原∞罪
誰かが床板を踏み歩く音で僕は目を覚ます。背の高い眼鏡の男が揺れる電球の光を浴びて大きなシルエットを山小屋の壁に映していた。
……僕はどうなった?
ここはどこだろうか。後頭部に痛みが走り、僕の頭が熱く脈を打つ。あの大男に殴られて気を失わされたのだろう。少し距離を置き、こちらの様子伺う男の顔はハッキリと分からないけど、僕を殴った男とは別人だ。僕を殺せたはずなのに殺さなかった。深緋の代わりとも言っていた。
何が目的だろう。
これは恐らく誘拐の類だと思う。僕を捜索に来たハニーちゃんとおじさんは無事だろうか?
鎖が地を這い、金属が擦れる音で僕の隣に誰かが居ることに気付く。電球の光が届かない影になっている部分が蠢き、見知った顔が照明を浴びて浮かび上がる。
「緑青君……」
彼女は僕と同じ屋根の下で暮らしている姉妹の一人、浅緋だ。誘拐される前、商品として扱われていた。つまり彼女と僕は目の前の男に売られた事になる。僕は彼女の怪我の具合が気になって近付こうとると、左手に違和感を感じて目の前に掲げると、手枷がはめられ、それに長い鎖が繋がっていた。右手が自由な事に逆に違和感を抱く。拘束するなら普通両手だ。手元の鎖を辿っていくと、部屋の奥の柱に向かって繋ぎとめられていた。
片手を支柱に繋がれている。
この長さだと僅かに僕等を眺める男には届かない。用意周到に計算されている。
監禁された割には拘束度合いが甘い様にも思える。このタイプの手錠だと工具があれば簡単に破壊出来るけど、そんなものは近くに無いか。
浅緋ちゃんが僕に寄りかかるように横に座る。その顔にはまるで血が通っていないように青ざめて見えた。
「緑青君は……怖くないの?」
僕は首を傾げる。
「怖いというか、うまく状況を飲み込めない。ハニーちゃんと森で遊んでいたら、君と遭遇して、猟師と戦い、ピエロに襲われ、気を失って……ここに監禁されていた。君と。そして知らない男が少し離れた所からこちらを見ている。なんの冗談なんだろって」
浅緋ちゃんが急に泣き出して僕に抱きつく。
「ごめんね、ごめんね!多分、私の所為で緑青君が!」
急に泣き出した浅緋ちゃんは、恐怖というよりも罪悪感からこみ上げてくる涙のように見えた。
「あの男が悪い奴で、僕らは捕まった?」
それに頷く浅緋ちゃん。それより浅緋ちゃんは何であの場所にいたんだろ?キャンプ場で別れておじさんと共に下山したはずだ。
「浅緋ちゃん、なんで森に?」
「それは……」
その答えを聞き終わる前に、少し離れた所に座る男が声をあげた。
「やぁ、おめでとう。君達は選ばれ……」
僕の荷物は没収され、脇に差してたナイフ二本も奪われていた。拳銃は弾切れだったから別にいいけど。でも、まだ僕が仕込んでいた隠しナイフには気付かれてはいなかった。素早くブーツから小型ナイフを引き抜くと男の顔めがけて投擲する。銀色のナイフが男の頬に突き刺さり、呻き声をあげ、苦しむ。外した。口を狙ったのに。頬に刺さったナイフを引き抜き、此方に悪態をつく眼鏡の男。
「君!話はまだ途中だよ!最後まで人の話を……って、また痛いっ」
間髪入れずに的がでかい男の腹に向けて2投目を放つ。命中した小型ナイフが男の腹に突き刺さり、男が床に崩れる。男が必死にそれを抜こうとするが、深く刺さってしまったようで途中でそれを諦めた様だ。致命傷には至らない場所なので命を奪うには至らない。
「緑青君?」
呆けた様な顔になり、僕のことをみている浅緋ちゃん。
「何?」
「どこからナイフを出したの?」
「ブーツ」
「なんでそんなものが?」
「もしもの時の隠しナイフ。え?皆持ってないの?」
首を横に振る浅緋ちゃん。
「ハニーちゃんなら、12本ぐらい隠し持ってるけど。僕の武装は解除されてブーツに二本だけしか残って居なかった。今が使う時かなって」
「そ、そうかもだけど……えっと」
男が怒ったようにこちらに近づいてくる。僕は浅緋ちゃんの方に向いたまま、床にわざとらしく置かれていた少し長めのナイフを拾い上げ、男に向かって振り抜いた。
遅い。
こいつ、素人だ。
男が驚いた様に体を引くが、逃げ遅れた腕に一閃、赤い線が引かれる。
「なんなんだこの子は!だから僕は反対だったんだよ!男の子をゲームに参加させるなんて!それに……」
小屋の壁を強く叩く音が室内に響く。外から誰かが様子を伺っているのか?
