13 最後のメール
幼い頃は気弱で温厚な子供と思われていた再里が、一度だけ強く怒ったことがある。小3の時の話だ。クラスメイト達との会話の流れで誰かが、俺や叶を含む数人で再里の家に遊びに行きたいと言い出した。詳しい経緯は忘れたが、本当に雑談レベルの和やかな会話の上で起きたこと。
「今は家の中散らかってて、来ても楽しくないよ……」
再里ははじめ、その提案をやんわりと断っていたが、
「大丈夫だって! それに再里んちデカいじゃん。皆言ってるんだよ、一度は遊びに行きたいって」
食い下がる一人の男子に、再里はとうとう激しい怒りをあらわにした。
「しつこいな! 遊ぶなら俺んちじゃなくてもいいだろ! 希望と叶ちゃんちだって大きいんだしさ!」
休み時間。束の間の休憩に和んでいた教室内の空気は一変し、クラスメイト達は再里を凝視した。何事かとざわつくクラスメイト達。クラスでも目立つ女子児童が、こちらへ駆け寄ってきた。
「何、ケンカ?」
「何でもない。ごめん」
周囲に謝りつつ、再里は苦痛に満ちた顔をして床を見下ろしていた。
「ウチはいつでもいいよー。自由に使って」
たまたまそばにいた隣のクラスの叶が、再里をフォローするかのようにそう言ったことで遊びの話はまとまった。再里んちに行きたがっていた男子は再里の頑なな拒絶を前に怪訝な顔をしていたものの、その後改めて再里に謝られたことで一応は納得したみたいだった。けれど、後で他の友達に愚痴をこぼしていた。
「俺も悪かったけどさ、あんなに怒ることかー? 変なヤツ」
再里が悪く言われていることに胸が痛みつつ、俺も内心では少し共感していた。再里があそこまで怒った理由は俺にも分からなかったし、だからこそ気になった。家に行き来するなんて友達同士では普通のこと。小学校低学年の男子とあらば、そこまで仲良くなくても家遊びでいつの間にか友達になっていたりする。
以来、クラスメイトの間では暗黙の了解で再里の家に行くのは禁止になった。俺や叶も、見舞いには行っても家の中にまでは上がらなかった。再里の家に普通にお邪魔できるようになったのは、中学生になってしばらく経ってからだった。
今なら分かる。子供の頃、再里が家にクラスメイト達を招けなかった理由が。
親友と好きな子が共に去っていった。どこまでも無力な俺が招いた結末。
二人が去った部屋の中で、一人力なくその場に足を崩し打ちひしがれていた。何時間そうしていたのだろう。食欲も睡眠欲も湧かず、喉も渇かない。気付くと、冷ややかな夜の空気が窓を貫通し部屋に満ちていた。
言魂使いの能力で人を殺した。再里は両親を。紫乃は見知らぬ誰かを。
二人からそう聞かされた時、俺は話の内容にショックを受けるばかりで、混乱しかできず二人のことを否定してしまった。『人を殺すのは悪いことだ』と、誰かにならうでもなくいつの間にか築かれていた価値観ゆえに……。どんな人の命も平等に扱われるべきで、だからこそ人は簡単に他者の命を傷つけてはならない。
頭ごなしにそんなことを思っていたけれど、では、紫乃と再里はどうだったんだろう? あの二人は頭がいい。世間の常識や正論を俺以上に熟知しているはずだ。そんな二人が人を殺すに至った心境や立場を、俺は客観視できていただろうか。親友だから、恋人だからと言い、勝手に自分の理想を相手に押し付けてはいなかっただろうか。
快楽殺人者は別にして、大部分の人は好き好んで人を殺したりはしないはずだ。恨んだ相手の死を願うことはあっても、実際に手を下すことはほとんどない。人なら無意識のうちに理解している命の重さ。理屈ではなく、生きていると自然と身につく倫理観。人の命の尊さ。それすら飛び越えてしまうほど壊滅的な日常に紫乃と再里はいた。そういうことだ。
『生まれた時からお前とは住む世界が違った。もう二度と関わることはない。俺達のことは忘れて幸せになれ。希望』
