ワルサーP38
私の蒼い傘が無くなって、黄色いレインコートが私の大切な宝物になった。少し大きめのそれは紫陽花公園で一人で遊ぶ緑青を不憫に思った近所のおばさんが息子のお下がりとしてくれたものだったらしい。
それでもいいの。
このレインコートは私と彼とが繋がるキッカケをくれた。
それだけで充分だ。私達が出会った梅雨も終わりを迎えようとしていて次第に雨の日も少なくなるにつれて私は寂しくなってきた。
小雨の降る公園のベンチに私と緑青が並んで座っている。私は英国での出来事や周りの人達、義姉や父の事、国防省長官の娘として自衛の為の最低限の訓練を父から受けている事を彼に話した。
英国の事はピンと来ないのか、首を少し傾げながらの相槌に少し困らせてしまっているのかも知れない。年齢を聞くと同い年らしく、六歳だった。歳相応の容姿の中に時折見せる彼の達観した様な悲しげな微笑みが私の心をざわつかせた。彼を見つめる私の視線に落ち着かないのか、私に質問を投げ掛ける。二人ともまだちょっとぎこちない。お互いの心の距離感を測りつつ警戒しながらも、心のどこかでは掛け替えのない存在になりつつあった。もちろん友として。
「ハニーちゃんの眼は宝石みたいで……綺麗だけど……そんな目でじっと見られたら恥ずかしいよ」
所在無さげに緑青が視線を彷徨わせているのに対し、私はすぐに前に向き直って彼と視線を逸らす。彼の境遇を心配していただけなのだけど。顔が赤くなっているのが自分でも分かる。緑青のこういうとこズルイ。将来、色々な女の子が彼の魅力に気付いて、同じ様に優しい言葉を誰彼構わず掛けて好意を抱かれる未来が幻視となって垣間見えた気がした。ロクショウとはこの先もずっと同じ時間の中で一緒に大きくなりたい。それが私の慎ましやかな野望だ。絶対に英国には帰らない。
「ロクショウ……えっとね、違うの。その……今はね、雨の日に会ってるだけだけど……良かったら、わ、私の家に来ない?」
「ハニーちゃんの家?」
「ほら、もう私達は友達なのだし、雨の日に別に会わなくても……晴れた日にピ、ピクニックとか行ければいいなって……」
私の提案の途中、緑青の顔が困った様に少し曇ったのが分かった。
「そうだね……うん。僕も行きたいのだけど……パパがいつ帰ってくるか分からないし、ママの事もあるから……今のままで大丈夫だよ。ハニーちゃんの家も行ってみたいけど、この公園に居ないとママもパパも困るんだ……」
「そ、そうよね……うん。いいのよ、なんかごめんね?何だか私一人で先走って……」
緑青に断られた事が内心ショックだったのか、喉の奥が苦しくなって、視界がぼやけてくる。俯いて泣きそうになってる顔を伏せて緑青には見せない様にしている。
「でもさ……うん。パパもママもさ、機嫌がいい時は優しいんだ……だから、聞いてみる。友達の家に遊びにいっていいかどうか」
「本当に!」
私は嬉しくなって人目を憚らず彼に抱き付いてしまう。
「あ、あのさ……他の人が見てるよ!!」
「関係無いわ。私がそうしたいからそうしてるの。それに他の人なんて……」
「でも凄い見てくるよ?雨の中、傘差しながらずっとこっちを見てるおじさんが……」
おじさん?さっきまで人の気配は無かった……私の背後をとるなんてきっと只者では無い。私は緑青を庇う様に抱き着いたまま背後を振り返ると、そこには黒くて大きな傘を手に、深緑のトレンチコートを羽織った男が私達を無言で見下ろしていた。
「あの、誰ですか?僕達に何か用事でも……」
緑青に身体を引っ張られ、私の前に立ち、その男の人の前に出る。私を守ろうとしてくれているらしい。嬉しい。けど、そんな必要は無い。だって……。
「パパ……今日は早いのね?」
「パパ?」
戸惑う様に振り返る緑青越しに私は取り繕う様に父に微笑みかける。
「驚かせてすまないね。私は杉村誠一。ハニーの父親だ。君が緑青君かい?」
