深緋色の錆びたナイフ
佐藤浅緋。
それは北白事件四件目で、石竹緑青と一緒に誘拐された被験者の内の一人であり、私の九歳しか生きられなかった妹だ。
たった九年の人生で私の妹はこんなにも多くの痕跡を周りの人間に遺してくれていた。
あの日、佐藤家ではまるで灯火が無くなったかの様に思え、私達家族は公に葬儀をする事も、お墓に名を刻み、遺骨を収める事も出来なかった。
存在する事を消された少女。
けど、それは同じく誘拐された緑青が罪悪感を抱えさせるのを恐れ、彼女自身が望んだ事だった。元々はそこに私がいる筈だった。
「妹は誰よりも聡明で賢くて……誰よりも強かった。でも……馬鹿だ。大馬鹿者だ……なんで、私なんか助けたのよ……生きるべきは貴女だったのに……」
嗚咽を殺し、次々と流れてくるSNSの情報。その中には私達が知らない浅緋の姿が幾つもアップロードされていた。江ノ木さんに借りた端末を握り締め、涙で画面がよく見えない。
「浅緋……こんな風に笑うんだ……浅緋、人気者だったんだね。弱い者には優しくて、横暴な人間を許せない、正義感の強い子……でも、でも、何で死んだのよ……なんで死ぬ必要があったの?」
特殊部隊SASと緑青達が睨み合いを続ける中、私は人目も憚らずに泣き続けた。
「浅緋は……私と違って大人しくて、言葉使いも良くて、自分と同じ名前の桃色が好きで、お店をよく手伝う私とは正反対のよく出来た子だった……あの子の代わりに私が成れれば良かったんだけど、出来なかった……メイド服も似合わないし、接客も下手で、愛想が無い、背が低くくて何も出来ない癖に、生意気で……私はわがままだった」
あの子が私に向ける遠慮がちな微笑み、父や母と喧嘩した時も間に入って仲裁してくれた。私の後ろを付いてくるだけの妹が気付けばこんなにも多くの人に慕われていた。忘れずに居てくれた。もしかしたら、記憶を閉じ込めようとすればする程、逆に浅緋の存在が大きくなっていたのかも知れない。
「無念の死を遂げた私に出来る事はそれしか……これしか無かった。貴女の最期の言葉を、思いを、私は知りたかった。だから、私は!何十、何百もの遺体と向き合わせて貰って、妹が殺された時の事を知りたかった……それ以外、もう何も要らなかった」
私の言葉を聞く為に杉村さんの母親が部隊に銃を下げさせてくれた。
「でも、もういい。これだけの人が貴女を覚えてくれているなら私は……彼等を許そうと思います」
仮面を付けた八ツ森の生徒達が顔を見合わせている。
「当初、犯人だと思われていた北白直哉は裁判の結果、重度の精神疾患で無罪となりました。そして、彼を間接的に操っていたとされる最初の子供達も、日嗣尊さんの推測や最後の生贄ゲームの考察の中で、悪意だけで行なわれた訳では無いと感じました。彼等もまた、大切な友人を守りたかったのです。私の妹と同じ様に。それが結果的に北白直哉の暴走を招き、何人もの被害者少女達を生み出してしまいました」
蹲っていた私は立ち上がると、振り返り、まっすぐカメラを見つめる。
視線の途中のは八ツ森高校の皆んなが居る。設置されたカメラの側には石竹緑青と鳩羽竜胆が此方を見ている。どちらももうボロボロだ。
「そして何より……未成年である第零ゲームの少年達を裁く法が日本にはありません。そもそも、十二歳以下の子供は法的な判断力や責任能力を持たされてはいませんし、例え、子供に唆されたとしても、相手が大人であった場合、善悪の判断がつきます。この場合、犯行を実際に行なった北白直哉に罪があります。ただ、今回の事件では法が彼を裁く術が無かっただけです」
なら、被害者や被害者遺族達の無念は何処に向かえばいいのだろうか。
「それに北白直哉は既に裁かれました。法が及ば無いならと、杉村誠一さんに追い詰められ……生贄ゲーム事件を始めた一人の青年の手によって裁かれたのです」
私は北白直哉を許せた。刺しはしたものの……そんな事をしても何も変わらなかった。
「それが良かったのかどうかは分かりません。ただ、北白は充分に罪を理解し、贖罪を求めていた。財産を被害者に分配し、由緒ある北白家現当主として家を解体した。彼自身死ぬつもりだった。だから、私が会いに行ったあの時、彼は私に殺されるつもりだった」
私はその時、疲れ切って死んでしまいたかった。けど、それを留めたのは更生した北白だった。
