壊れた世界
私達の世界が、危うくなるようなことが起きていた。
何かが余計だった。もう叶っているようにふるまって、なりたいものになりきるために、邪魔なものは、なるべく排除していたのに。
ほころびかけているのはどこだろう。あまり考えたくない現実のことを考える。そうだ、『お父さん』によくないものが迫っているんだった。
お父さんとお姉ちゃんが写っている半分の写真を眺めた。何度も見ている、優しそうな、一度も会ったことのない、お父さんの顔。
お父さんの近くに、よくない人がいる。『余計な』人がいる。私達の世界を壊そうとする人がいる。
「本当のことをなるべく考えたくなくて、とにかく『お父さん』から余計な人を取り除くことを考えました。サヤちゃんはあんまりお父さんの話をしなかったけど、私はお父さんのことをたくさん知りたくて、名前とか会社なんかも知っていました」
そう言うと、サヤちゃんが少し驚いたように私を見た。トモヒコくんは納得したようにうなずいている。
「だから『お父さん』と『余計な人』を見つけるのは簡単でした。お父さんの顔は一目で解るし、実は何度か同じ人と歩いているのを見てました。あの夜は、お父さんがその人と食事をしているのを見て、急に頭に血が上りました。サヤちゃんは一人でお父さんを待ってるのに。寝るのも起きるのも一人で、ご飯だって自分で買い物して作らないと食べられないのに、目の前の二人はきれいなところで、出された料理を楽しそうに食べていました」
サヤちゃんに申し訳ないと思いながらも言葉を続ける。これは、過去の話だ。
「サヤちゃんと自分と重ねていました。起きても誰もいなくて、置いてあるお金で食べるものを少しだけ買って、……別に一人で食べるのが辛いわけじゃないけれど、お父さんもお母さんも同じだと思っていたんです。私達より忙しくて大変なはずだから、待っている私達のことなんか忘れてるみたいに、きれいなところで楽しそうにご飯を食べてたなんて思わなかった」
少し離れたところから二人を眺めていた。遠くに見えるお父さんが、笑顔をその相手に向けるたびに解らなくなった。
「相手の人さえいなくなればいいって思っていたはずでした。『余計な人』がいなくなれば元に戻ると思ってたはずなのに、私は、サヤちゃんのお父さんが許せなくなっていました。忙しいのも、帰ってこないのも、私達のためだと思っていられるうちは、寂しいのを我慢できたのに」
あの子がかわいそうだ。
私がかわいそうだ。
私達は無理やり自分を騙して、寂しさをごまかしていたのに。
あの女の人がいなくなっても、私達の楽しい世界は戻らない。嫌な現実が痛みのように迫ってくる。私達の小さな世界が壊れるなら、この意地悪な世界だって壊れてもいいはず。
もう、世界の修復は不可能だった。
「私は悔しくて震えながら、二人の後を付いていきました。再婚の話が進んでいたことは知っていたし、この日サヤちゃんのところへ行くのも知っていました。ここの裏通りからサヤちゃんの家に向かおうとしていたので、私は神社へ走ったんです」
「サヤちゃんも、同じ頃ここに逃げてきたんだよね」
トモヒコくんが裏手から外を見下ろして言った。サヤちゃんがうなずく。
「私が果物ナイフを持ったままいろんなことを考えていた時、裏手に二人が歩いてきて、泣きながらサヨがここに走ってきました」
「その時私は、大きい石を持ってました。……サヤちゃんもあの時泣いてたよ」
そう言ってちょっとだけ笑ってみせると、私も裏手の外を見ながら続けた。
「私はいろんなものが許せなくなっていて、おかしくなっていました。あの二人の後ろを歩いていた時から、私は神社の裏から石を投げ落として、あの人にうまく当てることだけを考えていました。相手の女の人じゃなくて、サヤちゃんのお父さんにです。私は拾った石っていうか、欠けたコンクリートのかたまりを持って石段を登り、ここまで来ました。二人はもうここの真下を通るところだったので、持っていた石を振り上げました」
「それを、サヤちゃんが止めたのか」
痛みをこらえるような顔をしてトモヒコくんが言った。痛い話が苦手なタイプなのかもしれない。私がうなずくと、サヤちゃんは悲しそうに目を閉じる。
重いかたまりを振り下ろそうとした瞬間、歪んだ視界をお姉ちゃんが遮った。一瞬の躊躇は凶器の軌道を変えて、その重いかたまりは、お姉ちゃんの右肩を直撃した。
あの時の石の重みと手に伝わった感触を思い出すと、今でも身体が震える。呆然としている目の前で、みるみる赤く染まってゆく半袖のワンピース。
「ずっと、サヤちゃんに謝りたかった。お父さんにとんでもないことをしようとして、サヤちゃんに酷いけがをさせてしまった。なのにサヤちゃんは私に謝ってばかりで、私に謝らせてくれない」
近付いて、サヤちゃんの右手を握った。汗ばんでいるのに、その手はちょっと冷たい。トモヒコくんが少し笑って言った。
「そうだよ、サヤちゃんが謝ってばかりいるから、僕も勘違いしちゃったんだ。あの時も、血まみれでナイフを持ったサヤちゃんが謝ってばかりいたから、僕はサヤちゃんが誰かを刺して、それを謝ってたのかと思った。しばらくこのあたりで、行方不明の人や他殺死体なんかが出なかったか気になったんだよ」
怖いことを冗談めかしてトモヒコくんが続ける。
「あの時、断片的にしか二人の話が聞こえなくて、サヤちゃんが『全部私が悪いの』とか、『私一人でやればよかった』みたいなことを言ってたから、サヨちゃんも手伝ったのかと思ったし」
「逆でした。私を、サヤちゃんが止めてくれたんです。サヤちゃんに怪我をさせるまでは怒りで怖さなんて感じなかったのに、あの瞬間から急に現実が戻ってきて、自分がしようとしていたことや、してしまったことが怖くなって、何も言えなくなってしまいました。サヤちゃんも血まみれのまま何度も何度も私に謝るから、余計に何も言えなくて」
「だって、それは全部、私に原因があるんだから。私は自分のためにあなたを利用して、妄想みたいな噓に巻き込んで、嫌な思いをさせてしまった」
「サヨちゃん」
泣き出しそうなサヤちゃんを横目で見ながら、トモヒコくんが私に言った。