父の質問に少し警戒しつつも、私の表情を見て安心したのか素直にその質問に答える様に頷く緑青。
「うん。ハニーちゃんから話は少し聞いてます。ボランティアの人だって」
パパが緑青の言葉に笑い声をあげながらその頭を撫でる。その瞬間も緑青は反射的に避けようとしてしまうけど、父の狙いは正確で避ける事を許さなかった。
「そうだよ。ボランティアのおじさんだ。ハニー、そろそろ帰るかい?緑青君も家まで送るけど……」
その提案に緑青が頷きかけて首を必死に振る。
「ありがと……誠一おじさん。でも、ママがこの公園に迎えに来るまで帰っちゃダメなんだ……だから此処に残る」
「そうかい?どうするハニー?」
私は少し不服そうに頬を膨らませて抗議する。
「私はもう少し緑青と居たいの。パパ、先に帰っててよ!家なら近いし、一人でも帰れるわ?」
けど、父はそれを肯定してくれなかった。眉間に皺が寄って険しい顔で私を諭す。
「それはダメだ。じきに陽は暮れる。女の子一人を歩いて帰らせる訳にはいかない」
「平気よ!私、その辺の大人よりは強いもの!」
父が傘を私に差しながら、しゃがみ込んで私と目線を合わせて言い聞かせる様に話す。
「緑青君と居たいのは分かるが、ここ数年、ハニーぐらいの小さい子が誘拐されているんだ……可哀想な事にその子供達は今も行方知れずになっている」
「それは普通の子だからでしょ?私なら平気よ!」
私が緑青と長く居たいが為に駄々を捏ねてそっぽを向くと、父が呆れる様に溜息を吐く。そのそっぽを向いた先で紅い小さな傘を差した女性が無表情で遠くから此方を眺めているのが見えた。誰だろう?私が父の話も聞かずにそっちを向いて首を傾げると、父もその気配に気付いて振り返る。
「あ、安心して下さい。顔や髪の色は違いますが歴とした私の娘ですから……」
小雨の中、紅い傘を差したミディアムヘアーの女性は日本女性特有の華奢な体つきに一歩引いた静かな佇まいは儚げで美しい印象を受けた。父が話し掛けても女性は困った様に目を逸らし、何をするでも無く、じっとそこに立って居た。
私は父と顔を見合わせ、お互いに首を傾げる。父は全然似てないって言うけど、私の目元はやや垂れ気味で大きく、母や義姉みたいに切れ長では無いので父似だと思う。
その不思議な静寂を破ったのは小走りで女性に駆け寄った緑青だった。
「ママ、もういいの?」
その言葉にその女性が見上げる彼と視線を合わせると「……ん」とだけ呟いてすぐに視線は私と父の方へと向けられた。緑青はその女性が羽織る白いワンピースのスカートの端を手を握る代わりに遠慮がちに掴んでいた。
父が合点がいった様に頷きながら立ち上がると緑青の母親に会釈する。
「これはこれは、緑青君のお母様でいらっしゃいましたか……すいません、それは心配されたでしょう」
和やかに話す父の視線は言葉の柔らかさに反して二人の親子の洞察する鋭いものだったのを覚えている。父も初めて会った緑青に対する違和感があった様だった。
「いえ……構いません。それでは私達はこれで……」
素っ気無い態度で足早にその場を去ろうとする彼女の背中に父が話し掛ける。
「おっと、娘が晴れの日も緑青君と遊びたがっているんです」
父の引っ掛かる物言いに緑青の母が眉をひそめながら足を止め、振り返る。雨脚が少し強まった気がした。傘に打ち付ける雨音が雑音となって私達の会話を遮ろうとしている様に。
「……関係ありません。これは私達の問題ですので」
それを問題と表現する彼女の言葉選びに緑青の家が抱える闇が垣間見えた気がした。
「まぁまぁそう言わずに……良ければ今度の日曜日、近くのレストランで家族ぐるみで食事でもしましょう。丁度、この娘の母親も来日するタイミングでして……良ければお父様も一緒に……此方が連絡先になります」
父が音も無く彼女と距離を詰め、名刺を差し出すと戸惑いながらもそれを受け取った。父はそういうとこ遠慮が無い。
