9 魂の言葉
やばい。調子に乗って飲みすぎた。
楽のバイト先のバーの店長や常連さん、大学で友達になった男女数名で花見をしたのはいいものの、二十歳までは飲まないという自分への誓いをアッサリ破り、俺はベロンベロンに酔ってしまった。ところどころ途中の記憶がない。
新しく出来た友達と早く馴染んで楽しみたいというのもあったし、ノリ悪くしていたら空気壊すかなと思って。……だなんて、完全に言い訳だ。こんな状態を見せたら紫乃ちゃんに心配をかけてしまう。考えなしだった数時間前の自分にきつく注意したい!
帰路に着く際、千鳥足になってしまいまともに歩けなくなった俺を見兼ね、楽がタクシーでアパートまで送ってくれた。
「ごめんな希望。飲ませすぎたな」
「ううん、俺こそ送らせてごめん。ありがと」
「俺んち近いし、気にするなって。放っておけるわけないしさー」
俺のアパート前で一緒にタクシーを降りた楽は、まともに立てない俺を支えて玄関まで付き添ってくれた。ふらつく足で時間をかけて階段を登り、何とか自分の部屋の前まで来た。
「へえ、ここが希望の部屋かー」
楽しげに玄関扉を見つめる楽を横目に、鍵を取り出そうとパンツのポケットに手を突っ込んだが、
「あれ……!?」
家を出る時、たしかにここへ入れたはずの鍵がなかった。
「どしたん?」
「どうしよ。鍵がない…!」
「マジか!」
酔いも一気に覚めた。冷ややかな夜の空気が、突然全身を貫くようだった。
「ちょっとその辺見てくるわ!」
「でもっ」
「そこで待っといて! 希望は動いたら危ないっ」
「う、うんっ」
遠ざかる楽の背中を申し訳ない思いで見つめた。楽、ごめん。すごく迷惑かけてるな俺……。酒を飲んだら自分にペナルティーを科すくらいのことしないとダメかも。
玄関扉に背中を押し付ける格好で座り込み、ひとつ深いため息をつくと、ガチャリと鍵の開く感覚が体に響いた。直後、もたれていた扉が開き、拍子に背中を押された。前につんのめりそうになる寸前で何とか床に両手をつき、背後を振り返った。
「希望……」
紫乃ちゃんが俺を見下ろしていた。目を丸くして、明らかに驚いているようだ。それもそうだよな。玄関前で何やってるんだって話だ。
「鍵失くしちゃって……」
「騒がしかったの、そのせい?」
「ごめん。うるさかった?」
「私は構わないけど……」
紫乃ちゃんは玄関から一歩外に出て左右を見やった。近所の人目を気にしているんだろう。長年エデン暮らしだった紫乃ちゃんは、もやは近所迷惑という概念を失いつつあるので、再里からその辺りのことを注意されている。下手に近所とトラブルを起こすようなことになると厄介だから気をつけるように、と。
「玄関開けてくれて助かった。心配かけてごめんね。紫乃ちゃんは先に寝てて?」
「ううん。待ってる。大事な話があるの」
今までにない深刻な表情で、紫乃ちゃんは俺をじっと見つめた。綺麗な瞳だと感激する以前に、嫌な予感がして緊張してしまう。何だろう、改まって大事な話って……。
「わかったよ。ちょっと待たせるけど……」
「私もいていい?」
てっきり自室に戻るかと思ったのに、紫乃ちゃんは楽に会うことを嫌がらなかった。
鍵を探しに走ってくれた楽に電話をした。紫乃ちゃんに玄関を開けてもらえたと伝えると、5分後、楽は息切れさせながら戻ってきた。
「イトコの子居てくれてよかったわー。タクシー降りたとこらへんまで探したけどなかったから」
「ごめんね、楽。上がって休んでって。ペットボトルのお茶しかないけど」
「えー、俺コーラがいいのに〜」
「あるけど冷やしてないよ」
「ウソウソ。言ってみただけ。何でもいい」
ホッとした。今後のためにコーラも常時冷やしておこうかと思いつつ、冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出し楽に渡した。俺も紫乃ちゃんと自分用に同じ物を出し、三人してリビングでそれを飲んだ。本当は早く切り上げて紫乃ちゃんと二人きりになりたかったけど、鍵を探しに走らせてしまった手前、楽のことを邪険にできない。
「急に来てごめんね〜。希望と同じ大学の楽ですー」
「初めまして。紫乃です。希望から聞いてると思うけど、私……」
「聞いてるよー! こんな可愛いイトコがいるなんて、知らなかったー」