「そして、二川亮も又、決着をつけるべく、北白を再犯者として犯人に仕立て上げた上で彼を撲殺しました。彼は罪を償える程に回復した北白直哉に罪を犯させる事により、再度裁かせようとしました。けど、彼は生贄ゲームを続行する様な真似はしなかった。被験者の少女を抱え、山を降りようと必死でした」
そしてそれは杉村誠一さんと二川亮に阻まれた。死の直前、杉村蜂蜜さんが看取った。
「北白直哉はあの時、異常者ではありませんでした。二川亮に誘い出され、警察に捕まる、もしくは最初から殺す算段でした。被験者少女に襲い掛かった三人の大学生は北白直哉と被験者である少年に殺されていますが、彼等も又、二川亮に誘導されての事ですが、自業自得とも言えます」
文化祭の日、私と緑青と青磁、二川亮は顔をつき合わせている。
「彼等が犯した罪は消えません……しかし、彼等は本当に血も涙も無い殺人鬼だったのでしょうか?北白は弱まり、薄れゆく霊樹の森の結界を危惧していたと聞きました。二川はただ、自分の事を守ってくれた名前も知ら無いもう一人の少年を守る為の犯行でした」
二川亮の場合は犯行そのものを楽しんでいた節はあるが、それは罪の意識を遠ざける為だったのかも知れない。
「そして……きっと貴方もそうなのでしょう……全ての始まり、君の友達を助けたいという強い意志が後の悲劇を呼び込んだ……」
私はスカートのポケットからビニール袋に包まれた小さな刃の欠けたナイフを取り出した。その場に居た誰もが顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げている。
「六年も掛かりました。この刃の欠けた小さな折り畳みナイフは……かつて北白事件でとある少女が使用したナイフです」
日嗣尊さんが、星の仮面を外して私の手元にぶら提げられた袋の中身を見定めている。
驚いた表情で私を見つめ返した後、小さく「良いのか?」と囁いた。私はそれに頷く。
「本来なら、これは警察から科学捜査研究所(科捜研)に一時的に貸し出されているものです。DNA型鑑定の為に特別に。そして、ましてや……監察医の見習いとして勉強させて頂いている私如きが持ち出して良い代物ではありません……無断での持ち出しは立派な犯罪です。でも……それでも……私は、私達は法が裁けないなら、私達の手で裁くしか無いんです……」
あの日の妹はどこかいつもと違っていた。玄関で身支度をした妹が此方に気付いて振り返る。
桃色のワンピースに、髪には浅緋色のリボン。麦藁帽子。私を暫く見つめたその瞳には逡巡が垣間見えた。
どうしたの?浅緋?
外には緑青を迎えに来た杉村親子の車が止まっていた。
まだあの時点なら私は妹を止められていた。様子のおかしい妹に私が声を掛けようとしたら、それを遮る様に浅緋はいつものはにかんだ笑顔でこう言うのだ。
『いってきます、お姉ちゃん!』
緑青と一緒に森に行く事に気付いた私は呆れながら彼女の背中を押す。私になんか遠慮しなくていいのにと。杉村ハニーなんかに負けないでと応援の意味を込めて送り出した。私が彼女を殺したんだ。
『お姉ちゃん……私、頑張るから。大好きな人の為に』
私は最初、それが彼へと向けられたものだと思っていた。けど、それは違った。
彼女は私を北白直哉から、第零の少年達から被験者に選ばせない為に戦う決意をしていたんだ。
私を、守る為に。
「あの時……妹が緑青と杉村さん親子と共に森へ出掛けるのを止めれたのは私だけなんです。なのに私は……彼女の意図を汲めなかった。九歳の女の子が一人戦う決意をしていたのに……私は、私は、何も気付いてあげられ無かった……だから、だから私は!こんな事でしか妹の声を聞く事が出来ません」
これは、私の、あの時から時間が止まってしまった私が、前に進む為の戦いだ。浅緋……ごめんね?こんなにも時間掛かっちゃった。でも、皆んなが、皆んなが貴女の為にこんなにも頑張ってる。だから、私も踏み出さないといけない。
「このナイフは……最初の生贄ゲームで天野樹理さんが北方の森から一人で下山し、麓の駅前通りで四十人を斬りつけ、八人を刺殺。同じ被験者である里宮翔子さんの心臓を貫いたものです」
私は溢れる涙を拭い、設置されたカメラを睨み返す。
「このナイフに付着した血のDNAは天野樹理さんを含む四十二人に加え、北白直哉のもの、そして……」
長い七年間だった。
「本来、そこに居るはずの無い二種類の身元不明なDNAが検出されています」
だから……。
「それは……北白直哉の共犯者であり、第零ゲームの被験者、最初の少年達二人のものです」
これが私の……全てを終わらせる隠しナイフだ。