積木崩し
隠者(9)HP [ 4 / 150 ]
蜜蜂:月(18) HP [ 52 / 250 ]
MP[ 40/ 90 ]
太陽(19): HP [ 43 / 63 ]
審判(20): HP [ 44 / 79 ]
星(17):HP [ 50 / 70 ]
死(13):HP [ 2 / 110 ] 満身創痍
吊るされた男(12):HP [ 29 / 83 ] 負傷
恋人(6):HP [ 54 / 74 ] 負傷
女教皇(2):HP [ 50 / 69 ] 熟睡
硬貨の女王:HP [ 51 / 74 ]
棒の1(Ace):HP [ 80 / 300 ]
<雨の日の僕>
雨が降る日、母は決まって僕を外に連れ出した。
向かう先は近くの小さな公園だ。
鮮やかな紫陽花が囲う様に咲いていて綺麗だったのを覚えている。
そこで僕と蜂蜜は出会った。
それはまだ僕が幼馴染の彼女と出会う前の事だ。
母が僕を連れ出すのは僕に用があるからじゃない、他の誰かに会う為の口実だった。家を空ける正当な理由が欲しかっただけなんだ。
ある晴れの日。
いつもは家に居る筈の母は珍しく僕を置いて出掛けていた。
母が僕の相手をしてくれるのは気まぐれで、相手をしてくれたとしてもじっと近くに座って文庫本を片手に僕を眺めているだけだった。
無表情の母からは何の感情も読み取れないけど、僕はそれで満足していた気がする。ただ近くに居て本を読むだけだとしても、そのゆったりとした時間は僕にとって大切だった。他の家だと子供はもっと多くの愛情と言葉、触れ合いの中で育てられている。僕にはそれが無かった。
親に充分な愛情を受けず、過酷な環境の中で育った子供はどうなるか。
生きる為に冷静に状況を判断する思考が構築されていく。
それは子供らしからぬ人格を構築していく。
僕であり、若草青磁であり、虐待を経験した子供達、白き救世主然り。
母は僕に興味は無く、優しい父は僕との付き合い方が最後まで分からなかった人だった様にも思う。それに加え母は当時の僕の印象とは違い、思い返せばどこまでも不器用な人だった様に思う。無表情で見つめる憂いを帯びたあの眼差しの意味を僕は知らないままだった。その点で母もまた僕との接し方が最期まで分からなかった人間なのだ。子を産んだからと言って親になるわけでは無い。子を通じてまた親も親として変わっていく。それが出来ない人達だった。
子供の頃の僕は向けられるべき愛情というものがどんなものかも分からず、ただその状況を受け入れていた。諦めという言葉の下に。
雨の日に黄金の輝きを湛える彼女と出会い、八歳となったあの日の出来事、父が母を刺し殺した日、母が命がけで僕を守り、初めて僕に愛情を提示してくれた日。全ての歯車はそこから狂い始めていたのかも知れない。
いや、もっと前から?
僕がじっと何も言わずに我慢し続けていたのは僕なりに孤独な環境へと適応しようとした結果なのだと思う。感情も乏しく、友達も居ない。僕はつまらない子供だった。
雨の日は決まって僕を連れ出す癖に僕を言い訳にする必要が無いのか、家に僕一人を残してその日は何処かへ出掛けていた。静かな住居に外から聞こえてくる生活音が余計に寂しさを助長させる。僕は四六時中、人に飢えていた。それがどんな大人であっても。父や母は問題を抱えていたとしても僕が唯一関わりのある存在だった。普通の家庭に生まれたかった思いもある。一般的な両親の下に生まれ、普通に日々を暮らすだけで良かった。余計な幸福なんていらない。でも、僕等にはそれがとうとう出来なかった。
息を潜める様に僕はじっと耐えるんだ。
母が早く帰ってくる事を願いながら。
せめて、父が帰宅する前に。
子供が留守番をする我が家からは残念ながら生活音は聞こえて来ない。
掃除や洗濯、料理に関しても母は段々としなくなっていた。身なりは綺麗にしていて近隣の男性達からの評判は良かったらしいけど。