楽は紫乃ちゃんを見るなりデレデレして、あからさまに鼻の下を伸ばしていた。紫乃ちゃんはいつも通り冷静な感じで淡々と対応していたけど、楽はなんだかいつもと違っていた。女子の前でチャラいのは通常通りなんだけど、今日は輪をかけてそれがヒートアップしている気がする。自分が客なのに、紫乃ちゃんのために自分が借りた座布団を彼女に貸したり、彼女のお茶の残りを気にしたりと、かいがいしい。楽の面倒見がいいのは今に始まったことじゃないけど、今の楽はそういうのとも少し違うような気がして面白くなかった。
もしかしたら、楽は紫乃ちゃんに好意を抱いたのかもしれない。嫌な予感は的中した。
「紫乃ちゃん、めっちゃ好みかも。やばい」
トイレに立つ時、楽にこっそりそんなことを耳打ちされ、俺は自分の中に妙な焦りが生まれるのを感じた。焦ったところでどうしようもないんだが。紫乃ちゃんとはただの同居人なんだから独占する資格もない。
リビングのテーブルに置いてあった未開封のポテトチップスやチョコレートを楽に勧めると、彼は遠慮なく封を切った。本当は紫乃ちゃんのために買っておいた物だけど、彼女はあまりこういうお菓子は口にしないのでなかなか減らない。仕方ないか。
「けっこういい部屋じゃん。俺んちより綺麗」
「築年数はそんなに経ってないらしいよ」
「そうなんだー。なんか、いいよなー。こういうの。高校の時は希望んち行くことなかったし」
「俺達、地元離れてたしね」
本当に不思議だ。高校の頃、放課後に時々寄り道はしたけど、楽の家に行ったことは一度もなかった。
「ごめんね、今日は。まさか鍵失くすとは思ってなくて……」
「だよなー。俺でもさすがに鍵は失くしたことないわー」
「俺も初めてだよ。やっぱ公園で落としたかな。明日からどうしよ……」
「合鍵作ってないの?」
力なく俺はうなずいた。楽でもさすがに合鍵は作ってあるようで、俺の情けない返事に少し呆れていた。
「こんな時のために一応作っといた方がいいって、予備の鍵は」
「だよね」
そのうち作ろうと思いすっかり後回しになっていた合鍵作り。酔いがすっかり抜け切った頭で明日にでも作りに行こうと決意していると、楽はスッと立ち上がった。
「もう帰るの?」
「うん、ちょっと食べたらなんか眠くなってきたー。今度は泊まらせてー」
紫乃ちゃんに気を遣ってくれたんだろうか。楽はやっぱりすごい。無遠慮に見えて、その線をわきまえている。こういうところが大人だと思う。
「泊めてあげたいとこなんだけど、今日はホントごめんね」
楽を玄関先まで見送りつつ、思った。せっかく近くに住んでいるのだから、楽にはいつか泊まりに来てほしい。でも、そのいつかが来ないでほしい。だって、そのいつかというのは、紫乃ちゃんがここから居なくなった時を示すのだろうから。
「紫乃ちゃんのこと、今度ちゃんと紹介してよ」
「は!? 無理無理! 紫乃ちゃんの親に怒られるって」
「大事にするって」
「気が早いよ。今日知り合ったばかりなのに」
「恋愛に時間は関係ないだろ?」
本気か冗談か分からないけど、どちらにせよ今の俺にとって楽の発言は驚異でしかない。まともに話していたら丸め込まれそうなので、
「紫乃ちゃんの意思だってあるでしょ。とにかく紹介とか絶対無理!」
適当なことを言ってスルーした。
エントランスに出て、楽の姿が見えなくなるまで手を振り見送ると、なんとなく早足で部屋に戻った。楽がいてくれたおかげで紛れていた緊張感が再び戻ってくる。
「楽君、面白い人だったね」
「う、うん。高校からあんな感じ」
面白い人、か。紫乃ちゃん的にもああいうタイプはアリなんだろうか。中身は軽いけど、男として楽はかっこいいし当然か……。少し複雑な気分だ。
「お茶淹れようか?」
「いいよ。自分でやるから。希望は座ってて」
「うん……」
……気のせい? 紫乃ちゃん怒ってる? さっきまでと違い、彼女の声はやや尖っていた。
リビングのソファーに座り紫乃ちゃんが急須で緑茶を淹れる姿を見るともなしに見ていたら、今度は明確に不機嫌な視線を向けられた。胸が、嫌な熱を帯びる。
「さっきからジロジロ人の顔見て……。何?」
「紫乃ちゃん、何か怒ってる?」
「怒ってないよ」
「嘘。だっていつもと違う……!」
