脅かす者:殺人蜂
九年前のあの日の夜。
八歳の私はある計画を実行する。
黒いコートと暗視ゴーグル、護身用銃であるダブルデリンジャーと弾薬を腰のポーチとホルダーに提げ、身体に巻き付けたナイフホルダーからはいつでも黒刃の
TOPS社製KEY−Dのナイフを取り出す事が出来る。隠しナイフは六本あれば充分だろう。
コートの上から左肩に巻いたベルトのナイフホルダーにはカランビット型のナイフを納めている。このナイフの形状は特殊でナックルの様な持ち手の下から刃が鉤爪の様に前に伸びている凶悪なデザインで、素早く動きながら相手の身体を引っ掻くのに適している。
私は自身の身体能力を過信してはいない。
力で大人に抗えば必ず負ける。
子供の私に出来るのは相手の腕を掻い潜り、素早く動き回りながら相手を切りつけるぐらいだ。背後をとって動脈を掻き斬る事が出来れば問題無いけど、私はまずは交渉を持ちかける予定だから、姿を現わさざるを得ないのだから。
パパは明日の朝早くから出張(内容は不明)で陽が落ちて間も無いのに既に就寝中。こっそり出掛けるには丁度良い。
自室のある二階の窓を開け、屋根伝いに外に出る。部屋の鍵は閉めたから、パパが起きて私を呼んだとしても誤魔化せる。
音を立てない様に塀に飛び移り、道路へと着地する。
暗い道を街灯が照らし始めていた。
私は頭にセットした暗視ゴーグルを装着し、呼吸を一度整える。
「大丈夫、これで上手くいく。歪みは消えて何もかも。緑青は何にも怯えず、家族に愛され、私達の幸せな八ツ森での生活がずっと続くの……ずっと……」
それが出来るだけの力を私はパパとの訓練で手に入れた。
世界は私に選択肢を与え、それを選べる権利を得た。私は選ぶのだ。緑青と過ごす幸せな未来を。
この時の私はそんな傲慢な考えさえ、正しいと信じ切っていた。
何とも身勝手な少女でこの世の全てを自分はどうにでも出来ると勘違いも甚だしい。愚か者だった。その頃の私はこう考えていた。歪みを正せば全てが上手くいくのだと。その歪みさえもがこの世界を構成する一つの要素なのに。
葵さんは浮気の事実は無いのに、彼女は頑なに身の潔白を訴える様な事はしなかった。それは例え汚名を着せられても、好きな人の残した子供と会う事を望んだからだった。そして、疑いを掛けられた無実の罪で夫である石竹白緑のやりようのない怒りの矛先が子供である緑青に向けられている。
葵さんが他の男と会っているという誤解を解けばそれは解決する。私がその事実をリークすれば解決する話なのだ。
けど、それをしてしまえば葵さんともう一人の少年の小さな幸せは奪われてしまう。それを奪う程私は奢ってはいない。
だから、私のすべき事は一つしかない。
白コートの少年と石竹葵さんがケーキを食べながら仲よさそうに公園で話していた。それは本当の親子の様にも見え、他の子とああやって話せるならきっと緑青にも出来るはず。
彼女はケーキを食べながら少年に打ち明けていた。
暴力を影で受ける息子を助けたいのに、その事実を夫に告げて状況が悪化すれば子供を殺してしまう可能性がある事に。苦しみ、そして、罪悪感が邪魔をして上手く緑青と接する事が出来ないという事を。彼女もまた苦しんでいたのだ。
二年前のあの日、緑青は私を助ける為に暗殺者を殺してくれた。何の躊躇も無く。彼はきっと大事な人を守る為なら最短距離でその原因を取り除く行動が出来る。
彼は心無い残虐な性格の持ち主などでは無い、優し過ぎるのだ。人の為に自ら罪を負う事に何の躊躇も無い。そして、その殺した相手の事も背負ってしまう。もし、彼が葵さんを守る為に自分の父親を殺してしまったらどうなるのだろうか。きっと彼は罪の意識を感じてこの先ずっと苦しみ続けて生きていくのだろう。そんな姿を見たくは無い。
私は緑青の家から少し離れた路地で物音も立てずに通行人や車道から入り込んでくる車に細心の注意を払う。暗視ゴーグルを装着した私の視界は鮮明で人の表情や服装、そして予め調べていた車のナンバーと記憶の中で照らし合わせていく。
路地からの張り込みは視界が狭く、車も減速が充分で無いとナンバーを見逃す可能性もあるので一時の気も休む事は出来ない。何もせず観察する。案外単純に見えてこれが難しい。サリア義姉ちゃんがよく数ヶ月単位でこれを行なっているらしいけど、私なら耐えられない。見つかろうが何だろうが、突撃した方が楽だ。
「突撃……あれ?白緑さんの車を見つけたとして、その後、どうしよう?」
どうやって止めよう?そこまで考えて無かった。取り敢えず車の前に飛び出れば止まってくれると思ってたけど、この路地裏から緑青の自宅へは車で三分程度の距離であり、此処で止められなければ白緑さんは自宅に帰りついてしまう。それに目視確認が遅れて飛び出すタイミングを間違えれば轢かれてしまう。
どうすればいい?
