで堕ちてしまった自分が彼女のような旧友に合わせる顔なんてない、そう思っているのかもしれない。あと、昔みたいに叶ちゃんと話せなくなってしまった私に気を遣ったというのも多少はあるのだろう。再里君が謀ったこととはいえ、叶ちゃんは私のことを忘れてしまっている。叶ちゃんの中で、今の私は再里君の同僚でしかない。
思わぬタイミングで叶ちゃんと顔を合わせてしまったことで、再里君と私の間に流れる空気は変わっていた。言魂使いを救済するべく再里君の提案した方法で能力を駆使するためここまで足を運んだというのにそれとは別の方向に思考が働いてしまい、状況に似合わずまったりした。そんな空気を肯定したいのか、あるいは否定するのも味気ないと思ったのか、再里君は一度部屋を離れ、ダイニングから飲み物と軽いおやつを持ってきた。
「冷凍食品温めただけだけど」
そう言って出されたのは、フライドポテトとオレンジジュースだった。
「これ、希望が好きだったんだ。案外ジャンクなものが好きなんだよ、アイツ」
「そうなんだ。ありがとう。いただきます」
食欲なんて全然なかったしオレンジジュースなんて大嫌いだったのに、不思議と今はおいしいと感じる。大願成就を目前にしたからだろうか。今までにないほど気持ちが前向きになりつつある。
私達は間違いを犯した。だけど、再里君の考え出した仮説が成り立てば、言魂使いは普通の人間になれる。希望と同じ、ただの人に。もう大罪を犯さずにすむ。
「さっきはごめんなさい。ひどいことを言ってしまった」
私は謝った。再里君が希望に正体を明かした時に投げつけてしまった、外道という言葉のことを……。再里君の動機を大方想像できていたとはいえ、実際告白の場面に出くわしたら腹が立った。希望を傷つける再里君の言動が。それに。
「いいよ別に。本当のことだし」
「再里君のことを罵ることで、私は再里君とは違う、自分はそんな言魂使いではない、そう思いたかった。覚悟してたつもりなのに、あの場面に身を置いた途端、希望には嫌われたくないと願って自分を綺麗な者に見せようとした。浅ましい……」
「でも結局、紫乃ちゃんは希望の手を離したじゃん」
再里君は労わるような微笑を浮かべ、自分のスマホ画面をこちらに向けてヒラヒラ振る。
「見た?」
「わざと無防備にしてたんだね、やっぱり」
「協力者の能動的な面を引き出したくて」
「よく分かってるね。私の性格」
「そのためのエデンだったから」
たとえ再里君の監視下にあろうが、エデンを離れ自由になった今、納得できないものには協力などしない。そんな私を心から納得させておかないと、再里君も不安だったのだろう。やはり再里君は小狡い。その小狡さの根元には、言魂使いを慈しむ心が強く根付いている。だから、醜く独りよがりな彼の狡さを私は責められない。
「ねえ。この計画が成功した暁には、再里君はどんな人生を送る?」
分かっている。計画が完遂できた時、私達の心臓は止まっているのだろう。どのみち命を失うのなら、最期は楽しい話をしておきたい。どちらかともなく手をつけることで少しずつ減っていくフライドポテトとオレンジジュースの残りを見ながら、喜びに胸が痛んだ。
再里君も、話題の意図を理解したようだ。
「そうだなー。俺はやっぱり普通のことがしてみたい。〝普通〟ほど難しくて幸せなことはないって思うから」
「同感。変わらない平穏に身を預けていたいよね」
「紫乃ちゃんは? 言魂使いの能力がなくなったら、どんな人生を送りたい?」
この力が無くなったらできないことの方が多くなる。それはきっと、今の私からしたら不便なことになるだろう。だけど。
「再里君と一緒。普通の暮らしがしたい。金銭的にきついスタートだろうから大学へは行けないかもしれないけど、バイトでもいいから自分でお金を稼いで、興味のあることをたくさん知っていって、趣味に没頭するのもいいね。お腹がすいたら料理を作って、好きな人の手を取って、いずれは……」