紫乃ちゃんの眉間に深いシワが刻まれた。心臓が嫌な音を立て、耳にまでそれが響いてくるような気がした。俺はとんでもないことを言ってしまったかもしれない。だけど、口が止まらなかった。
「気に入らないことがあるなら言ってよ。同居人なんだしさ、我慢なんてしてほしくない」
「我慢なんてしてない。怒ってなんかないって……」
「隠しても分かるよ。楽がいる時は普通だったのに、今はいつもの紫乃ちゃんらしくないから」
「『私らしい』って何!?」
紫乃ちゃんは、手にしていた湯のみを打ち付けるようにダイニングテーブルに置いた。その拍子に、中身のお茶が真上へ飛び跳ねる。散った湯の雫が手についたのか、紫乃ちゃんは一瞬顔を歪めた。
「大丈夫!? ヤケドしたんじゃ……」
心配になり、紫乃ちゃんの元に寄ってヤケドしたであろう手を取ろうとすると、両手で体を突き飛ばされた。
「放っておいて!」
無防備だった俺の体は、見事真後ろに倒れ、床に尻を強くぶつけてしまった。痛い。そして、ひどく悲しい気持ちになる。どうして紫乃ちゃんは突然冷たくなったのだろう。さっきまで普通だった。嫌われるようなことをした覚えもない。それなのに。
痛みを感じると同時に頭に血が上った。
「放っておけるわけない! 明らかに怒ってるのに怒ってないって嘘ついてさ。何でもないって言うんだったら怒ってる態度も全部隠し通してよ!」
「……」
まずい。言い過ぎた。酒が抜け切ってないんだろうか。酔いは完全に醒めているのに。何にせよすぐに謝らないと! でも、これって全部俺が悪いの? 本当に?
「……ごめん。でも、不満があるなら言ってくれなきゃ分からない」
「希望への不満……? たくさんあるよ」
「え……?」
血の気が引いていくような感覚がした。紫乃ちゃんの声はいつになくかたく、何らかの覚悟がにじんでいた。いつの間にそこまで嫌われていたんだろう?
「どうして知らない人の前であそこまで無防備になれるの? 自分で帰ってこられないほどお酒を飲むなんてどうかしてる! 弱いクセに! そもそも私達未成年だよね? 鍵まで失くしてるし……。信じられない」
「う……。その通りだね……。ごめんなさい」
返す言葉がなかった。正論過ぎて。
紫乃ちゃんに怒ったことが急に恥ずかしくなってしまう。
「ごめんね。それは俺もすごく反省してる。もう飲まないから、怒らないで? お願い」
「嘘つき。希望はお人好しだから、友達に勧められたら今後何度だってお酒を飲むに決まってる……」
「お人好しって……」
否定できないのがつらい。
「でも、この先もしそうなっても紫乃ちゃんには迷惑かけないから。たとえ俺が酔っ払って帰ってきたとしても、無視して先に寝ててくれればいいから」
「無理だよそんなの」
「……心配してくれてありがとう。でも、どうしてそこまで怒るの?」
とても不思議だ。俺も紫乃ちゃんには好感を持っているけど、紫乃ちゃんはそれ以上に俺を慕ってくれている感じがする。俺の名前だって最初から呼び捨てだし。
今までは何となくボンヤリそう思うだけだったけど、今になってそれは確信に変わった。紫乃ちゃんはただの同居人としてではなく、それ以上の気持ちを俺に抱いているのだと。そうでなきゃ、ここまで感情的になる理由がない。ただの同居人なら、酔って帰ってこようが最悪事故にあおうが放っておけばいいんだ。
俺もそう。再里に頼まれたのはあくまで紫乃ちゃんの衣食住の確保と保護。約束は守っているのだから、あとは干渉せずお互い自由にやればいいんだ。新入生旅行でお土産を買ったり写真を送ったりする必要も義理もなかった。
「不思議なんだよ。紫乃ちゃんはどうしてそこまで俺に深入りするの? ただの同居人だし放っておけばいいのに。知り合ったばかりでしょ、俺達……」
「それは希望が私を忘れているからでしょ?」
紫乃ちゃんの頬に静かな涙が伝う。その顔からはいつしか怒りの感情が消え、悲しみ一色に染まっていた。
「俺が紫乃ちゃんを忘れてる……? どういうこと?」
「知りたい?」
「……うん」
迷いなく俺はうなずいた。
彼女の話の続きを耳にしたらとんでもないことになる気がする。だけどもう引き返せない。俺は紫乃ちゃんのことをただの同居人としては見られない。