「……杉村誠一さん……」
「はい。以後お見知り置きを。失礼ですがお母様のお名前は?」
「石竹葵です」
「って!ママ来るの聞いてないし!」
父が惚けながら私に謝罪する。
「言ってなかったかい?丁度八ツ森に仕事で来日する必要があるから日曜日にディナーでもと」
私がプリプリ怒っていると、緑青の母が提げていたベージュ色のポーチに名刺を直すと、私達親子の様子をじっと観察する様に眺めていた。なかなか会えない母と会う時はおめかししないといけないのでこっちも色々大変なのだ。父に不満をぶつけながら、ポカポカ叩く。そんないつもの光景を彼女はまるで眩しいものを見る様に目を細めていた。
「分かりました。次の日曜日、ご一緒出来る様に夫に聞いてみます」
母を見上げていた緑青の視線が私とかち合い、二人とも無言で笑顔になる。これで一歩前進だ。晴れの日に会えれば好きな時に彼と会う事が出来る。そして、家に招待したり、色んなとこに遊びに行ったりも出来る。
緑青の事をまるで放置する様に公園に置き去りにする母親の事を私は鬼の様な姿を想像してたけど、実際は違うのかも知れない。私達親子のやりとりを眩しそうに見ていた彼女なら。
父も今度は優しげに微笑みながら小さく頷いた。
「ハニー……そろそろ帰ろうか?」
「そうね、週末の準備しないといけないしね!」
どんな洋服を着て行こうかしら。でもあまり畏まった服装はファミリーレストランにはそぐわないので選択が難しい。けど、可愛い洋服で緑青には誉めて貰いたいし……私がそんな事を悩んでいると、父が懐から取り出したワルサーP38の細い筒状の銃口が石竹葵さんからやや外れた方向、公園の入口付近に向けられていた。
私は特に気にしなかったけど、その見慣れない拳銃に石竹親子はそれを上手く認識出来ずに固まっていた。いや、緑青はじっと父の拳銃を眺めた後、小さく「ルパンだ……」と呟いた。
父が銃を構える為に放り出した傘が風で転がっていく。強くなる雨音に負けない程の鋭い声で父が公園の石垣に隠れる人物に通告する。
「何者だ?五秒以内に姿を現さないなら発砲する……」
殺気が篭ったその言葉で石竹親子が尻込み、私は緑青を此方側に呼び寄せる為に手招くが、銃が怖いのか、必死に首を横に振って葵さんの側から離れようとしない。そっか、母親を守りたいのかも知れない。
五秒きっちりに銃声が公園に響き、石垣に生えた紫陽花の一部が吹き飛ぶと同時に男の情けない声が響く。尻餅をついて姿を現したのは眼鏡を掛けたひ弱そうな男性だった。二十代後半といったところだろうか。
「ご、ごめんなさい!!撃たないで下さい!」
父が相手に敵意が無い事を感じ取ると、周りを素早く見渡した後、セーフティーを掛けた銃をコートの懐に仕舞う。
「ちょっと家内の様子が気になりまして……様子を伺っていただけなんです!」
「おや?という事は……もしかして……」
父が警戒を解くと同時に私も警戒を解く。私も途中から気配には気付いてたけど、殺気は無かったから無視していた。
「はい!石竹白緑!葵の夫です!」
泥だらけになったその細身の弱そうな男性は緑青の父親だった。父が謝罪しながら公園の入口まで歩いて行く。その手には新しいタオルが握られていた。けど、父が近付くにつれてその男の人は怯えた様に退く。
「結構です、家も近いですし、折角のタオルを汚す訳にはいけませんし……」
チラリとその視線が緑青とその母親へと向けられると、二人の表情が怯えた様に見えた。私は本能的に悟る。もし、緑青が何かしらの問題を抱えているとしたら、それはきっとこの人間の所為だと。私は恐らく、この男が嫌いだ。そう本能が告げていた。
最初は緑青の事を公園に置き去りにして何処かへ出かけてしまう無責任な母親(私の場合は父が仕事で家を留守にする。公園に来ていたのは私の意思であった)に対して不信感を抱いていた。けど、この光景を見たら誰だって分かる。緑青は母親に愛されている事を。私は傍で無意識に震える女性に声をかける。