声が震えて、その先は言葉にできなかった。楽しい話がしたかったはずなのに、気持ちとは裏腹に涙が止まらなくなった。私の願望には、絶えず希望の存在がちらついてくるのだ。
彼の人生の足枷になりたくなくて別れを告げ、気持ちを整理し、心の中から彼を断ち切ったはずだ。それなのに、いざ願望を口にすると次々と希望絡みの妄想が心の底から引っぱり出されてしまう。
ーーいつしか、こんなにも希望を求めていた。
子供の頃の思いはおままごと的で、それこそ恋に恋をしていた部分もあったかもしれない。良くも悪くも夢を追える純真さがあったから。でも、今は違う。皮肉な現実を知ってもなお、私は彼と幸せな家庭を築きたい。希望の笑顔を守りたいし、彼にも私を守ってほしいと強く思う。
親に捨てられた私が人の親になるだなんて考えただけで恐ろしい。自分も同じことを子供にしてしまうのではないかと考えてしまうし、そうでなくてもまともに愛情を注げるか分からない。最悪虐待してしまうかもしれない。だから孤独の道を選んだ。なのに、心の片隅で前向きなことを考えてしまう。希望との間に授かった子なら、親らしく愛情を注げるかもしれない。希望がそばにいてくれれば、私は心から笑えるようになるから。
「大丈夫。苦しみはここで終わるはずだから」
再里君は私の右手を両手で包み、ぎゅっと力を込めた。〝儀式〟を始める、その合図だと分かった。うなずき、私は自由だった左手を、右手を包む再里君の手に重ねた。
深呼吸し、再里君は最後に短く説明をした。
「言魂使い同士で能力を消し合うことはできないけど、一時的に能力を取り込むことなら可能なんだ。数値が低い者同士の実験で成功例がいくつかある。何も起こらないこともあるけど、俺達の間でなら充分可能なはずなんだ。OM型の数値が低く、境遇も似た者同士だから」
「肉体を委ねることはできないけど、心なら充分重ねてる。私は再里君の理解者で、再里君も私の最大の理解者。これ以上ないほどお互いのことを知り尽くしてる。いくらでも持っていって。この能力ごと奪うつもりで……!」
再里君の手に力がこもる。全身にピリピリと静電気のような痛みが貼りついているみたいだ。
私はひたすら祈った。そして、彼と同じ願いを口にすることが最後の使命だった。
神妙に、切実に、再里君は唱えた。
「各務紫乃の異能を喰らう。我々の言魂を賭けて、生ける言魂使い全員を本来の姿へ導かん」
「水瀬再里に異能を捧ぐ。我々の言魂を賭けて、生ける言魂使い達を本来の人へと戻せ」
空から氷のように冷たい大量の水が降ってきたかのように頭皮がゾワリとした。一方で、体は真夏の太陽に焼かれているようにじわじわと熱を上げ、全身のありとあらゆる毛穴から汗が噴き出した。再里君も同じ体感らしい。こめかみに青筋を立てながらも頬は真っ赤になり、じょじょに呼吸も苦しげになっていく。
冷静に人の観察をしている場合ではない。息苦しいのは私も同じだった。前例のない願望。いくら高レベルの私達でも命を落とすだろう。体全体の機能が低下し、吐き気と頭痛がこみ上げてきた。それなのに、今は全く怖くなかった。命を失う瞬間というのはこんなにもあっけなく甘美なものだった。生まれてきた意味なんて見出せない人生だったけど、今まさにこの瞬間のために私は存在したのだと深く感じられる。
悲しみにまみれた誇り。涙に埋もれた幸せの可能性。手放したものは大きかったけど、それすら今は穏やかな心情で受け止められる。目の前の同志は、私と目が合い得意げに苦笑した。彼も同じようなことを考えているのかもしれない。
この儀式は必ず成功する。自らの内から発せられる体の痛みをこれでもかというほど感じながら、私達は確信した。
「もう、すこ、し……。だな」
「かな、ぅ、よ」
取り合っていた手から、互いに力が抜けていく。再里君と私の意識は朦朧とし、数秒後には視界が暗転した。もう再里君の手もつかめないし彼がどんな様子なのか見ることもできない。
紫乃ーー!!
意識の片隅で、希望の声が聞こえた気がした。