再里に言われた言葉が脳裏をよぎる。
そうだ。俺は何も分かっていなかった。普通の両親に愛され、何の見返りも求められることなく金品を与えられ、苦もなく進学し、好きな子と恋愛し、ぬくぬく生きている。そんな俺に、再里と紫乃の気持ちなど理解できるわけがなかったんだ。
誰だって人を殺したくなんてない。再里と紫乃だってそうだったはずだ。だけど、苦しみから逃れるためにはそれしかなかった。子供にとって保護者は大きな存在だ。もし俺の父さんや母さんが今みたいな風ではなく再里の両親みたいだったら、俺だって同じ方法で逃げ出そうとしたかもしれない。紫乃のように誘拐されて自由を奪われていたら、気が変になって極論を選択してしまうこともあるだろう。
基本的に人が人を殺さないのは、相手のためだけではなくきっと自分のためでもある。だって、殺人行為は怖いし恐ろしいことだから。それでも人を殺さなければならないとしたら、それは自分の心身が危険に冒されている時。人には防御本能がある。それは言魂使いだって同じ。
『ズルくてごめんね。希望に好かれる資格、私にはないの』
紫乃にそう言わせたのは俺だ。彼女はいつだって俺に助けを求めていた。声には出さず心の中で。きっと再里も。
昔のトラウマを大義名分に、親友ごっこを、恋愛ごっこを、率先してやっていたのは俺だった。
大学に入って楽以外の友達もたくさん出来た。スマホのカレンダーは彼らとの予定でびっしり埋まっている。何も考えず気楽に馬鹿騒ぎがしたいだけならそういう友達だけで充分だ。どの人も皆それぞれにいい人で個性があって付き合っていて楽しい。だけど俺は再里のことを失いたくない。彼が困っているなら助けたい。悲しむ顔は見たくない。
恋愛だってそう。ただ甘く楽しいだけの恋がしたいなら紫乃でなくてもいい。先日同じゼミの女の子から食事に誘われた。映画に行こうと腕を組んでくる女の先輩もいた。平穏な大学生活を守りたいならそういう人達を恋愛相手に選べばよかったんだ。だけど俺は紫乃がいい。食事も映画もその他のことも、知らないことを一緒に体験して共有したいのは紫乃だけ。
二人に会いたい。無力だけど力になりたいと伝えたい。だけど二人は、もう二度と俺には会わないと言った。
絶望的な状況。ここからどうやって二人に近付けるのだろうか。会えないのなら会えないで構わない。それだけのことを俺はしてしまった。だけど、それでも何かできることはないだろうか。二人のために。
思考がまとまるにつれ気持ちもだいぶ落ち着いてきた。真っ暗な部屋の中、スマホのランプがチカチカと明滅していることに気付いた。LINEのメッセージ。ひとつは楽、もう一件は叶からだった。時間的に先に来ていた楽のメッセージから見る。
《希望、あの後大丈夫だった?》
昨夜俺はだいぶ酔っていたので、そのことを心配してくれたんだろう。大丈夫なことを示すため、元気なことを表す何かのキャラのスタンプと、《鍵探しありがとう!無事見つかったよ》と返信した。
次に叶のメッセージを確認した。4件も来ている。いつもはこんなに送ってこないのにどうしたっていうんだろう。大切なものが日常から遠ざかるような胸騒ぎがした。
《再里んちに到着!会えるかなー?》
《内容は覚えてないけど、寝覚め悪い夢見てさー……》
《二度と再里に会えなくなる。そんな感覚がして》
《考え過ぎならいいんだけどね》
思わずスマホを落としそうになってしまった。双子はたまにエスパー並みの能力を発揮し互いの安否を察するという噂があるけれど、かなり当たっているのかもしれない。叶は俺の身に起きたことを無意識のうちに察知した。虫の知らせとはこのことか。
でも、よく考えたらおかしくはない。通う学校が別々になった高校時代から叶は再里のことをとても気にかけていたし、大学に入った今でも時々LINEで再里の状況を訊かれていた。そのたび俺は再里の無事を伝えてきたけれど、時々再里に会えていた俺と違い、叶はいつでもどこか不服そうだった。やはり、自分の目で直接再里の近況を確認しないと納得できなかったんだろう。