男がそれに反応するように体を強ばらせる。助けが来た可能性も潰されてはいないけど、ノックの音が聞こえてきただけで誰も現れないし、何も起きなかった。よそ見していた僕の隙をついて男が僕の側頭部へ、全力で拳を叩き込む。衝撃で頭が揺れ、意識が飛びそうになったけど、何とか踏ん張って意識を保たせる。大丈夫だ。あのピエロの男よりは弱い。それでも男に殴られた衝撃で手にしていたナイフを落としてしまう。警戒した男にナイフはそのまま回収されてしまった。これで武器は無くなった。素手で殺すには距離が足りない。鎖が邪魔だ。左手を砕けば抜けそうだけど、武器も無い子供が、片手で大人を殺すのは難しい。
「仕切り直しだよ、ゲームをしようか」
ゲーム?この男の目的は身代金や僕等の身体が目的では無いのか?佐藤一家は町で喫茶店を開いてはいるが、大凡資産家では無い。資産なら石竹家の血縁、もしくはハニーの方が人質としての価値はぐっと高いはずだ。そして、あの白い法衣の少年とピエロの暗殺者、笛吹き男は言っていた。
深緋の代わりが僕だと。
コイツらは佐藤姉妹に何かをさせようとしていた?
「いいかい?僕が合図をしたら、ゲームの始ま……」
男の言葉を遮るように浅緋ちゃんが口を開く。
「緑青くん。私を殺して?」
僕は驚いて浅緋ちゃんの方を見る。なんでだ?
「この男は多分……あの少女誘拐事件の犯人」
僕は世間の出来事に疎い。あの事件と言われても分からないし、小学生はニュース番組なんか気にしていない。浅緋ちゃんが誘拐犯の男を睨みつける。誘拐したのはあの暗殺者だけど、それを依頼したのはこの男。いや、依頼内容を勝手に変えたのはあの白い少年だ。少年?少女?そいつが依頼して僕等を誘拐した?
強張った表情で犯人を睨みつける瞳は苛烈で、いつも優しく僕に微笑みかけてくれる彼女のそんな表情を見たのは初めてだった。
「この男の手口は小さい女の子を誘拐して殺し合わせるの。片方を殺し、そして片方を生かす」
なんでそんな事をするんだ?何の為だろう?理解が及ばない。男が怒りを露わにし、山小屋の床を何度も踏みつけ、地団駄を踏んでいる。子供の様な思考回路なのかも知れない。浅緋の方がずっと精神年齢は高そうだ。
「ねぇ!!僕にも話させてよ!なんなんだよ君たちは!怖く無いの?もっとさぁ!僕を怖がってよ!今までの子達が本当に優秀に思えるぐらいに君達は生贄として最悪だ!」
男が僕たちとの距離を一定に保ちつつ、奇声をあげて頭を掻きむしっている。僕はその言葉を無視してブーツを片方脱ぐと、思いっきり投げつけた。それに倣って浅緋ちゃんも小さな桃色の靴を投げつける。よく見ると、桃色だったワンピースが白いものに変わっている。それを本人に聞いて見ると、顔を赤くさせながら、目覚めたら着替えさせられていた事を教えてくれた。誰が着替えさせんだろう。僕は武装解除されただけなのに。
「痛いって!もうやめてよ!たんこぶ出来たじゃないか!」
相手のペースに飲まれるな。それは杉村おじさんの忠告だ。その場を支配するのが自分だと思わせればどんどんとエスカレートしていく。それを早い段階で摘んでおく。可能な限り相手のペースを乱して隙をついて浅緋ちゃんを逃がす機会を伺うけど、相手はこの状況を何回か繰り返している素振りだった。正攻法では恐らく逃げられない。突破口を何とかして見つけないと、このままじゃ殺されてしまう可能性が高い。いや、殺し合わされるのか?僕と浅緋が?
