吸血女と魚目の教師
紅の女と水の女。その思惑。私達の他にも被害者は居る。
※吸血乳女の考察2……
彼女の意識下に存在するもう一つの人格との接触に心理部の3人は成功する。石竹緑青が彼女の半径約1.5m付近(恐らく彼女のパーソナルスペース内)に存在すると解離性障害は緩和され、他の人格が姿を現す事は無い様だ。例外的に、石竹緑青自身が彼女に羞恥心を与えた場合及び、彼女の恐怖心が石竹緑青の影響下を越えた場合において、他人格が表層化する。
尚、石竹緑青との接触後、別人格に意図せずとも与えていた制約は消えており、他人に対する警告詰問や、度を越える暴力行為は喪失している。しかし、他人格である彼女、(「働き蜂」と彼女は呼んでいる)に対する制約が消えたという事は、彼女に自由意思が与えられたという事である。
その点については今後、考慮しなければいけないだろう。症状は少しずつではあるが、改善されてきていると私は考える。このまま彼女の精神疾患が完治する事を願い、私は継続して彼女を監視いや、見守り続けたいと、そう思う。私が彼女と費やした7年という月日を無駄にしない為にも。
私はパソコンの電源を落とし、眼鏡を外すと帰宅する準備を始める。
白衣をカウンセリング室にあるロッカーにかけ、コートを羽織る。車のキーを探そうとしてそれが無い事を思い出す。
以前は自宅から車で通勤していたが、ここ八ッ森市は24時間体制で無料タクシーを走らせている為、その必要が無い事に気付いたのだ。
「確かに、あのタクシーは便利なのだけど、どう考えても採算が合わないわよね。市か国が運営しているとはいえ、大丈夫なのかしら」
そういえば、杉村さんの父親でもある、杉村誠一さんは元気にしているだろうか。まだ乗り合わせた事はないが、今日、運転手の人に彼の事を聞いてみようかしら。
扉を叩く音がして振り返る。
心理部の子達は、1時間ほど前に帰宅している。誰かしら?
カウンセラーとして働いてはいるが、教員的な業務や他教師との接点が無い私を訪ねてくる人間は少ない。
「どうぞ、鍵はかかってませんよ?」
その返事の代りに、カウンセリング室の扉が訪問者の手によって開かれた。石竹君や杉村さんの担任でもある「荒川静夢」教員だった。手に持った鞄を私は床に置くと、彼女に用件を尋ねる。
「あなたは確か、荒川教員?杉村さんの担任をされている……」
「えぇ、よく御存じで。よかったわ。日本語が御上手な様で」
返事をする代りに微笑むと、荒川先生は辺りの様子を伺いながら、扉を閉める。
「あの子達は帰ったようね?」
頷く私に、どこかほっとした表情をする彼女。何を心配しているのだろうか。
「ひとつだけ、確認したいことがあるんだよ、あの子の事で」
私は杉村さんの現状を頭に思い浮かべる。大丈夫、問題は無いはずだ。確かに石竹君頼りというのはどこか後ろめたい気もするが、彼が居れば杉村さんも他の子と同じ様に授業を受けられるはず。
「心配なさらないで下さい。杉村さんの安全性でしたら私から保証出来ま……」
荒川教員が、少し自嘲する様に笑い、首を横に振る。
「杉村の件に関しては、心理部の子達とあなたを信頼している。そっちは心配していないよ。私が心配しているのは”石竹緑青”の方だよ」
私はその意外な返答に首を傾げる。
「石竹君、ですか?」
「あぁ、最近の彼の状態の変化に気付いて無いのか?」
私は最近の彼の様子について頭を巡らせる。
確かに私は杉村さんばかりを気にしていたが、特段彼に変化は見られていない。大丈夫なはずだ。過去にあった御両親の出来事については本人からも話を聞いているし、それ自身を彼がきちんと受け止められている精神状態である事も確認した。
……そういえば以前に比べて、気を失い、倒れてカウンセリング室に運ばれて来る回数が増えた?いつ頃から?あの襲撃事件の前後?いや、あのメッセージは杉村さんに宛てられたものだったはず。石竹君とは無関係なはず。
「彼の意識を失うスパンが短くなっているような気がします」
「なんだ、気付いているじゃないか。しっかりと」
「ですが、杉村さんと接触して悪影響が石竹君側に起こるとは考えにくいのですが……」
荒川教員はワンレンの髪を、軽く掻き上げながら「そういうことか」と呟いた。
「彼の関わった事件について、あなたは何も聞かされていないのか ……」
私はすぐにそれに反論した。
「いえ、きちんと確認をとっています。彼の精神状態もおおよそ把握しているつもりです」
