10 契る命
希望の唇にキスをした。このまま時間が止まってしまえばいいのに。
だけど、それは叶わない願い。
「抱いてよ。私を」
希望の胸ぐらを掴んで床に押し倒し、私は彼に馬乗りになった。希望は苦しげに顔を歪めた。今まで大人しくしていた同居人が豹変して困っているんだろう。
最初は、ここまでするつもりはなかった。少し触れるだけで満足するつもりだった。だけど、希望の熱が唇に触れた時、それまで抑えつけてきた感情が心を埋めつくし、次第に体も支配し、自分ではどうしようもできなくなった。抗えなかった。
希望のことを、私にくださいーー。
「紫乃……! ダメだって。その場の勢いでこんなことするのは!」
「希望は私が嫌い?」
「嫌いとかそういうことじゃなくて…!」
「嫌いじゃないならいいでしょ? 何も問題ない」
着ているものをおもむろに脱ぎ捨て、下着も外し、上半身裸になった。恥ずかしいけど、こういう方法でしか希望を惹きつける術がなかった。余裕のなさだった。
「女の子が簡単にそういうこと言うのはどうなのっ!?」
口では抵抗しているものの、女性にしかない膨らみを目にした瞬間、希望は捨てられた子犬みたいにおとなしくなった。
「紫乃。ふざけないで」
「本気だよ。希望の好きに触れてよ」
「……」
女として、こういうシーンでは男性にリードさせるべきなんだろう。だけど、性格的に私は男寄りなのかもしれない。
今、文字通りの意味で、希望の全てが欲しかった。誰の命令でもない。私の意思で。
私を横抱きにしてベッドのある自室に向かった希望は、表情こそ不本意そうなものの、抱かれたいと頑なな私に観念したのか、ベッドに私を横たわらせると自分も服を脱ぎ、ぎこちなく私の肌に触れた。どこまでも優しく、そして暖かい温度で……。
カーテン越しの日差しで目が覚めた。時計を見るともう昼を過ぎていた。ずいぶん深い眠りに落ちていたらしい。全身がだるいし下腹部には痛みも残っているのに、それすら今はとても誇らしい。能力に頼らず、私は希望に触れることができたんだ。
時の動きを感じないゆるやかな午後。だけど、こうしている今も時間は確実に流れている。
そっと希望から離れ、彼の様子をうかがった。気持ちよさそうに眠っている。その頬を指先でそっとなでてみると、希望はすぐに薄く目を開いた。
「起きてたんだ……。おはよ」
希望はみるみる頬を真っ赤にし、その顔を隠すように私を抱きしめた。思っていた通りの反応に安堵する。ウブな希望らしい。
「好きだよ。希望」
こんな告白、希望にとっては重たいだけだろうけど。
「エデンに捕らえられる前からずっと、私は希望のことが好き」
同じ気持ちを持ってほしいだなんて望まない。希望の匂いに身をゆだね、私はとつとつと語った。
「ただ、気持ちは伝えておきたかっただけ。こうなったことは忘れてくれていいから」
これが、希望に触れる最初で最後。
希望は私の両肩にそっと手を置き、ジッと視線を注いできた。
「これっきりみたいなこと言わないでよ。こんなことで紫乃と気まずくなりたくない。せっかくまた会えたのに」
「……」
「『こんなこと』って言うのは違うか。ごめん。言葉間違えた。けど……」
希望は、まるで赤ちゃんの頭をなでるように柔らかい動作で私の頭に触れた。
「俺も、紫乃のこと好きだよ。離れたくない。もう、どこへも行かないで」
私の告白から別れの匂いを察したのか、希望はすがるように言った。記憶が戻ったことで、より私への情を深くしたのかもしれない。
そっとベッドから抜け出し服で肌を隠すと、私は彼を見つめた。
「エデンには帰らないよ。言ったでしょ? 私はアイツらから逃げるためにここへ来たって」
「それはそうだけど……。昨日の紫乃、様子がおかしかったから。ピリピリしてたよね……」
他人の前でお酒を飲んで無防備になる希望が許せなかった。ううん、違う。自分の問題に希望を巻き込んでしまった私自身に対して腹が立っていたんだ。希望は単に大学生活を謳歌していただけ。
「何か悩んでることがあるなら話してよ。俺では頼りにならないかもしれないけど……」
希望は上体を起こし、私に寄り添った。希望の髪が首筋に触れる。もう二度と離れたくないと言われた気がした。
話をするために服を着替え、私達はリビングのソファーに並んで座った。隣に希望の気配があって、だけど顔を見つめ合わせなくてすむこの体勢は助かる。顔を見ながら話す自信がなかった。
「これから私が話すことはあくまで推測だけど、ほぼ間違いないって確信してる」
