11 壊れゆく関係
目の前が真っ暗になるという経験は、これで二回目。一度目は紫乃がいなくなった時だった。
紫乃の言う通り、再里がエデンの創設者だった。そして、彼は言魂使いだった。
どうして再里は笑っているんだ? 俺がショックを受けているのを見て面白がっているのを隠そうともせず、むしろ見せつけるようにわざとらしく笑みを浮かべている。
よく知る笑顔。耳馴染んだ声。なのに全く知らない他人みたいな顔つき。この男は本当に再里なのだろうか。俺には分からなかった。いいや、分かりたくないんだ。脳が全力で目の前の光景を否定したがっている。
「ああ、うん。予定とは違うタイミングだったけど面白いな。ずっと見たかったんだよ、希望のそういう顔」
再里は俺のことが嫌いなんだ。それだけは分かる。
「親友だと思ってたのは俺だけだったんだね……」
「親しい友と書いて親友、かー。親しいっちゃ親しくはあったけどな。表面上は」
いつから? 再里はどの瞬間に俺を嫌い始めた? 長年近くにいたのに全く気付けなかった。嫌いなのにどうして友達のフリをし続けた?
いや、今はそんなことどうでもいい。とにかく紫乃を守らないと!
紫乃と二人きり、小さな夜の中で気持ちを確かめ合うように抱き合った記憶が、霞がかりながら遠ざかるのを感じる。もう二度と彼女と触れ合えない、そんな予感がした。
白にも黒にも転じそうな心情に胸が穿たれるのを感じつつ、無力な自分に今何ができるのかを考えた。絶対、紫乃を再里の元に行かせてはいけない。
「再里に嫌われるのはきついよ。でも、そのことと紫乃は関係ない。エデンの創設者を名乗る以上、これまでみたいに再里と紫乃を関わらせるわけにはいかない」
「ふうん」
再里は相変わらず余裕の笑みでソファーにどっかり座ったまま、悠々と足を組んだ。試すような目つきで紫乃と俺を交互に見やる。
「頼もしいけどさ、無能な人間が言魂使いを止められると本気で思ってる? 知らないわけないよな、この力が何なのかを」
「知ってる。言葉にした願いを現実のものにするんでしょ? だったらどうしてその力で俺を傷つけなかったの? 今までいくらでもその機会はあったのに」
「だからだ。無防備なところを狙って攻撃できるのは、言魂使いなら当然。それじゃ面白くない。昔から願ったことは何でもかんでも叶えてこられたから、どれだけあくびをしても足りないくらいいつも退屈でさ」
紫乃は俺の背後から一歩前に出て、再里に言った。
「OM型1って言ったら、エデンが把握する言魂使いで最も能力が高い。OM型2の私よりも……」
そうだ。OM型の数字が若くなるほど高レベルだと前に聞いた。それで言うと再里は現状言魂使いのトップと言っていい。紫乃も相当希少な言魂使いなのに、その紫乃より高い能力を持つ再里がなぜ彼女を頼る?