LINEをもらってからだいぶ時間が経っている。叶は再里に会えたのだろうか? もし会えていたら、再里と一緒にいるはずの紫乃とも顔を合わせているかもしれない。
気になり、叶に電話をかけようとしたら、驚くことに叶の方から着信があった。
「ごめん、LINE今見たばっかりで。ちょうど電話しようと思ってたとこ」
『うん、それはいいけど、それより、今からこっち来れない? こんな時間に悪いけど……』
「どこにいるの?」
『外。再里んちの近く』
LINEが来ていたのは昼頃。今はもう夜も遅い。叶は何時間も外にいたことになる。
「再里に会ったの?」
『うん。希望にLINE送った後、すぐね。再里、紫乃さんっていう同期の女性と一緒だった。最初は彼女かと思ったけど、なんかそういうのとも違う雰囲気だったんだよね。二人とも生気のない顔して再里んちに入っていったから心配。気になったけど詮索するわけにもいかないし、帰るに帰れなくて……』
「すぐ行くから、叶はいったん家に帰ってて。父さん達が心配してると思う」
『わかった。家で待ってる』
電話を切るとすぐに出かける支度をし、実家に向かった。タクシーを呼んでアパートから駅まで移動し、ちょうどホームに到着した電車に駆け込む。人の足で動くより明らかに速いのに、電車の移動ですらゆったりしているように見え、車内にいても気ばかり焦った。
一人打ちひしがれていようが、その間に事態は変わっていくというのに。紫乃と再里、二人の無事を祈り、スマホを強く握りしめた。
とはいえ、実家までの道のりはけっこう長い。嫌でも気持ちは冷静さを取り戻し、かといって焦りは消えず、非常に心地が悪かった。気を紛らわすのも兼ねて、少しでも言魂使いについての情報を検索するべくスマホを開こうとした。
通常ならホーム画面が表示されるのに、なぜかメール画面が立ち上がっていた。しかも普段はあまり使わないEメールの未送信ボックスに、作った覚えのない一件のメールが保存されていた。メール機能を使うのは、たまに利用する通販サイトからメルマガが届く時くらいだ。
軽く首を傾げつつ未送信メールを開くと、反射的に熱が鳥肌のように全身に走った。それは、紫乃が作ったメールだった。宛先は未設定。
《希望へ。
眠っている希望の隣でこれを書いています。勝手にスマホを触ってごめんね。
これを見ている頃、希望のそばに私はもういないんだと思う。最期にどうしても言いたいことがあります。
思い出したとはいえ、長年私との記憶を封じられていた希望にとって、私はそこまで大切な存在ではないかもしれない。そう思うことで、私は自分の心が傷つくことを避けてきたのだと思う。もう二度と大切なものを失う痛みを味わいたくなかった。昔、親にはしっかり者だと褒められていたけど、私は全然そんな人間ではないの。弱くてズルいのに、欲しいものは数えきれないほどある、欲張りで卑怯な女です。
そんな私を、受け止めてくれた希望。
一生懸命守ろうとしてくれた希望。
あたたかかった。
そばにいると安心した。
ありがとう。
あなたは幸せになるべき人です。
ずっと忘れません。
子供の頃からあなただけが大好きでした。
言魂使いとして生まれた人生を呪いたくなることもあったけど、あなたに出会えたことは最大の幸福だったと自信を持って言えます。
どうか、幸せになってください。
希望にはその力があるから。
不幸になったら許さない(笑)
紫乃》
……本当だ。紫乃はズルいよ。
一方的に決別しておいてこんなメールを残していくなんて。『私のことを忘れてほしくない』って言っているようなものでしょ?
でも、そういう弱くて卑怯なところも愛おしい。
必ず、その孤独から君を掬い上げてみせるーー!