小屋の外への扉は僕らの背後にあるけど、錠が掛かっていて開けられない。壊すにしても道具が無い。
鎖が繋がれた二本の柱は部屋の中央に並び、僕らの近くにある。誘拐犯はこの部屋の奥、僕等から距離を置いた場所に椅子を設けて、そこに腰かけている。左手首に装着された鉄の輪には南京錠がかけられて外すことは出来ない。鍵は恐らくあいつが手にしている。
浅緋ちゃんの話によるとゲームが開始されると僕らは殺し合って生き残った方が助けられるようだ。友達を殺して生き残るなんて趣味が悪い。僕は左手に巻かれた鎖を自分の首に巻き付ける。
「「え?」」
犯人と浅緋の声が重なる。僕が構わずに鎖に力を込めていると、自分の首の骨が軋み、体が酸素を求めて苦しみ出す。犯人の男は僕の両腕を掴み、僕の首から必死に鎖を外そうとしてくる。これが殺し合いなら僕は自分を殺す。そうすれば浅緋は助かるんじゃ?何が悪いのだろうか。
「まだ僕は何も合図してないのに勝手に始めないでよ!人の話をまず聞いて欲しい。それに君は……」
犯人の背中から鈍い音が聞こえて、息苦しそうに床を転げる。浅緋ちゃんが右手に装着された枷ごと腕を振り降ろして、誘拐犯の男の背中に叩きつけたらしい。肺の裏に命中したその一撃で咳き込みながた床を転がる犯人。
慌てて僕に駆け寄ると、僕に抱きつく様に首に巻かれた鎖を解いていく。
「……君が、死ぬ必要なんて無い……私がっ」
男が息を荒くしながらその拳を浅緋ちゃんに振り抜いた。衝撃で吹き飛ばされた浅緋ちゃんが鎖と共に鈍い音を立てて倒れる。
お前は……僕を怒らせた。
「話を聞いてよっ!ゲームはルールに乗っ取って行わなければ儀式にならないんだ。でないと僕の魂は汚いままで……この森の平和は保てないっ!?」
浅緋ちゃんに気をとられている犯人に、もう一本隠していたのを思い出した靴底の仕込み刃を展開させ、それを犯人の太腿に向かって突き立てる。回し蹴りの要領で。鋭い刃が突き刺さり、膝を着く犯人。
「だからぁー!」
男が怒りに身を任せ、僕の脚を払いのけると、宙に浮いていた僕の身体を掴んで近くの柱に叩きつける。歯を食いしばり、遠のきそうになる意識を手繰り寄せる。更に迫る男の脚を掬い上げると、軸足の方が怪我の痛みで体勢を崩し、背中から大きく転倒する。僕は左足のブーツの底で、最初に投げて、腹に刺さったままのナイフの柄を踏みつけると、痛みのあまり犯人の男が気を失った様だった。
やっと、動きを……止められた。何とかして此処から出る方法を探さないとね。叩きつけられた衝撃でフラつきながらも犯人に近付いて、その衣服を調べる事にする。二人の腕の枷を外す鍵を探すが、それらしきものは無い。念の為に男のズボンを脱がそうとするのを浅緋に止められて諦める事にする。コイツ、鍵を持ってないな。この手錠を外すための鍵がどこかにあるはずだ。どちらかが生き残るという事はどちらかを助けなければいけないと言うこと。生き残った方の施錠を外すために鍵を持っているのは間違いないはずだ。辺りを見渡すが、この部屋のには何も置いていない。この部屋に鍵は無いのかも知れない。別の部屋だろうか。それとも最初からどちらとも殺す気だったのか?
僕は鎖が許す限りの範囲で部屋の中をくまなく探そうとするが、物が何も周りに置かれて無いのでそもそも探す必要が無いし、僕等の手が届く範囲に鍵がある事自体がありえないだろう。しぶとく部屋の中を這いずり回ってくまなく山小屋の中を確認するけど、無い、やはりどこにも鍵は無い。
入口の扉から見て小屋の奥には他の部屋に続く扉が二つ設けられている。誘拐犯が取り乱した際、小屋の壁が何者かによって叩かれた……その時の床が軋む音を思い出す。この壁の向こう側は……別の部屋か?もしかしたらあの白い少年が別の部屋から此方を観察しているのかも知れない。ひょっとして鍵も。じっと息を殺し、耳を澄ます。
小屋に響く微かな息づかい。
一つは浅緋ちゃん、一つは犯人。
全ての五感を使い、感覚を研ぎ澄ます。
このやり方はハニーちゃんが森を駆ける時、複数の野犬と対峙した時に使う探知方法だ。これ、疲れるからあまりしたくは無いけど。思考を捨て、感覚を、本能を研ぎ澄ます。
小屋の床板を踏む微かな音が近くの壁の向こう側から聞こえてくる。僅かな呼吸音もある。見張りがいるとして、部屋の中を覗いているのだとしたら、この静けさは逆に想定外か。僕は人の気配がした近くの壁をブーツを履いている左足で蹴り上げる。
壁を蹴り上げた大きな音と共に、小屋全体が振動し、驚いた様な子供の声が聞こえてきた。子供の声だ。僕はその子供に呼びかける。
「いるんだろ?そこに!!さっきの白い子なんだろ?お願いだからさ、大人の人に連絡して助けを呼んでくれ!それとも、お前もグルなのか?」
しばらくの沈黙の後、壁越しの返事が聞こえる。
「……君が死ぬといい……」
僕は知らないけど、向こうは僕の事を誰か分かっているのか?殺気を感じて振り向くと大振りのナイフを手にした誘拐犯がこちらに向かって来た。遅い。今は集中モード。その挙動は手を取る様に分かる。そのナイフの到達地点を予測して寸前で避け、脚がもつれる様に床を這う鎖を持ち上げるとそれにつまずいて男がまた床に伏す。
浅緋ちゃんの無事を確かめる為に駆け寄ると、殴られた頬が青くなっている以外はどこにも怪我は無いようで安心した。男に殺意は無いのか?他に怪我がない事を確認すると、浅緋が僕の目を真っ直ぐ覗き込む。意を決した様に。
「うん。それより……聞いてほしいの。あのね」
浅緋がこの状況と不釣り合いなぐらい顔を赤くして俯く。そして意を決した様に顔を上げると僕の唇に自分の唇を重ねた?