現在、僕の実家は誰も住んではいないが、父の兄にあたる叔父さんが今は管理していて、母が父に刺し殺された当時の状態を保ち続けている。既に解決している事件だから現場を保存しておく必要も無いのだけど。僕にとって心地良いものでも無いし。凄惨な事件があった実家。実家の近くには未だに寄り付けないけど、それでも家族と紛いなりにでも暮らした思い出は僅かに詰まっていた。
親同士の近所の付き合いはあったみたいで、僕が知らないところで佐藤家や田宮家とは関わりもあったらしい。
閑話休題。
幼い頃の僕はよく二階から外を眺めていた。
それの意図するものの殆どは母が留守の時に帰って来る事への警戒だった。
でも大体の場合、脆弱な存在である子供の祈りなんて無慈悲な世界には届かない。
一台の青いワゴンが家の前で停車する、父の車だ。
最悪だ。父が会社を抜け出して帰宅する理由は母の行動を監視する為だった。慌ただしく車を前から車庫に駐車させ、車と家の鍵を片手に持って降りてくる。仕事着であるスーツ姿で。
二階の窓から顔を出してその様子を見下ろしている僕には全く気付かない。
父の頭の中にあるのは母の所在を確かめる事だけだ。儚い美貌を湛えた母。父は母の浮気を案じ、僕は身体を震わせていた。それは恐怖からくる反射的な反応でどうしようも無い。なぜ今僕はこの時の事を思い返しているのだろうか。
その記憶は長らく僕の心の奥底にしまって思い出さない様にしていた気がする。もしかしたら僕と溶けて一つになったもう一人の僕が抱え込んでてくれていたのかも知れない。
放置と虐待に塗れた日々。
孤独と虚無。枯渇、渇望、悲しみ、そして殺意と憎しみ。
そういった感情に僕は蓋をする事で生きてきたんだ。
そしてきっと蓋をし、箱の底に閉じ込めて追いやれば追いやる程、蓋を開けた時の反動は大きくなる。
その日も僕は殴られたはず。出来る痣の数は父の気分次第。一方的に殴られる中、相手の気分を損なわせない殴られ方というのが上手くなっていった。
でも根本的に父は優しかったはずだ。いつからだろう、慣れない暴力を僕に向け始めたのは。帰宅し、玄関の扉を開けて家の中に入ってきた父が、乱暴に階段を踏み歩く音が下の階下から聞こえてきた。
それに合わせて僕の心音も少しずつ上がって苦しくなる。
二階の隣にある母の部屋の扉を開ける音がした後、父の大きな溜息が壁越しに聞こえる。次はきっとこの部屋に来る。身体に出来た青い痣の幾つかは完全に癒えてなくて触ると痛みを感じた。
そこは庇わないとなぁ。
僕の部屋の扉が乱暴に開かれる。白緑父さんが切羽詰まった顔で僕に縋る様に母の所在を尋ねる。
「ママは……どこだい?」
僕はどうせ信じて貰えない事を理解しながらも正直に母から告げられた行き先を答える。
「スーパーで夕飯のおかずを買いに出掛けたよ、パパ」
母が居ないという事実を告げられた父の表情が曇り、窓から射す光の反対側に出来た影が一層濃くなった様に感じた。
「……またか……葵……君はどうして」
父がブツブツと独り言を呟きながら父もまた僕の存在を視界から消していた。僕は機嫌を損ねさせない様に母の代わりに弁明する。
「今日は家でハンバーグ作って言ってて、お肉とスパイスが足りないからって、あとポテトサラダも作るって」
父が手を掛けていた扉から離れるとゆっくりと扉が閉まって行く。閉じられて行く空間はまるで僕をそこへ閉じ込めている牢屋の様にも感じられた。
「どこだ……どこに行ったんだ?」
こうなってしまった父に僕の声は届かない。父は母を愛していた。母への思いが強過ぎるが故に嫉妬心で気持ちが歪み、信じられなくなってしまっている。僕がその寂しい背中を眺め白い扉が完全に僕と父とを切り離す。
「きっとまたあの男の所だ……そうに違いない……緑青も一緒になって私を騙してるんだ……くそ、どいつもこいつも」
父の思考回路は身勝手に構築されている。母が例え本当に買い物に出掛けていたのだとしてもその被害妄想からくる幻想に苛まれ、そしてその因果が子供である僕であるとした。
「そうだよ、緑青、緑青だ。この子が悪いんだ。緑青が良い子にしないから葵は疲れて家庭を疎かにする。悪くない。葵は悪くない。悪いのは緑青なんだよ」