「神の生き写し。そう言っても過言じゃないよね、再里君は。私を取り込んで何をするつもり? 想像はつくけど私の思考が全て正しいという保証はないし、きちんと訊いておきたい」
「んー。やりたいことは色々あるけど、まずは言魂使いの真の救済だな」
そこは変わらない……? 再里はずっと言魂使いを助けたいと言っていた。でも、矛盾している。助けたいと言っておきながらエデンという犯罪組織を作って各地から言魂使いの女性を買い取り彼女達を傷つけてきた。言っていることとやっていることが違う。意味が分からない。
考え込む俺を前に、再里と紫乃は対話を続けた。
「私を含む言魂使い達をエデンに捕らえた理由は、様々なレベルの言魂使いの力を計測するためってところ?」
「ご明察。紫乃ちゃんは賢いね。好きだな、そういうところ」
「外道…!」
紫乃の声音に憎悪の要素が深くにじむ。
「あなたがやってきたことは人のすることじゃない。ゼロのしていたこと、全て知っていたんでしょう?」
「そりゃあな。アイツは俺の命令で動いてたんだし。どこかの政治家みたいに、下っ端にだけ罪を押し付けて自分だけ逃げたりなんて、俺はしない。するつもりもない」
再里の顔からスッと笑みが消えた。何を映しているのだろう、光を失ったその瞳は俺達からそらされ斜め下を向いた。
「21年前、OM型の検査方法が確立されなければ、こんなことにはならなかったんだ……。俺も、紫乃ちゃんも、この世に生を受けた言魂使い達も」
医療関係者や言魂使いの研究に携わる人々は、OM型の検査に成功した時、歓喜した。だが、言魂使いにとって、自分以外の者にOM型を知られることは身の危険と同義だった。
再里は言った。
「表向きは言魂使いを守るためにOM型の公表はしないとされてる。でも、そんなのは大嘘。法曹関係者を含め、大人達は秘密裡にOM型情報の売買をした。俺の父親も、そういう輩と大差ない欲にまみれた男だった」
「再里の父さんが……?」
この時初めて、まともに再里の口から親の話を聞いた。
「俺の父親は地球の生まれじゃない。異世界からわざわざこの地へやってきたんだ。アイツは言魂使いの研究をしていた。自分の祖父が言魂使いだったからだ。地球でOM型の検査法が広まる前も、言魂使いの能力が他者に気付かれる例はあった。……俺の父親は、祖父の能力が自分に遺伝しなかったことを疑問視し、悔やみ、悲しみ、どうしたら自分にもその能力が発現するか思考し研究し続けた。でも、言魂使いの能力は確実に遺伝するわけではないし先天的なものだ。望んだって手に入らない。その真実に絶望し、だからこそアイツは言魂使いなる存在に固執した」
生まれ故郷では名の知れた研究者だった再里の父親は、自分のことを知る人間が存在しない地球に移住した。自分の子供を残してくれる女性を探すためだけに。
もちろん、相手の女性探しにも慎重だった。言魂使いの祖先を持ち、なおかつ天涯孤独な女性が望ましい。幸か不幸か、彼の大願成就を果たす女性が現れた。後に再里を生んだその女性は孤独ゆえ心の寂しさに付け込まれ、絆され、自ら子供を持つことを強く望むようになった。彼の望むままに事は進んだ。
「見ていて哀れな夫婦だったよ。母さんはただ子供を産む、それだけのために父親に利用された。自分で納得して結婚したと言っていたけど、それは母さんが自分自身に言い聞かせていたんだろう」
再里の父親は、再里が生まれた瞬間妻への興味を失い、再び言魂使いの研究に没頭するようになった。それだけならまだよかった。再里の父親は、息子である再里のOM型情報を医療機関から買い取り、再里のことを研究材料にし始めた。再里が物心ついた頃にはそれが当然の日常になっていた。
「もちろん母さんは父の研究を止めようとしてくれた。誰だって、自分をかまってくれない夫より血を分けた息子の方が大事に決まってるもんな……。でも、父親は母さんの制止を振り切り俺をモルモットにし続けた」
再里の父親は、来る日も来る日も、再里の肉体を薬液に満ちたケースに浸けた。時には無音の空間に何時間も閉じ込め、熱湯風呂や大型冷凍室に放り込んだ。様々な状況下で再里の心身の経過観察をした。どういう場面で言魂使いの能力が強まるか、あるいは弱体化するか、そういった実験をしたがった。
「そんなひどいことを……!」
再里が送ってきた生活を想像し、吐き気が込み上げてきた。紫乃にとっても衝撃的だったのか、彼女は両手で口を押さえて青ざめている。再里が学校で具合悪そうにしていたり、体調不良で休んでいたのはそういう事情だったんだ。
紫乃と俺の反応には目もくれず、再里は他人事のように淡々と過去を語った。