この話を聞いたら、希望はきっと私を嫌いになる。だから最後に希望を独り占めしたかった。子供じみた最後のわがまま。
希望は覚悟を決めたように息をのんだ。
「率直に言って、再里君は信用できない」
「え……!?」
思いもよらない名前が出て、希望は驚いていた。当然か。
「どうして? 再里は、言魂使いのためにエデンに入ったって言ってたんだよ? 紫乃の味方なんじゃ……」
「私も最初は再里君の話を信じてた。でも、心のどこかでおかしいと感じていて。希望からある話を聞いて、そのモヤモヤはハッキリした疑念に変わった」
「俺の話で……?」
「希望、言ってたでしょ。再里君は昔、体が弱かったって」
「たしかに。でも、それがどうして再里を怪しむ理由に?」
「再里君は言魂使いなんだと思う。体が弱かったわけじゃない。子供だから無意識のうちに能力を使ったとかで体調を崩していたんだと思う。あるいは代償のことを知らず能力を乱用していたのかも」
「再里が言魂使い!? そんなことって……。アイツとは幼なじみなんだ。だったら俺にはそういう話をしてくれてもよかったんじゃない?」
希望はあからさまに動揺していた。そうなるのは分かる。想定外のことが起きて、彼の中で処理が追いついていないのだ。
だからこそ、私は変わらず冷静に話をした。
「こんなことを言うのは本意じゃないけど。再里君は本当に希望のことを親友だと思ってるのかな?」
「……」
希望の瞳から失意が立ち上る。
「希望にとって再里君は親友だった。つらい時に助けてくれたのが再里君だったから。希望は? 再里君のことをどれだけ知ってる? 彼を助けたことがある?」
「何も知らない……。エデンに入ったルートも、異世界の情報をどこで集めてるのかも、何も。ただ、言魂使い問題に熱心だってことだけ。いつか恩返ししたいと思ってたけど、その機会はないまま今になって……」
「それが何よりの証拠だよ。再里君自身が言魂使いなんだから、言魂使い問題に関心があるのは当然」
「紫乃の言う通り、俺は再里から親友と思われてなかった。それはまだ理解できる。でも、それでどうして再里を信用できないって話につながるの?」
悲しそうな声。すでにもう、希望は話すことを放棄したそうなほど苦しげだった。
「再里君こそがエデンの創設者なんだと思う」
「……再里が?」
「新人にしては、再里君には権限がありすぎる。エデンに居た頃、私のそばには常にゼロという名の最高幹部が張り付いていた。そんなゼロが、高レベルな言魂使いをこうして自由の身にしていられるほど、再里君に発言権があるのは不自然。ゼロより偉い立場の人間に、私は一度も会ったことがない。再里君を除いてね」
「それは心理カウンセラーだから。再里はエデンの中でも重要な任務を果たす特別な立場にあるからでしょ?」
「重要な任務、ね。ある意味その通りなんだろうけど、私を助けるために再里君は心理カウンセラーを名乗っているわけじゃない。利用するためだよ。それなら全て合点がいく」
「そんな……。再里がそんなことを? 信じられない。信じたくない……」
希望の声音には否定的な気持ちがにじみ出ていた。私の意見を打ち砕く要素を頭の中からかき集めようとしているようにも見える。それでも私は持論の展開をやめなかった。
「希望が新入生旅行に行っている間、突然訪ねてきた再里君に訊いてみたの。親を恨むにはどうすればいいかって。そしたら再里君はこう言った。『俺だったら親はいないものと思う』って」
「あの再里が、そんなことを?」
希望が抱く再里君のイメージから程遠かったのだろう。普段は情に厚く正義感の塊みたいな再里君の非情な回答に、希望はショックを隠しきれないようだ。
「そんな冷たい事を、本当に再里が?」
「もしかしたら、再里君のご両親は……」
この先の言葉は、さすがに言うのをためらった。推測の域を出ないし、もし真実だとしても今の希望に受け止められるとは思えない。だけど、言わなければ……。希望が再里君の本性を知って傷つく前に。
話す内容は決まっているのに、喉の奥につかえたそれはなかなか出てこない。久しぶりに訪れた沈黙を、希望はどう感じているのだろうか。安心? 不安? そのどちらもか。
ガチャリ。玄関扉の鍵が解錠される音がした。昼下がりの静かな室内に、その音はやけに大きく響いた。この部屋の合鍵はまだなく、今玄関を開けることができるのは希望が昨夜失くした一本の鍵だけ。
希望もすぐそれに気が付き、背中に私をかばうようにしてソファーから立ち上がった。