それはそれで後日にやり直せば良い訳だから、此方が見つかる前であれば問題無い。あるとすれば路地から飛び出した先、私が待ち伏せしていた事を知られ、更に逃げらた場合だ。きっとその報告は白緑さんから父にすぐさま連絡が行くだろう。
だから、気付かれる前に止める、気付かれたら絶対に車を止める覚悟で挑まなければならない。兎に角、状況に合わせた素早い行動が運命を別つ。
張り込みを続けていると、白い車が路地へと差し掛かり、私は慌てて運転手を確認する。知っている顔だ。時刻は21時15分。この時間帯から帰宅するサラリーマンは多い。緑青の家の近くに住んでいる一家だった。夕飯を一緒に食べて帰って来たらしい。後ろの席で子供達が楽しそうにはしゃいでいる。
動かずにじっとしているから春とはいえ、少し肌寒くなってきた。
住宅街の此方に流れてくる車は少ないのが幸いしていた。こんなに暇なら携帯ゲーム機でも持ってくれば良かった。
石竹白緑の車は青いワゴンだ。夜の闇には黒く映るので注意が必要だけど、特徴的だからすぐに分かると思う。街灯が照らしている場所まで出てきてくれれば判断は容易だけど。
黒……黒、白……赤……白、白……紫。
白、白、緑?黒、白、白……黒。
ダメだ。目的の車は全然通らない。もしかしたらとっくに別のルートから帰宅しているのかも知れない。失念していた。どこかお店に寄って帰宅した場合、当然正規ルートからは外れてしまう。
私は慌てて暗視ゴーグルの倍率を遠方に切り替えながら道路に飛び出し、緑青の家が見える角度まで駆ける。素早くアスファルトの道を滑りながら体勢を低くし、勢いを殺すと、緑青の家の前にある駐車スペースを確認する。
大丈夫、まだ帰って来てはいない。
私は安心して暗視ゴーグルのバイザーを上げて元居た場所に戻ろうとして突然のクラクションに驚いて飛び上がる。数M先まで迫っていた黒いシルエットが真正面から私にぶつかろうとしている。
一秒と経たずに衝突してしまう刹那の瞬間、私は考えるのを止めた。ダメだ。避けられない。ならどうする?その答えは私の身体が知っている。
私は黒い車と衝突する刹那の瞬間、思考を捨て、全てを身体に委ねる事にした。
驚き、強張っていた身体の硬直が解け、足の裏が地面を蹴って身体を横薙ぎに回転させる。私の身体がフロントガラスに沿う様に回転しながら車の上方へと打ち上げられる。
いや、違う。
これは自分から打ち上がったのだ。
衝突の衝撃を回転でいなし、その衝突エネルギーを相殺させる。遠心力が緩和されたタイミングで両手足を広げて姿勢制御を行なう。
盛大なクラクションとタイヤ痕を道路に刻みつけながらも青いワゴンはそのまま走り去ろうとするのが眼下に見える。
ナンバープレートを照合する、黒かと思ったワゴンの色は街頭に照らされて紺色車体を曝け出す。
この車だ。
私は姿勢制御の傍で背中の鞄から引き抜いた護身用銃、レミントンのダブル・デリンジャーを即座に二発車体に撃ち込むと天井に穴が空き、ワゴンは驚いた様に急な弧を描きながら歩道のガードレールへと激突する。
その衝撃音が辺りの空気を揺らす。