紫乃ちゃんを気に入ったと言った楽に納得してしまったのはそのせいだ。気持ちの深さと時間は関係ない。出会って短いけど、俺は紫乃ちゃんに惹かれている。そう自覚してしまったから。
「教えてほしい。俺の知らないこと、全部」
「後悔しても知らないから」
薄く笑い、紫乃ちゃんは瞳に涙を浮かべたまま一呼吸置き、言魂使いの能力で俺の失った記憶を取り戻した。
「高城希望から欠けた記憶よ、あるべきところへ戻れ」
1秒たらずの静寂の後、紫乃ちゃんは苦しげに顔を歪め両手で頭を抑えた。
「くっ……!」
力を使った代償。激しい頭痛が、彼女を襲う。
「紫乃ちゃん! 大丈夫!?」
大丈夫なわけがない。分かっていても声をかけずにはいられなくて、床にうずくまる紫乃ちゃんの背中を必死でなでた。まさにその瞬間、俺は彼女のことを心配する余裕がなくなった。
頭の中に濁流が渦巻くように、幼い頃の思い出が流れ込んできた。息をするのも忘れてしまうほど圧倒的なその存在は、俺を俺ではない別の人間にしていくようだった。
「これ、は……」
昔、同じ学区内で突然お金持ちになった夫婦がいた。近所や学校のあちこちでその噂は囁かれていた。各務さんという中年夫婦で、もともとは貧困家庭だったという。なぜ知っているかって? それは俺のよく知る女の子の両親だからだ。
各務紫乃。俺の初恋の女の子の名前。
各務夫妻がお金持ちになる少し前に、紫乃は行方不明になった。俺の家族で彼女の誕生日を祝った翌日、彼女は「友達の家へ遊びに行く」と母親に言い残し、それきり姿を消した。
おぼろげだった記憶が鮮明になる。
目の前で頭痛に苦しむ紫乃ちゃんは、昔よく遊んでいた紫乃だった。
約1時間ほどだろうか。永遠にも感じる長い時の中で彼女の頭痛が治まるのを待ち、俺達は再び言葉を交わした。
「行方不明になった後すぐ警察に捜索願も出されたのに結局見つからなかった。本当に、紫乃なの?」
「そうだよ」
紫乃はうっすら頬を染め、悲しげに笑った。
「名前、やっと昔のように呼んでくれたね
。紫乃、って」
だから紫乃は、再会後も俺にだけ呼び捨てをしていたんだ。記憶がなかった頃は親しすぎる呼び方に違和感があったけど、全てを思い出した今なら彼女の言動の意味が分かる。
「ここに来た時、どんな思いで俺を見てたの?」
つらかったはずだ。普通に笑っていても、紫乃の心はきっと泣いていた。
「ごめん。俺、紫乃を忘れたくなんかなかった。ずっと探してたんだ。いなくなった後、紫乃を探して。忘れる前まで、ずっと、ずっと…!」
学校が終わった後、休みの日、毎日紫乃を探して近所を自転車で走った。晴れの日はバスに乗り隣町まで行ったりもした。子供が下手に首を突っ込めば危険だから警察に任せるべきだと親には言われたけど無視して探した。おとなしく待つ間に紫乃が消えていなくなりそうな気がして。
だけど、どれだけ探しても紫乃は見つからなかった。学校内で、紫乃はもう見つからないかもしれないとつぶやかれ始めた。事件に巻き込まれたものと考えていた大人達は、紫乃はもうこの世にいないかもしれないと言い出した。そんな風に思いたくなかったけど、俺達児童もそう思わざるをえなかった。
共に祝った紫乃の誕生日が、彼女と共有する最後の思い出となった。
紫乃は死んだーー。生きていたとしても、きっと二度と会うことはできない。そう理解した俺は絶望し、家に引きこもることになった。
彼女は生きていた。時間が経ってしまったけど、成長した彼女に会うことができたんだ。
「探してあげられなくてごめん! 忘れててごめん! 誰よりも大事な友達だったのに……」
「泣かないで、希望」
言われて気付く。視界は歪み、頬がひどく濡れていた。
「希望は本当に……。昔からまっすぐだよね……。羨ましいよ」
紫乃の頬にも涙が伝っていた。
「巻き込んでごめんね。希望」
「エデンのこと?」
「それもあるけど……。私はきっと、希望のことを真の意味で思いやることはできない人間だから。言魂使いであることを嫌悪しつつ、アイデンティティだとも思っているのかもしれない」
「どういうこと……?」
疑問を投げかける声は柔らかい唇に塞がれた。紫乃の唇が、俺のそれにそっと重なった。甘くて優しい香り。涙の味がする。
初めてのキスなのに、それは恋愛ドラマにあるような甘いときめきに満ちたものではなく、胸が痛くなるような苦しみも孕んでいた。