今のは……キス?
ハニーちゃんが帰り際にいつも頬にしてくれるやつだ。口は無かったけど。浅緋ちゃんが恥ずかしそうに手をもじもじさせながら再び俯く。
「ハニーちゃんには内緒ね」
これは……この気持ちはなんだろ?ハニーにお別れのキスをされている時の感覚に似てるけど、それよりももっと柔らかくて優しくて大きな感情が流れてくるようだった。浅緋の触れた唇から何か暖かいものが拡がって僕の中に、身体の芯に染み渡っていく。それはすごく懐かしい感じがした。動けなくなる僕。浅緋が僕に与えたのは愛情?
この懐かしい感じは……僕が愛された記憶。
母が父に殺されてから死んだ僕の心。砕け散ってバラバラになって失った愛を受け止める心。
「緑青君、大好きだったよ。ごめんね、忘れて?私のことは全部忘れていいから、貴方は……生きて?」
浅緋ちゃんが僕を見つめる。
頬は青く、口の端からは血が滲み出ている。反射的にその血を僕は服の袖で拭ってやると、その頬が更に赤くなって、もう一回口にキスをされる。それは血の味がするキス、さっきよりも長いそれは悲しみに満ちていた。
父が母を殺し、独り身になった僕を引き取り、佐藤一家は分け隔て無く接してくれた。姉の深緋とはまだ仲良く無いけど、浅緋ちゃんはずっと僕の事をその優しさで包んでくれていた。
「緑青君……もう自分を許してあげて?貴方の所為じゃない……君のお母さんが死んだのも……私が死ぬ事も」
僕の死んでいた心がその口付けと共に熱を帯び、再び息を吹き返していく。闇に包まれた僕の部分を浅緋の淡く優しい温もりの光が照らし、包み込んでくれる。
叫び声に近い悲鳴が重なって聞こえてきた。外にいる少年と誘拐犯の男の叫びだ。怒りと悲しみが混じるそれが僕に向けられている。浅緋が僕の体を突き放して言葉を放つ。
「だから、私を殺して?」
男が長めのナイフを手にしてこちらに歩いてくる。血走った目は獣のようで包丁を手にしていた父の姿と被って動けなくなる。あの時、僕は死ぬはずだった。死ぬ運命にあった。それに抗い、運命を変えたのは……僕の母、石竹葵だ……母さん……ごめん。
「これは報いだよ」
男が一閃、ナイフを僕の左目めがけてそれを振り抜く。温い風を纏ったその一撃で僕の額は熱を帯びて血をまき散らす。反射的に晒した身体のお陰で目は潰され無かった。
目は無事だったけど大量に流れる血が視界を邪魔して右目しか使えなくなった。視界が狭い。思考が遅い。僕はどうしてしまったんだろ?
浅緋の悲鳴に混じって男の声が静かに響く。
「本当は僕をここまで馬鹿にした君を殺したいけど、これはゲームなんだ。どちらかが生き残る為のね。彼女を殺さないと君はこのまま出血多量で死んじゃうよ。勝てば治療はしてあげるから」
血は沢山流れているけど死にはしない。けど、僕の意識は二年前の父と母の惨劇の日に巻き戻された感覚に陥って身体が動かない。
「私を殺して!緑青君!私はこの生贄ゲームではどうせ生き残れないの!生贄に必要なのは”女の子の血”だから!」
男がわざと僕ら二人から距離を置く。
なんだよそれ。そんなのゲームでもなんでもない。最初から浅緋が死ぬ事が決まっているなんて!