結局、僕が悪者にされてしまう。僕は何もしていないはずなのに。
僕と父との空間を切り離していた白い扉が再び開かれ、父が僕の部屋に一歩を踏み入れた瞬間、僕は歯を食い縛る。
それは僕が頬を殴り飛ばされたのと同時だった。
身体の軽い僕は吹き飛び、床で積み木遊びをしていた場所に倒れ込み、積み上げた塔もガラガラと跡形も無く崩れた。木製のそれは硬いので痛い。床に散らばった積み木を手で退けながら右の拳を握る父の冷たい眼差しが僕を見下ろしている。
「緑青……また嘘をついたんだね。悪い子だ」
父が床に置かれた玩具を足で払い退けながら僕の目の前までやってくる。
「嘘はついてないよ……ママは本当に」
「それを緑青は証明出来るのかい?」
証明って何だろう?僕が首を傾げていると、父が僕の両腕を掴んで宙に持ち上げて僕の身体を揺さぶった。ガクガクと揺れる世界で僕は一方的に繰り出される大人の男性からの暴力に子供の身体で必死に耐えていた。服の下は変色した肌の部分が幾つも出来て、ゾンビみたいで気持ち悪かった。一人でお風呂に入る時にそれは醜く、お湯の熱さが染みてその痛みが広がるのが嫌だった。
父は多分、暴力とは無縁の場所で育ったんだと思う。加減の仕方も分からず、ただ怒りの矛先を僕へと向けていた。
その一方的な暴力が終わるのは父の怒りが収まり、殴り疲れるまでそれは続いた。拳が僕の身体を殴り付け、骨に当たる拳の鈍い音が部屋に響く。それはいつもの事だ。僕が我慢をすれば僕等家族の日常は終わらない。父と母は夫婦で居られ、その間に僕が子供として存在出来る。
父の息が上がり、そろそろ終わりの気配がして油断していた。
父の拳が僕の鼻頭を狙って打ち込まれる寸前、鼻血が床を汚すのを恐れ、顔を逸らしてその拳を避けてしまった。
空振りをしたその反動で父は勢い余って一人で床に転がってしまう。
余計な事をしてしまった。
殴られてた箇所を抑え、骨が折れていない事を確認しながら父の怒りに備える。
「緑青!お前も!お前も僕を笑うのかっ!!」
父の動作が妙にゆっくり感じてそれと同時に死が近付いた気がした。これはきっとダメなやつだ。僕は選択を間違えた。素直に鼻を殴られていれば死ぬ程のダメージを与えられずに済んだのに。
僕はその時、大した後悔も何も無かった。
僕には本当に悔やむ様な人生も何も無かったからだ。
ただ漠然と、終わりを感じて目を閉じた。
一層大きな鈍い音が部屋に響き、空気が震えた様な気がした。
「そんな……どうして……」
父の困惑した声に目を開けると、白いワンピース姿の母が僕を抱き締め、無表情に僕を見下ろしていた。
「ママ?」
「ただい……ま」
母の口の端から血が滲み、大きくその場で咳き込んだ。背中を強く殴られ、僕に伸ばした手をそのままに床に蹲る。母の身体の向こう側に困惑する父の顔が見え、僕の視線に怯えた様に一歩退いた。
今なら殺せる。
僕は本能的に悟り、咳き込み蹲る母の手をそっと僕から降ろすと近くに幾つも転がっている四角と三角の積み木を血が滲み出る程に強く握り締める。食い縛った口から血が滲む。殴られた部分の痛みはその時初めて沸き上がる感情に飲み込めれて完全に消えていた。
ママの口から流れた血が絨毯に紅い染みを作る。
それは憎しみを伴う殺意。
理性すらを掻き消してしまう程の怒りは自分の身を焦がす炎の様に燃え上がる錯覚が見えた様な気がした。
「すまない……葵、そんなつもりじゃ……緑青もごめんな、その買い物袋、本当にハンバーグの」
父の言葉が途中で途切れ、その顔が明後日の方向を向いている。
四角い方の積み木を持つ左手が父の頬を打ち抜いた。初めて息子に殴られる父の混乱は想像に容易い。
それは最初で最後の機会だった。
殺すなら今だ。
母を、僕は、守らないといけない。
その為にはパパが邪魔だ。
屈んでいた父の顔が此方に向けられると同時に僕は鋭く尖った三角の積木の頂点を父の頭上から振り下ろした。
頭を抑え、床でもがく足下の父を見下ろしながら僕は的確に人体の弱い部分に狙いを定めて木で出来た積木を振り下ろしていく。
