パンドラ箱
その記憶厄災を呼びし箱。その底にあるは僅かな光か。それとも……。やめて、もう、これ以上は……。
玩具の銃を破壊した本物の銃口がゆっくりと新田の額に優しく添えられる。
「脳に痛覚は無いそうよ?」
「お、お前、何者なんだよ」
ゆっくりと口角の端を歪めて美しく笑う杉村。新田はその時、初めて杉村の美しさを感じた。
「私はただ、友達を取り戻したいだけの壊れた女の子」
新田は、杉村のとっている行動と、自分自身の評価のギャップに笑ってしまう。
「降参、負けたよ。これ、マジで死ぬパターンだな。なら、持ってる情報は全部提供する。それに、今のあんたなら好きになれそうだしな」
「あれ?新田くん、結構いい人?」
「俺はお前の中でどんな扱いなんだよ!ただのミリタリー好きな男子高校生だっつうの」
杉村は礼を言うとその銃を背中に収納する。
「なぁ、なんで、教室の窓ガラスが改造銃で割られた事に気付いたんだ
?」
杉村が、口に人差し指をあてて首を傾げる。
「うーんと、違和感があったから。ガラスの破片は教室内に散乱していた。それは外から割られたから。3階に位置する2年A組のガラスを割ろうとするなら、何かを投げつけるしかない。けど、石とかは教室には落ちて無かった」
「なるほどな、証拠を消すために弾は皆で拾ったんだけど、石とかおいときゃよかったな」
「それに気になったのは、正確に2年A組のガラスだけ割られていた事かしら。石とかなら、暗がりの中、投石したとしたら、一枚くらい他の窓も割ってると思う」
「暗がりの中、正確に撃てたのは暗視スコープも使用してたのもあるけど、お前、洞察力すごいな。確か、あの教室はすぐに封鎖されたから、一般の生徒が中を覗けたのはほんの一瞬だぜ?」
「うん。だから、その日の夜、学校に潜入して現場検証したの。ここまで辿り着くのに結構時間はかかってる。それに真相を知るのが怖かったのもあるの」
先ほどとは一転して、気弱そうに下を向く杉村に新田が困惑の表情をする。
「もしかしたら、緑青君が犯人だったらどうしよって」
その答えに笑う新田。
「それはありえない。あいつ、動体視力とかはいいのに、全然だめ。銃を使っても標的にすら当てられないんだぜ?」
優しく笑う杉村。そんな表情も出来たのかと、感心する新田。
「もし緑青君が、私みたいに二重人格だったらって、少し疑ってたの」
「はは、お前みたいなのが、身近に2人も居る訳ないだろ、痛たっ」
足の痛みを思い出した新田が、顔を歪める。
「あ。足砕いちゃってごめん。緑青君の事になると、私、見境利かなくって」
「らしいな」と笑う新田。
「あ、そうそう・・・・・・質問がもう一つあるんだけど?」
「何?」
「緑青君って、記憶、無いの?」
ため息をつく新田。
「お前の方があいつと仲いいだろ?自分で確かめろ」
「出来ない、今ある幸せが、全部、飛んでっちゃってしまいそうで怖いの」
「そんな状態でも幸せって言えるお前が不憫に思えるよ。・・・・・・そうか。さしずめパンドラの箱ってとこか」
「寿司詰め?」
「さしずめ。つまるところ、とか、つまりはってことだよ」
「緑青君の記憶がパンドラの箱・・・・・・?」
杉村蜂蜜が神妙な面持ちで下を向く。
そして思い出した様に、新田に巻かれている鎖を解いていく。
「そう、あいつが記憶を取り戻しても何にもいい事なんか無いぜ?きっと。知ってるか?あいつが関わった事件で被害にあった人間がどうなったかを」
何かを考えながら鎖を解いて行く杉村蜂蜜。その表情は優れない。
「緑青君以外はどうでもいいから、気にして無かった」
「気にしろよ!」と言いながら足を引きずって自分の鞄を手にする新田透。
「面と向かって話す機会なんかこれっきりだろうから教えといてやるよ」
「うん、ありがと」
「被害にあった8人のうち、5人が死亡、1人が重度の精神障害を抱えて施設に保護され、1人は留年して引きこもり、最後の1人が石竹ってこった。悲惨だねぇ、それでもまだ過去の事件を掘り返す気か?」
「でも、このままじゃ駄目なの。私も緑青君も先に進めずに、一生あの事件に振りまわされる事になる」
「そうか、お前は取り戻したいんだな、大事な人を」
杉村蜂蜜は涙眼になって、驚いた様に新田の目を見る。
「そんな顔するなよ、俺だって馬鹿じゃないんだ。お前の気持位わかる」
首を横に振る杉村蜂蜜。
「でも、緑青君には私の気持ちは伝わらない」
「だから石竹の巻き込まれた事件を探っているんだな。でも、犯人は捕まったって当時聞いた事があるけど?」
「あの2年A組の襲撃事件に、当時の関係者が関わっているかも知れないの」
鎖から解放された新田が、肩を回しながら答える。
「嘘だろ?俺らは、間接的に窓ガラスを割る様に指示を受けただけだから……」
「黒板に書かれた文字の事は知らないの?」
「あぁ、俺らが教室内に散らばった弾を回収している時は無かったしな」
杉村蜂蜜の顔が青ざめていく。
「なぁ、俺、もう帰っていいよな?ってか病院行きたいんだけど?多分、足の指折れてる」
杉村蜂蜜は慌てて首を縦に振って、謝罪する。そして財布から数枚の札を出すとそれを新田に渡す。
「お、お前、こんな額持ち歩いてんのか?」
「少ない?」
「多いよ!10万以上持ち歩いてる高校生なんか見たことねぇよ」
新田は、お互いのヒミツを守るようにと約束し、それを承諾する杉村蜂蜜。廃工場から立ち去ろうとする新田が、杉村に声をかける。
「あ、そうそう。石竹の失った記憶っつーのは、佐藤の妹の記憶らしいぜ?」
杉村が、礼を言いながら首を傾げる。
「なんで佐藤さんの妹が?」
「あ、その妹に何か聞こうとしても無駄だぜ?」
「なぜ?」
「石竹と一緒に事件に巻き込まれて、もう亡くなってるからな」
杉村蜂蜜が衝撃を受けた様に固まる。
「緑青君と?一緒に?」
杉村蜂蜜の脳裏に当時の記憶が蘇る。
開け放たれた小屋の中に、腹部を切り裂かれる少女、額から血を流す少年、血塗れの男。
「あの時の?だから、佐藤さんはあの夜、学校にいたのね?あの子が、あの子がいたから私は!あの子が目覚めたのも!」
放心状態に陥った杉村蜂蜜から、笑みが浮かび、渇いた笑い声が工場に響き渡る。
「お、おい?どうした?俺は帰るぞ?病院いかせてくれ」
杉村蜂蜜は自嘲するように笑い続ける。
*
暗がりの山道を新田透は足を引きずりながら歩いている。新田に焦りの色は無い。杉村に殺される心配は無くなり、こうして歩いていれば、そのうち市内を駆け巡る無料タクシーの1台くらい拾えるからだ。
「悪い子」
そう声をかけられて新田は振り返る。
「ん?あんたは確か……なんでこんなとこまで?!」
新田の質問は空を舞い、答が本人に返される事は永遠に無くなった。
夏休みの始め、八ツ森市立高等学校の生徒がその夜を境に消息を断つ。彼は今、豊かな山に抱かれて安寧の眠りについている。
その事は、ただの1人を除いて誰も知らない。