6品目 土砂降りの雨の中
昼過ぎから急に降りだした雨が、『なみはな』の窓を叩く。降り始めこそ小降りではあったが、すぐに本降りとなり、雷まで鳴り始めたのだ。
「うわ……すごい雨」
店主は外を見て溜め息を吐く。
「こんな雨じゃ今日はもう人来なさそうだな……」
恨めしそうに窓の外を眺めながら店主はテーブルに突っ伏す。突っ伏したまま在庫や廃棄の確認を忘れていたことを思い出し、ゆるゆると上半身を起こす。さて何からやるかと思案しているとドアが開き、からんころんとドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ……えっ?」
客を出迎えた店主は一瞬ぎょっとする。店に入ってきたのが全身をずぶ濡れにした明松だったからだ。明松の深い紅色の癖毛からはぽたぽたと水滴がとどまることなく垂れている。
「どうしました!?」
「ん、何でもない。その……傘、借りれないか?」
「傘はありますけど……外は雷が鳴ってますから、今出るのは危険ですよ。少し待っていて下さい」
店主はそう言うと奥の部屋に入り、バスタオルを持って明松のもとに戻ってきた。
「これどうぞ」
「いいのか? 使っても?」
「ええ」
店主は白いバスタオルを明松に手渡す。明松はそれを受けとり、髪の毛を挟むようにして水滴を拭った。
「丁度店も暇ですから、雨宿りしていって下さい」
店主は入り口近くの椅子を軽く引き、明松を座るよう促す。
「おいおい、椅子濡れちまうぞ」
「あとで拭けば良いんです。ささ、こちらへ」
店主の勢いに押されるまま、明松は引かれた椅子に座る。
「しばらく止みそうにないですし、ゆっくりしていって下さいね」
「まあ、そこまで言うなら……」
明松は軽く返事を返し、タオルで顔を拭う。
「……とりあえず、紅茶貰おうかな」
「かしこまりました。少々お待ち下さいませ」
注文から十分も経たずに店主は紅茶を明松の元に運んでくる。
「紅茶でございます、どうぞごゆっくり」
「ん、ありがとう」
バスタオルを頭に被ったまま、明松はポットで出された紅茶をティーカップに移し、両手で包み込むようにティーカップを持ち暖を取りながら紅茶を飲み始めた。
「やっぱ雨は苦手だな……」
はぁ、と溜め息を吐き、明松は再びメニューを開く。
「温かいもんがいいな……。んで、まだ食ったこと無いような……」
そう言って明松は濡れた服の上から腹部を撫でる。
「……ボリュームも、欲しいかな」
ティーポットの中身を半分ほど飲んだ頃、明松はちりん、と呼び鈴を軽く鳴らす。
「お待たせいたしました」
「あのさ、温かくて腹がふくれるようなのが食いたいんだけど、これってどんなのなんだ? でかいオムレツ?」
明松はメニューの中にあった一枚の写真を指差す。黄色い卵に赤いケチャップが映えるオムライスの写真だった。
「オムライスですね。こちらはケチャップで炒めたご飯をふわふわトロトロに焼いた卵で包んだ物です」
嬉しそうな様子で話す店主に明松は軽く頷いて少し考える。
「トロトロの卵……うまそうだな。うん、これにしよう」
「かしこまりました」
伝票を素早く書き込み、明松に一礼して背を向ける店主。去ろうとする店主の服の袖を、明松は軽く掴む。
「あ……あのさ!」
「どうしました?」
「タオルありがとう。その、あの、汚したら悪いからさ、返すよ」
明松は慌ててタオルを畳み、店主に手渡す。
「もう大丈夫なんですか?」
「ああ、これぐらいすぐ乾く」
「そうですか。……風邪には気を付けてくださいね。寒かったらまたお貸ししますから。」
頷く明松を見て、店主は安心した表情を見せた。
料理ができるのを待つ間、明松はぼんやりとティーポットに入った紅茶を眺めていた。
「アップルパイもフレンチトーストも……全部うまかったなぁ」
以前自分が魔法のようだと評した料理の味を思い出す。それらの料理は明松が初めて出会う味で、完全に虜になっているのは彼自身が一番良く分かっていた。
「あんなもの作れるなんて、あいつ本当に人間か? ……むしろ人間じゃ無かった方がしっくり来るかもな」
到底有り得ない想像を呟く明松。言ってしまった後にハッと口を押さえて辺りを見回す。誰も居ないことを確認すると、明松は安堵したように溜め息を吐いた。
「……気になるなぁ」
明松はいつのまにか魔法のような料理を作る人間への関心で一杯になっていた。
しばらくして、明松の元に店主がやって来る。
「オムライスでございます」
店主は明松の前にそっと大きな皿を置く。曇りひとつ無い皿にはとろとろの卵と赤いケチャップが食欲を唆るオムライスが乗っていた。
「おー……」
目を輝かせ、ごくりと喉を鳴らす明松。
