高三、湯川智彦(1)
「湯川君、ようかん食べない? お茶はないけど」
放課後、三年三組の教室で頬杖をついて考え込んでいると、クラスメイトの伊藤光義が小ぶりの重箱を持って話しかけてきた。箱の中にはカットされている黒く艶やかな直方体が整然と並んでいる。
テスト最終日の土曜に、眼鏡の男子高校生がようかんの入った重箱を持って立っている事情が理解できなくて言葉を失う。その片手には楊枝の入った木製の筒があった。
「近所のおばあさんから頂いたのを、切ってきたよ」
ああなるほど、とぼんやり周囲を見る。まだ教室に残っていた数人の女子は、伊藤からもらったようかんをおいしそうに味わっていた。前の席にいた女子が伊藤に聞く。
「伊藤君、これ高級なやつじゃないの? すごくおいしいんだけど」
「お中元でもらったみたいだよ」
にっこり笑って伊藤が答えた。伊藤は祖父母と暮らしているらしく、そのせいか若年寄みたいなところがある。にこやかで真面目、どちらかというと背も低く、幼く見られがちな顔に黒縁眼鏡をかけた伊藤は、年配の人や女子にかわいがられるタイプの男子だった。人のことは言えないが、青春真っただ中の男子高校生としては残念な部類で、手作り弁当やらお菓子なんかを重箱に詰めてきてはしょっちゅう周りに配っている。近所のお年寄りともよくお茶しているらしい。そんな伊藤がちょっと心配そうな声を出した。
「さっきからどうしたの? 湯川君」
「いや……うちの高校って、プールないんだよなって思って」
いただきます、と伊藤から楊枝を受け取り、一切れの黒く艶やかなかたまりを口に含む。黒糖の濃厚な甘みが口の中に溶けた。確かにちょっとお茶が欲しい。
「プール……水泳したいの?」
「いや、水着になる機会がないよなぁって」
そう言って咀嚼したようかんをゆっくりと飲み込む。ごちそうさまー、と帰っていく女子達に伊藤は笑顔で手を振ると、重箱を机に置いて目の前の椅子に座った。
「湯川君、水着になりたいの?」
「いや、俺じゃなくて女子の」
「はあ。女子の、水着……ですか」
不安げな表情で伊藤が呟く。誤解されないためにも、ちょっと真剣な声で続けた。
「自分の身体に隠したいものがあったら、やっぱり見学するんだろうか」
「ちょっと待って、湯川君。テストが終わったとたん、どういう話?」
伊藤が焦ったように声をひそめた。黒縁眼鏡を中指で押さえ、頭痛を堪えるような顔で目を閉じる。思わずつられて小声で説明した。
「例えばさ、身体に派手な傷跡なんかがあったら、見られたくなくて見学したりするのかなーと思って。あと、なんていうの? 夏でもキャミソールとか着ないで長袖着たりすんのかなって考えてただけで」
「なんでそんなことを」
心霊写真を見るような目をこっちに向ける伊藤に、真面目な顔で話す。
「昔っていうか、小学生のころ、夏休みに仲良くなった子がいたんだけど、夏が終わってそれっきり会えなくなって、どこの子かも解らないままだったんだよね」
「はあ」
「で、ちょっと似た子がいたんだけど、自信がないんだ。その子、肩のあたりに傷があるはずなんだけど、プール授業があれば、誰かに聞いて解るかなって思っただけ」
「なるほど、そういう話。あーびっくりした」
「びっくりするほどの話でもないと思うけど」
ようかんを食べ終えて、楊枝を咥えたまま呟く。伊藤はちょっと複雑な顔をしながらも真面目な声を出した。
「びっくりするしないは人間性の問題かもしれないけど、仮にプール授業があったとして、そんなことを実際調べるのは難しいと思うよ? あとね、女子の誰々さんがプール授業を見学しているか、なんて聞いて回ってたら何事かと思われるし、そうじゃなくても女子がプールを見学する件について湯川君が考え込んでるなんて知られたら、女子じゃなくても十人が十人引くと思うよ? 世間でいうところのドン引きだよ?」
「……いや、それは、誤解で、俺の人間性は大丈夫だから!」
「どうしたのお二人さん。っていうか湯川君、何が大丈夫なの?」
動揺しているところに、間近から女子の声がした。びくりとして振り向くと、同じくクラスメイトの女子、笹木が立っていた。後ろで手を組み、不思議そうな顔をしている。慌てて言葉が出ない俺を尻目に、伊藤がにこやかに答えた。
「うん、実は湯川君がね、女子がプールをけんが」
「いやその女子が! プリンはアレルギーあってヤバいけど、ようかんなら大丈夫だからって話! うまいし!」
伊藤のセリフを無理やり遮る。ようかんを誉めたことで、伊藤も満面の笑みで重箱を示し、笹木に言った。
「ようかんおいしいよね。笹木さんもよかったらどうぞ」
はあ、と笹木は首を傾げながらも重箱のようかんを一切れ食べると、ごちそうさま、と教室を出ていった。緊張が解け、ぐったりと椅子にもたれて窓の外を見る。なにごともなかったように伊藤が先刻の話を続けた。
「普通に聞いてみればいいんじゃない? 今どき、傷跡を隠すために半袖にならないとか水着にならないとかって聞かないよ。今の医療技術は発達してるんだから、目立つ傷跡なんて残さないと思うよ。特に女子なら、親御さんが手術代なりなんなり出してくれるものじゃないかな。就職活動の一環で美容整形するような世の中なんだから」
そうなんだけど、と近所のおばちゃんと話しているような気分を味わいながらうなずくと、伊藤は長袖シャツを着ている腕を広げながら話を続けた。
「それに、女子に限らず夏でも薄着にならない人間なんてごまんといるよ。僕も紫外線が苦手だからこのとおり。……今後の参考までに聞くけど、傷跡が今でも残っているとして、女子にどうやって確かめるつもりだったの? プール見学してる女子を無理やり脱がせるつもりなの?」
「いやいやいや。そんなこと、女の子にできないよ」
「女の子じゃなければ湯川君はひん剥いて確かめるの?」
重箱を片付けながら、伊藤は乙女のような顔で聞く。こいつはなんてことを言うんだ。しかし伊藤はこっちの視線など構わずに、重箱を渋い小豆色の風呂敷に包み、それじゃ、お疲れ様でした、と教室を出ていってしまった。
変なところで疲れたな、とため息をついて学校を出る。七月に入ったばかりで、梅雨のなごりも残ったままの曇り空。夏はこれからだった。