頭を抑え、ガラ空きになった脇腹に三角の積木を捻じ込んでいく。
父がその痛みで僕の右手を払い退けると同時に構えていた左手を父の側頭部、目の横へと叩きつけると、父の情けない声が部屋に響いた。
僕はそれを何回も何回も繰り返し、終いには父はぐったりと抵抗する気力さえ無くて蹲っていた。
僕は手にしていた積木を捨てると、辺りを見渡し、引き出しに仕舞われていた文房具のハサミを思い出し、それを両手に握って父に突き刺す為に大きく手を上げた。
父はその間もずっと僕とママに謝り続けていた。
でももう遅い、ここで殺さなきゃ、父は母をいつか殺し、僕への暴力も一層激しさを増す。それだけは避けないといけなかった。
「緑青……パパを許してあげて?」
僕を背後から抱き締めた母の手がゆっくりと僕の手を掴む。その暖かさに強張っていた僕の手は解け、ハサミを離す。絨毯の上に落ちたハサミは何の害も無い様な軽い音がした。
全身に込めていた力が解け、僕は抱きしめてくれるママにその身を委ねる。
ママはその時、呆れた様に微笑みながら僕に囁いた。
「君も、私も……そしてパパも本当に不器用ね……皆んな、本当は愛したいだけなのに……」
ぐったりとする父の姿を見下ろしながら僕の目から涙が溢れてくる。
なんで僕等は普通の事が出来ないんだろう。その事がどこまでも情けなくて、それと同時に愛しささえ感じた。
殺意の怒りで狭まった視界が拡がり目の前のこうけいを正常に捉えだす。
僕は何をしていたんだ?
正気を取り戻した僕が捉えた光景は近くでナイフが刺さったお腹を抑えるハニーと血塗れでぐったりとして床に仰向けに倒れている鳩羽竜胆の姿だった。
僕はどうして?
仰向けに倒れた鳩羽が血を口から吐き出しながら悪態をつく。
「それでいいんですよ……それが、それが本来の貴方の姿なんですから……さぁ、殺すなら殺して下さい。貴方が浅緋をその手にかけたみたいに!」
その怒りの炎の端に大きな悲しみが見えた様な気がした。僕は何をしていたんだ?ハニーに刺さっているナイフは僕が携帯していたフォールディングナイフだ。
僕が刺したのか?
只でさえ白いハニーの顔が青ざめ、苦しそうに冷や汗を掻いている。
「ろっくん……私は大丈夫だから……それより、鳩羽君からすぐに離れ……」
何かが弾ける音と共に強烈な衝撃が背中に走り、僕は床に転がる。
何が起きて?
「石竹緑青……ついに本性を現したわね。ハニーも私の射線上から退きなさい!」
暗がりの室内にもう一つの黄金の輝きが煌めき、水色のスーツ姿の女性が拳銃を構えながらその姿を現した。ハニーが僕の前で両手を広げると刺された箇所から血が滴り、床の紅い染みが広がっていく。
「ダメ!ママ!彼を撃たないで!」
黄金の輝きを湛える女性が銃底でハニーの側頭部を軽く打ち付けると、床に引き倒し、背後に蠢く黒い三つの影がハニーに素早く襲いかかる。
「すぐに応急処置を!大丈夫よ!サリアには及ばないだろうけど、その程度で私の娘は死なないわ」
その三つの黒い影は全身を黒いプロテクターで覆ったSASと書かれた衣服を羽織る特殊部隊の人間だった。
防弾ベストのお陰で衝撃はあったものの、血は出ていない。この距離で撃たれたのなら、只ではすまないはずなのだけど……。
問答無用にその二発目が放たれ、僕の脚を撃ち抜く。
応急処置をされているハニーが叫ぶ。
「安心しなさい、沈静用ゴム弾を使用しているわ。貴女の前で殺す様な真似はしない……貴女の前ではね?」
そう怪しく微笑む金髪の女性はハニーの義姉、サリアさんを強く想起させられた。
「ハニーのお母さん?ですか?」
「直接会うのは久し振りね……石竹緑青君。最後に会ったのは浅緋ちゃんが貴女に殺される少し前だったかしら?」
拳銃片手に特殊部隊を従え、乗り込んで来たのはハニーの母親、英国、国防省長官を務めるゾフィー=レヴィアンその人だった。ゴム弾でも凄い痛い。これ、折れて無いよね?
いや、それより、一体僕は何をしたんだ?
刺したのは本当に僕なのだろうか。