「そんな顔をしていただけると作り甲斐がありますよ」
「こんなうまそうなもの出てきたらこんな顔にもなるだろ。顔に出すなってほうが無理」
「ふふ、ありがとうございます」
店主は少し照れ臭そうに頬を掻いた。
「いただきます」
恒例となった食前の挨拶をしてから、明松は少し迷ってスプーンを手に取る。それから手に持ったスプーンを軽くオムライスに刺し、チキンライスと卵を一匙掬った。卵はとろりと柔らかく、それでいて形が崩れることはない、丁度良い具合に火が通っている。
「む……」
一口含むと、ケチャップの酸味とチキンライスに混ざった野菜の甘味や鶏肉の香りが広がり、その風味や香りを滑らかな舌触りの卵が引き立てる。
「んー……」
明松は幸せそうに頬を緩め、それからゆっくりと味わいながら一口、もう一口と食べ進める。
「ああ、確かにふわふわトロトロだ」
ふとオムライスを食べる手を止め、少し冷めた紅茶を飲む。冷めても紅茶の水色は濁ることなく美しい。
「紅茶のこと、今度聞いてみようかな」
料理に興味を示したとき、店主が嬉しそうな顔をすることを明松は思い出していた。紅茶について聞いたら一体どんな顔をするだろうかと、そんなことを考えながら再びオムライスを一匙掬う。
「また頼もう。……それにしても、今日は来て良かったな」
先程まで雨に濡れて憂鬱だった事も忘れる程に、明松は目の前の料理を楽しんでいた。
オムライスを食べ終えた頃、明松はまだ降りやまない雨を気にしていた。
「どうすっかなぁ、あんま長居しても迷惑だろうし……」
やれやれと溜め息を吐き、明松は伝票を持って席を立つ。
「あれ、明松さんお帰りですか?」
明松が立つ気配を察したのか、店主が厨房から顔を出す。
「ん……ああ」
「まだ結構降ってますよ?」
店主が窓の外を示すと、確かに雷は止んでいるが、雨はまだ降り止む様子は無い。
「いやでも、あまり長居すると迷惑だし……」
「……そうですか。わかりました、今傘をお持ちしますね」
店主は少し寂しげな顔をして、レジカウンターから黒い折り畳み傘を持ってきた。
「はい、どうぞ。返すのはいつでも良いですからね」
「ありがとう。でも、ちゃんと次に来るときに返すよ」
明松はそう言って傘を受けとると、それと交換に伝票を手渡す。
「……あのさ」
「はい、何でしょう?」
「お前が作る料理ってさ、その……凄いよな! 不思議な魅力があるっつーかさ、何度も食べたくなるような、そんな感じなんだ」
照れ臭そうに料理を褒める明松。店主はそれを聞いて少し恥ずかしそうに笑う。
「でさ、そんな凄いもの作れるなんてきっとお前も凄い奴なんだろうなって、気になってさ」
「……買い被り過ぎですよ。俺はごく普通の一般市民です。料理だって特別何かあるわけではありませんし」
「そんなつまんねえ謙遜で片付けんなよ。俺の目が曇ってるとでも言いたいのか?」
真面目な顔でそう返し、明松は自分の目を指差す。
「いえ、そういうわけでは……」
「だったら素直に喜んどけ。お前の料理は今まで俺が食った物の中じゃ一番なんだからさ」
そう言ってにっと笑う明松。
「……ありがとう、ございます」
「俺だけじゃない、柊も褒めてた」
店主は少し戸惑った顔をして、それから嬉しそうに微笑む。
「それなら柊さんにもお礼を言わないと」
「また柊と来るよ、そのときにでも言えばいい」
「それもそうですね。……また、おいしい紅茶仕入れておきます」
店主はにっこりと笑い、四十五度の角度で腰を折る。
「おい会計」
完全に明松を見送る体勢になっていた店主を見て、明松は呆れた声を出す。
「えっ? あっ、わ、忘れてました」
「お前なぁ」
「あはは、すみません」
明松が呆れたように笑うと、店主もつられて笑う。
「ったく、ボケた爺さんかよ」
「ほんとおかしいですね。お会計忘れるなんて」
「褒められた位で浮かれすぎだぞ。あ、これで」
明松はケタケタと笑いながらカルトンに千円札を二枚乗せる。
「こんな事普段は無いんですよ?」
「普段からあったらこの店の未来が心配だ」
大袈裟に溜め息を吐いてみせる明松に対し、店主は笑って頭を掻いている。
「人を雇って料理以外任せりゃ良いのに」
「……そう、ですねぇ」
一瞬顔を曇らせたが、店主はすぐに笑って返す。
「あー……悪い、変なこと聞いたかな」
「いえ、大丈夫ですよ。……お釣りどうぞ」
そう言って店主はぎこちなく笑顔を作り、明松に釣り銭を渡す。明松は心配そうな顔をするが、それ以上追求するようなことはなかった。
「また、来るよ」
「ええ、お待ちしております」
深々と頭を下げる店主に笑顔を返し、明松は一度振り返りながら店を後にした。