音を聞いて近隣住民がきっとすぐに顔を出す。事故を起こしてしまったからには警察も呼ばれる。時間は然程残されていない。
七メートル程打ち上げられた私はアスファルトへの着地の衝撃に耐えられないかも知れない。
ぐるりと辺りを見渡し、身体を捻って近くの電柱へと脚を掛けると青いワゴン向けて前転を加えながらその屋根へと落下する。
その衝撃を受け止めた車体が大きく凹み、中から怯えた男性の悲鳴が聞こえてくる。
即座に私は銃底でフロントガラスを割り、弾を撃ち尽くした拳銃を屋根から運転手へと向ける。
反転した視界の先に、軽く額から血を流す怯え切った石竹白緑がそこに居た。
突然屋根から顔を出した黒いコートに身を包む子供に戸惑い、思考が現状認識に追い付かない様だ。
それもそうだ。
突然車道に出て来た子供を跳ねたと思ったら、屋根を撃ち抜かれ、フロントガラスを割られた上で拳銃を突きつけてきたのだから。
「ここで……貴方を殺すのがきっと最前なのだと思う……」
私は弾の無い拳銃の撃鉄を起こし、引金を引く。カチリという音と共に石竹白緑が怯えた声をあげて目をつむる。
「けど、葵さんと緑青は……貴方みたいなクソ男でも必要としている。私は要らないけど。貴方は邪魔なだけ」
「その声は……まさか、ハニーちゃん……なのか?」
私は無言で腿に括り付けた小型ナイフの一本を引き抜くと、それを彼の右腕と左腿にそれを投擲する。
小さなナイフが回転しながら突き刺さる。
ナイフが軽い分、刺さりは浅い。
「ぐっ……痛っ!痛い!なんで私がこんな事をされなければ……」
でも、これで力は入りにくくなる。
「此方にはあと五本のナイフと十発の弾薬が残っている……貴方が罪を自覚するのにどれぐらい消費するのかしらね?」
「わ、わがった……分かってる!君は許せないんだろ?ハニーちゃん!緑青が私に傷付けられるのが……でも、これは私達の問題だ……君が」
私は左腕にもナイフを投擲する。
「逆さだと投げ難いから、頭に刺さったらごめんなさいね……」
「ハニーちゃん、君は今、何をしているか分かっているのか……?」
私は無言で拳銃に次弾を二発装填する。薬莢がアスファルトの上で音を奏でる。
必死に私の名を呼ぶ白緑の言葉を無視して照準を彼の脳天へと定める。そろそろ頭に血が上ってきて辛くなってきたから終わりにする。
「いい?次は無いわよ?次に彼が怪我をしていたら、これだけじゃ済まないわ。貴方を拘束し、貴方が緑青に与えた痛みを全て味合わせた上で……最も長く苦しむやり方で貴方を殺す」
そんな殺し方知らないけど。
「わ、分かった……ハニーちゃん、銃を下ろしてくれ……誓う、神に誓う。もう緑青には手を出さない。だから……」
一発、助手席に向けて銃弾を放つ。
「葵さんもよ?」
「もちろんだ!約束する!」
「約束よ……アーメン……あと、私はハニーじゃ無いわ……」
人が近付く気配を感じ、私は身体を引っ込めると細い路地裏を駆けて行く。
私はハニーであってハニーでは無い。
私はもう蜜を集める蜜蜂なんかじゃ無い。
殺す事を躊躇する様な弱い私はもうどこにもいない。
人を殺める程の毒針を持つ殺人蜂なのだから。