「緑青君のお母さん……もう大丈夫ですよ。父は犯罪者には容赦しませんが、罪の無い人間に危害は加えません。銃声、聞き慣れなくて怖かったですよね?」
傘を離し、白い洋服が雨と泥に塗れようとも、父が銃を取り出し、発砲した瞬間、緑青との間に身を挺して割り込み、彼を抱き締めて庇った彼女の行動を見れば、この女性が自分の子供の事をどう思っているかは一目瞭然だった。
「だ、大丈夫です……少し驚いて躓いただけですから……」
立ち上がろうとして上手く立ち上がれず、よろける母を支える緑青が俯きながら礼を言う。
「ありがとう……ママ。僕を庇ってくれて」
その言葉に母親は何も答えず、そっぽを向いて彼女の夫の所へと歩いていく。この人はきっと本当に不器用なだけなのだ。スラリとした体型に儚い美貌を持つ彼女の纏う雰囲気がそういうものからどうしても遠ざけさせてしまっているだけなのだ。緑青もきっとそれを無意識に感じているのだ。
私を置いて入口で集まる大人達。石竹家が立去り際に緑青が振り返って私と目を合わせると、意を決した様に父親に提案する。
「ねぇ、パパ……今度の日曜日、ハニーちゃん達と一緒にレストラン行きたいのだけど……ダメかな?」
緑青の父、白緑が乱暴に葵さんの手を引くのを止め、呆れた様に緑青を見下ろす。
「ダメだ。失礼があってはいけないし、パパも忙しいから他所様の……」
私の父が強めの咳払いをして白緑を呼び止める。
「それなら心配無用です。是非、一度ご一緒に食事でもどうですか?招いた手前、こちらで費用も持たせて貰います。お二方の召し物を汚してしまった非もありますしね」
「結構です。いくぞ!葵、緑青!」
「それは残念です……家内も英国からの来日楽しみにしていますし、久し振りに国防省の仕事から離れて息抜き出来るとぼやいていたもので……」
「こ、国防……?」
その言葉に顔色が変わり、狼狽する石竹白緑。もしかしたら、世間体を優先する家柄なのかも知れない。
「冗談もほどほどに……」
「いやはや、こう見えて冗談を言う性格では無いのですがね?そう見えましたか?」
和やかに見えても父の言葉の端々に鋭さがあった。普段は隠しているはずの鋭さをどういう訳か隠すつもりは無いらしい。父にしては珍しく、石竹白緑に警戒している様だった。何がそうさせるのだろうか。
「……分かりました……仕事の都合はこちらで何とかつけます」
「恐れ入ります。連絡先は先程、そちらの綺麗な奥さんに名刺をお渡ししましたので、そちらに連絡下さい。勿論、連絡が無い場合、前日にこちらからお伺いさせて頂きます」
私は緑青君の家を知らない。父もきっと知らない。けど、父ならどこに住んで居ようが構わず見つけ出せるだろう。
「……わかりました。今週の日曜日、家族を連れて伺います」
「……はい、楽しみにしております」
丁寧に父が礼をするの見届けた石竹白緑は少し不機嫌そうに公園を出て行った。その背後に儚げな親子二人を引き連れて。
去り際に緑青が手を振ると、私もそれに振り返した。
雨は既に止んでいて、灰色の雲間からは紅い陽光が差し込み始めていた。
石竹家が去ったのを確認した後、父がやや離れた所から振り返ると私に質問する。
「今日、緑青君と遊んでいる時、ハニーは彼を殴ったりしたかい?」
私は怒気を含ませて父を睨みつける。
「す、すまない……確認だよ、確認。気にしないでくれ……」
その日、父はそれ以上緑青の事は聞かなかった。けど、きっと父はこの時、自分なりに何か策を講じようとしていたのだと思う。そして、私もまたある企みを抱いていた。
流石親子である。としか言いようが無い。
それにしても次の日曜日は緑青と初めて外食……凄く楽しみだ!
でも母も同席するので、きっとまたテーブルマナーをとやかく言われそうで嫌な予感もする。
そう言えばサリア義姉ちゃんも来るのかな?