「誰!?」
希望の問いかけに、玄関を通過しリビングの扉を開けた人物は朗らかに言った。
「そんなに警戒しなくても。って、そりゃいきなり鍵使って侵入されたら、顔見知りでもビックリもするか」
「再里……! どうしてお前がこの部屋の鍵を?」
希望は私をかばう姿勢のままわずかに後退し、リビングに足を踏み入れる再里君から距離を取った。再里君は定期カウンセリングの時と同様気さくで穏やかな雰囲気を保っていたが、それがかえって異常性を際立たせていた。
「優秀な部下が持ってきてくれた。でももう必要ないし返すな。はい」
再里君は鍵を希望の方に投げた。床に落ちるギリギリのところで希望はそれを受け取り、私の方を振り返る。
「俺、紫乃を信じる」
私は無言でうなずいた。再里君が敵であることを、こうなってようやく希望も理解できたようだった。
「再里。この鍵、誰にもらったの?」
「表の世界ではバーの店長やってるって言ってた中年の男。よーく知ってるだろ、希望も」
「楽のバイト先の店長!? よくってほど知らないけど、あの人が再里の部下って……。再里、まだ新人なんじゃなかったの?」
「あー、それなー。そういうことにしといた方が動きやすいし」
まるで世間話でもするみたいに悪意なく語る再里君に、希望は怒りと悲しみを我慢しているようだった。
「店長もグルだったんだ。あの人悪そうな顔してたもんね。でもさ、泥棒でもないのに盗んだ鍵使って入ってくるなんて普通じゃないよね。今の再里、怖いよ。俺がいない隙を狙って紫乃のこと攫うつもりだった?」
「希望にしては察しがいいな。はじめはお前がいないうちにって思ってたけど、いるタイミングであえて連れ去るのも楽しいかなって。紫乃ちゃんのこと、そろそろ返してくれよ」
「嫌だ。エデンには帰さない。そういう約束だったはずだよ」
「うん。エデンに戻す気はない。俺が個人的に借りるだけ」
「物みたいな言い方やめてよ……」
「気に障った? ごめんなー。でも、お互い様だろ?」
再里君はゆっくりした動作でリビングのソファーに背中から深く腰かけた。さっきまで希望と私が座っていたその場所を思い、その時がすでに懐かしくなる。
希望は壁際まで寄り、私を背後に隠す体勢のまま口を開いた。
「お互い様って、どういうこと?」
「そうやって紫乃ちゃんと仲良くなる前まで、希望だって言魂使いのこと人だと思ってなかったじゃん。ニュースで見聞きしても他人事だった。どこかの森林が広範囲で燃えたレベルの報道と同列に見てただろ」
「それは……」
「まあ、それももう終わりだけどな」
「再里の目的は何? 最初から紫乃を連れ去るつもりだったのにどうして俺に預けたの? 紫乃をどうするつもり?」
希望の問いかけに、再里君は肩を揺らして笑った。はははははと、まるで愉快なお笑い番組でも観ているような明るい声音。寒気がした。今の再里君は非常に気味が悪い。
「紫乃って、呼び捨てしてる。記憶が戻ったんだなー。せっかく封印しといてやったのに」
「再里が俺の記憶を……!?」
希望は驚いているけど、私はすでにそれを予想していたので驚きはなかった。ただ、疑問ではあった。なぜ再里君が希望の記憶を、しかもつらい部分だけを忘れさせていたのか。
「ああ、そっか。紫乃ちゃんが思い出させちゃったかー。つっまんないなぁ。希望がもう少し紫乃ちゃんと仲良くなったところで、俺が元に戻してやるつもりだったのに」
「どういう意味?」
怒り興奮気味な希望に反し、再里君はニタニタと笑いっぱなしだった。
「だって、その方が面白いだろ? 平穏を望む男が、初恋の子を忘れ再会してしまった悲劇! 紫乃ちゃんのこと思い出した時、どんな気分だった? 苦しかった? つらさ倍増? 教えてよ。結論をさあ!」
「お前、本当に再里なの? 俺の知ってる再里はそんな風に人の不幸を望んで笑ったり、絶対しない」
「正真正銘、水瀬再里だ。お前と同じ西浦高校を卒業。中学時代にエデンを創設した」
再里君は、シャツの胸ポケットから取り出した物を希望目がけて無造作に投げる。小さく折りたたまれたA4サイズの用紙だった。それは、
《水瀬再里
性別 男
血液型 RhマイナスA型。OM型 1 》
医療機関に保存されているはずの新生児の個人情報だった。
「これ、再里の……。冗談だって言ってよ、再里」
涙をこらえているのか。それとも憤っているのか。真後ろから見た希望の肩は小さく震えていた。希望がその紙を握り潰すかすれた音が、いつまでも私の耳にこびりついて離れなかった。