「初めは本当に研究のためだったんだろうけど、途中から研究なんていうのは建前になってた。父は、自分がほしかったはずの能力を俺が持って生まれたことに嫉妬していたんだ。父親でありながら、あの人は俺のことを子供とは思っていなかった」
毎日毎日、研究という名の虐待が続いた。言魂使いの能力にしか興味がなく、妻子すら自分の好奇心を満たすための道具にした男。
何ひとつ思い通りにいかず、愛されない現実を前に、再里の母親の精神は次第に壊れていった。気力を振り絞ってやっていた家事も次第にできなくなり、他人との接触を避け家にこもり、かといって趣味などもなく無気力で、そのうち家の中はゴミにまみれていった。
「だから殺した。中学生になってすぐだったかな。この能力で、母さんを……」
再里は両手を握りしめ前かがみになった。表情は見えない。
「母親を殺したって……。そんな……!」
言魂使いはどんな願いでも叶えられる。それは知っている。だけど、再里の告白を信じたくなかった。とはいえ、つじつまは合う。体調不良で倒れがちだった再里が元気になりはじめたのは、確かに中学の頃からだ。母親がいなくなった時期と一致する。
「いくら言魂使いだからって、親を殺すなんて……。嘘でしょ、再里……」
声が震える。否定してほしい。
再里の顔は見えない。彼はうつむいたまま、弱々しくつぶやいた。
「ああ。夢だったらよかったよな。でも、本当に、俺は殺したんだよ。母さんと同時に、あの父親のことも。痛ぶられることに耐えられなかった。人の道を外れても、自我を保つために、生きていくために、ああするしかなかった」
両親の遺体は、父親の故郷である異世界に埋葬したらしい。再里の母親は天涯孤独ゆえに親戚付き合いもなかった。そのことが再里にとってはとても都合がよく、学校に対しても再里の両親は海外出張しているということで話は通った。中学生の時からそれで何とかなっていたらしい。エデンの設立費は父親の潤沢な貯金から。親がいなくても、エデンがあれば生活には困らなかったという。
再里の家から家族の気配がしなかった理由を、こんな形で聞きたくなかった。もっと早く話を聞いてあげられたらよかったという思いと、知りたくなかったという思いがぶつかり合い、
「嘘だよね?」
俺はそんなことしか言えなかった。情けなかった。これでは、再里に嫌われるのは当然だ。友達でいる資格、ない。
「再里君は本当のことを言ってると思う」
紫乃が言った。まるで再里をフォローするかのような口ぶりが、今の俺にはきつかった。もちろん俺だって再里を悪く思いたくないが、両親を殺したと話す親友を前に、混乱しかできない。
紫乃は俺に背を向けたまま、追い打ちをかける言葉を放った。
「高レベルな言魂使いほど軽い代償で人殺しが可能なの。ほとんどの言魂使いが命を落としかねない重たい願い事なんだけどね。再里君と私にとっては容易いこと。現に、私もエデンで何人もの人を殺してきたもの」
「紫乃……。どうしてそんなこと言うの…?」
立っているのもやっとだった。唇も両手もガチガチ震えて、寒くもないのに足の先から順に体が冷たくなっていく。ついさっきまで彼女の心に触れられた気がしていたのに、それが全て幻だったようだ。一人、俺だけが彼女との恋愛に夢中になっていた? 紫乃からしたら、俺とのことなんてしょせんごっこ遊びだった?
紫乃は肩越しに俺を振り向き、薄く微笑んだ。
「ズルくてごめんね。希望に好かれる資格、私にはないの。はじめからそれが分かっててここへ来た。でも、もう出ていくから安心してね。今までありがとう。さようなら」
紫乃は再里の腕にそっと触れ、ゆっくり彼を立たせた。
「再里君、行こう。あなたの力になれるか分からないけど」
再里は無言でうなずき、紫乃と共にリビングを出ていこうとした。止めたい。二人を止めなきゃならない。なのに声が出なかった。俺は無力な人間。それだけは理解できた。
俺のそばを通り過ぎる時、再里はかすれた声でつぶやいた。
「生まれた時からお前とは住む世界が違った。もう二度と関わることはない。俺達のことは忘れて幸せになれ。希望」
「再里……!」
どうして、別れ際にそんなことを言うの?
俺のことが嫌いだったんじゃないの?
なぜ?
再里の気持ちが分からない。
紫乃の気持ちも分からない。
それは俺が普通の人間だから? 二人の傷を理解するだけの経験値がないから? ……きっと、そのどちらもだ。
言魂使いは、極端で破滅的な生き方しかできないというの?
二人をこのまま行かせてはいけない。気持ちでは二人を引き止めたいのに、体は全く動かなかった。
紫乃か再里、どちらかが閉めた玄関の扉の音が遠くで響いた。水面すら見えない海の底に、独り取り残されたような心地がする。
まだそこにいるかのように、しばらくしても二人の気配は色濃く残ったままだった。