「7年前、いや始まりは10年前か。八ッ森市で起きた連続少女殺害事件については知っているのか?」
彼女は石竹君の話をしているのに、杉村さんに関係する事件を提示してきた。
「その事件は、杉村さんと関わりがある事件です。石竹君とはなんの繋がりも……確かに、その日は彼と一緒に森に入ったと杉村さんからは聞いてますが……」
荒川教員が私の前にやってくる。少し背の高い彼女は私を見下ろす形になる。
「幻の4件目だ。それに石竹は巻き込まれた」
あの事件のあらましは資料や関係者から情報を得ていて、その背景は知っている。犯人の北白直哉は3件の殺害事件を起こす。その4件目を行なおうとした矢先に、杉村さんと山で遭遇し、彼女を執拗に追いかけた。追いかけられた彼女は北白を逆に追い詰めるが、そこで杉村誠一さんが犯人を確保し、その身柄をそのまま警察に届けるというものだ。
「どういうこと?それなら、なぜ、杉村さんはそのことを?」
「恐らく、一番真相に近い位置にいる。だから彼女は壊れたんだろ?」
嘘だ、違う、なんで、なんで彼女は私に話さなかったのだろう。
彼女の目的は一体?いや、石竹君も被害者なら全てを知っていたはず。ならあんな回りくどい事をしなくても、私に真相を話してくれたら何らかのアクションをとれたはずなのに。
「言っておくが……石竹に聞いても無駄だぞ?」
荒川教員が私の思考を読むように口を鋏む。
「まさか、事件のショックで記憶が?」
解離性健忘を彼が併発していると?
彼自身の脳がその事件を無かった事にしているのだろうか。
「佐藤に何回も確認をとったよ。すっかりと一部の記憶を無くしているらしい」
「事件の被害にあった事をですか?」
困った様な表情で視線を逸らす荒川教員が思い口を開いた。
「事件の記憶というよりも、佐藤の妹の記憶がすっぱり無いんだよ。あの山で2人は直前まで行動を供にしていたのに。普通なら、佐藤の顔を見て何か思いだすのだろうが、あいつと佐藤の付き合いももう今年で7年になるそうだ」
私にはまだ解らない事が多すぎる。佐藤さんに妹さんが居た事も初めて聞く。
「待って下さい!そしたら、事件に関係のある3人が揃ってしまっている事になりますよね?」
「あぁ」と頷く荒川教員。
「もしかしたら、杉村さんが石竹君の前に姿を現した事によって、また記憶が……」
その言葉を言い終わらない内に、荒川教員がカウンセリング室の扉を強く叩く。私の体は反射的に防御態勢をとる。
「荒川教員?」
鋭い視線が私を射抜く。
「そんな事はさせるな!いいか!少しでもあいつの容姿がおかしいと感じたら、彼女と距離を取らせろ。何がなんでもだ」
「でも、彼女にとっても彼は必要な存在で……」
荒川教員が私の両肩を掴み、そしてその場に崩れる。
私はただ茫然と立ち尽くす事しか出来なかった。小刻みに震える彼女の肩は何かを物語っている。
「頼む、これ以上被害者は出したくないんだよ。あの事件で命を奪われた犠牲者は5人だが、それ以上の人間が心に深い傷を負い、今も苦しんでる」
私はその言葉を聞いて気付く。この目の前の人物もまた事件の被害者である事を。
「あなたも……」
力無く、自嘲気味に荒川教員は微笑み、そうだと短く頷いた。
私はゆっくりと彼女を立たせ、ソファーに座らせる。
「情けないよ、今もまだ、思い出すだけで震えるんだ」
私は水を入れたグラスを彼女に差し出す。
短く礼を言った彼女は、それに口を付けようとはせずに両手で愛おしそうに抱え込む。
「当時、近所でよく顔を合わしていた女の子でね。妹の様に可愛がっていたんだ。いや、娘の様にかな?被害に合う前の朝も挨拶を交わしていたんだ。なのにあんな事に・・・・・・。あの事件の被害者でまともに生活を送られているのはもう彼だけなんだよ。だから、彼だけでも私達は救おうとした。あんたが7年間、彼女と向き合ってきた様に、私”達”も彼と向かいあったのさ」
私は心理士として軽率になっていたのかも知れない。
人が1人死ぬ事の影響力を。
荒川教員がこちらに視線を向ける。
それに私は言葉を待たずに返事をする。
「解っています。彼に異常が現れた場合は、その原因を即刻取り除く処置を取らせて頂きます」
荒川教員は一言礼を言うと、コップを近くの机にそのまま置いてカウンセリング室から出ようとする。
別れる寸前に私は彼女を呼び止める。
「荒川教員……石竹君からはあなたの事、やる気の無さそうな先生だと伺っておりましたが、その情報を訂正させて頂きます」
その言葉を受けて、荒川教員はそのままでいいとだけ答えて去っていった。