サヤ(1)
読んでいる本の内容が、頭に入ってこない。
昼休み、クローバーのある中庭で本を読んでいた綾部沙也は、本を閉じて目頭をそっと押さえた。三度も同じところを読み直しているのに、自分の中で話が進まない。なんだか集中できなかった。笹木先輩と話したことで、少し動揺しているのかもしれない。
六年前に梅鷲町に住んでいたことは調べれば出てくるので、しらばっくれる必要はない。でも、野口小夜子という子は知らないし、大きな怪我はしていないと笹木先輩に言った。
兄弟も姉妹もいない。これは噓ではないし、笹木先輩も知っているみたいだった。さすがに親のことまでは聞いてこなかったし、それ以上のことは誰も知らないから、笹木先輩も知りようがないだろう。つじつまの合わないことは、ないはずだった。
問題は、どうしてそんなことを私に聞いたのか。
いつもと変わらない行動しか取っていない。部活動もしていないし、クラスメイトとの付き合いも必要以上に深くない。目立つようなこともしていないし、雨が降らなければ、休み時間はここで本を読んでいる。それとも、ここにいるから、逆に目についたのかな。
なんとなく、右肩に触れる。夏服のブラウス越しに、傷跡の感触がある。そんなに深い傷ではなかったけれど、ほんのり小さく形が残り、触れて解る程度に硬くなっていた。
笹木先輩の質問は、おそらくあの人から出たものなんだろう。私の肩に傷があることを知っているのは、私と小夜子とあの人しかいない。
あの人はあの時、免許が取れるまでは六年かかると言っていた。もしそれが正確な話で、当時十二歳だったのならば、私より一年上のはずだった。
苗字は知らないままだったけれど、下の名前は覚えている。三年生の男子で同じ読みの名前は二人いた。そのうち一人は三年三組。湯川智彦。どう関わっているのかは解らないけれど、笹木先輩も三年三組だ。
六年前の夏、お互いのことなんて知らないまま仲良くなった。どこの誰かなんて、大人にとっては重要な情報でも、私達にはどうでもよかった。説明するのも面倒だし、考えるのも嫌だった。せっかくとっておきの場所を見つけたから、楽しく過ごしたかった。
夏休みに仲良くなった双子の片方が怪我をして、それっきり会えなくなった。さすがに、そんな想い出のままでは済まなかったのかな。どこまで気付かれてしまったんだろう。
彼が笹木先輩を通じて私の話を聞いたとして、別人だと判断したならそれまでだった。でも、そうではなかったみたいだ。
ゆうべ、笹木先輩から電話で、ごめんね、といきなり謝られた。私に話を聞きたい人がいるという。頭がおかしい奴じゃないし、嫌ならすぐ帰ってもいいから、と真面目な声で頼まれた。これ以上噓をつくのも嫌だし、笹木先輩に噓をついたり、言い訳するのも嫌だったから了承した。
私と話をしたいという人物は、思っていたとおり、『湯川』という苗字の先輩だった。
怖かったら無理しないでね、なんだったら会うのは警察署や交番の前でもいいから、と私の心配をしてくれている笹木先輩に、梅鷲町の神社でいいですよ、と私から指定した。
それは私が、話の内容を解っていると白状したことになる。知らないふりをしたことを謝ろうとすると、笹木先輩は、そんなの大丈夫、ありがとう、と優しく言った。
授業が終わって学校をあとにする。いつもは一駅で降りる電車に乗って、藤木坂を過ぎ、青松町を過ぎて、梅鷲町で下車した。街並みは少し変わっていたけれど、よく歩いていた道は意外と変わっていない。今日はあまり暑くなくて、神社までの道も苦にならなかった。
なだらかな下り坂を歩き、横道に入る。このあたりは、道路整備の都合で掘り下げざるを得なかったらしく、坂や段差でごちゃごちゃとした地域だった。
そんな片隅に、取り残されたような小さい丘と神社があった。正面には古い石段があり、裏手側は崖のようになっている。その上には危険防止の柵と、社を守るように立っている杉の木が見えた。
石段を上り鳥居をくぐると、空気が変わったような気がした。重なるように立っている杉の木のおかげか、静かで居心地がいい。六年前の私にとっても、ここは別世界だった。
「綾部さん」
奥のほうで、申し訳なさそうな表情の男子学生が待っていた。六年も経てばいろいろと変わるものだと思っていたけれど、この人はあまり変わっていないように見えた。どんな顔をして話そうかと考えていたのに、思わず頬がゆるんでしまう。
「ごめんなさい、あまり変わっていなかったから、なんだか不思議な感じがして」
「そうかな、綾部さんだって変わってないよ。ギャルっぽくなってたら、こっちも解らなかったと思うよ」
まるで六年前の頃のように話せているのが不思議だった。何から話そう、何から謝ろうと考えているうちに、高校生の『トモヒコくん』が済まなそうな顔をして言った。
「二人は、はじめから他人だったんだね。綾部さんとサヨちゃんは」
「サヤ、でいいですよ」
なんとなく気恥ずかしくて視線を落とすと、むこうも少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「なんとなく、ここにいると話し方まであの頃に戻っちゃうよ。とりあえずごめんね、サヤちゃん。こんなことをほじくり返す必要なんてなかったよね、君にとっては」
深緑に囲まれた境内に、ふっと風が渡っていった。うっかりすると、あの頃の夢を見ているような錯覚にとらわれる。
今は、本当のことをちゃんと考えよう。サヨに言い聞かせたように。
「いえ、ずっと騙してましたから。あの子のことも、トモ、……先輩も」
言いかけて、慌てて直す。『トモヒコくん』は今、『湯川先輩』だった。ごめんなさい、とうつむくと、『湯川先輩』が笑う。
「それこそ、トモヒコでいいよ」
「少し、恥ずかしいです」
そう? と智彦先輩が不思議そうに首を傾げる。こんなことで困るとは思わなかった。