僕が死んでも彼女は助からない。そんな……嫌だ……失いたくない、もう、二度と僕の目の前で大切な人を……僕は左目から血の涙を。右目からは透明な涙を流す。
浅緋ちゃんが僕の額の傷を手で押さえて止血しながら語りかけてくる。
「この事件の最初の生き残り。その女の子がどうなったか知ってる?」
僕は首を小さく振ると、赤い滴が音も立てずに床に滴っていく。
「彼女は1人で下山すると、麓で出会った人々を手にしていたナイフで次々と刺していった。彼女はこのゲームの影響で心が壊れてしまったの」
僕は元々壊れているのだけど。
それでもまだ壊れてしまうのだろうか。生き残る。それは恐らく僕だ。その先、僕はどうして生きていけばいい?どんな顔をして深緋の前に立てばいいのかも分からない。
浅緋はどちらにしろこの男に殺される運命にある。何も出来ないのか?
「その彼女が刺し殺していった人の中に、私の知合いが居た。そして学校で私に親切にしてくれた上級生の女の子も森で行方不明になって……帰って来なくて……日嗣尊さんという女の子に手紙を出したのだけど……結局、届かなかったみたい……私は知り過ぎた。だから殺される……いえ、君に殺すつもりは無かったのかも知れない。君が本当は殺したかったのは緑青君よね?」
君とは誰?僕の事?事件を経て被害者が殺人事件を起こし、憎しみの連鎖は広がっていく。そんな皮肉があっていいのだろうか。しとしと僕の額から血は流れ続け、意識を保っているのが困難になってきた。混濁する意識の中、浅緋の止血する手の温もりだけが辛うじて意識を現実に繋ぎとめてくれていた。
「私は通り魔事件を起こして、私の知合いを殺した女の子の事を恨んだ。けど、違ったの。調べていくうちに彼女も事件の被害者だったことが分かったの。だから、私は!」
浅緋ちゃんが憎しみを込めて近くに椅子に腰をかける男を睨みつける。
「私もこの事件について調べてた。けど彼等に勘付かれて、そのせいで私がターゲットになっちゃったの……日嗣尊さんの推理が正しければ、次に狙われるのは双子では無い姉妹……お姉ちゃんは巻き込まない、殺させない、お姉ちゃんならきっと私を助ける為に命を投げ出す……させない!そんな事!緑青君と同じぐらい愛してるお姉ちゃんを殺させない!こいつらに!」
これは仕組まれていた?ダメだ、頭が働かない。ボヤけていく視界を頭を振る事で正そうとすると血の滴が散らばり、浅緋ちゃんの白いワンピースに赤い染み広がる。その手は僕の血で既に真っ赤だった。
「気付いた時には遅かった。だから、私はこんな事でしか抵抗出来なかった。ごめんね緑青君……君を巻き込んで……君に対する彼の憎悪を私は利用した……これは私の罪」
男は首を傾げている。浅緋ちゃんが何を考えているのか本当に分からないようだった。
外から先ほどの少年の声が聞こえる。
何かを叫ぶそれは悲痛な慟哭。僕に死ねと吐き捨てたその同じ口で浅緋ちゃんの名前を叫んでいる。
「これは多分、もう1人の君の誤算。君は私を本当は生かしたかったんだよね?そして緑青君なら抵抗するだろうし、この犯人に返り討ちにされて死んでしまうだろうと……でも、貴方が思う以上にこの男の盲信は高かった」
浅緋ちゃんがこちらに向き直る。
「緑青君を利用してごめんね?本当ならその場所には私のお姉ちゃんがそこに居るはずだったのに。過去の3件から犯人が得た教訓。姉妹同士で連れて来られた場合、姉の方が自ら犠牲になる可能性が高い。そう彼は考えた……」
深緋は浅緋を助ける為に自分を犠牲にする可能性が高い。殺し合いなんか出来ない。僕も死のうとした。
「私がこの事件に首を突っ込み過ぎたせいでもう1人の犯人に目をつけられた。私のせいでお姉ちゃんが犠牲になることだけは避けたかったの」
だから僕に近づいて、事件現場から近い森にやってきた?自分が殺される道を選んだ?犯人の男が口を開く。僕に刺された腹部に応急処置を施しながら。どこから持ってきた?隣の部屋?
「……その通りだよ。それに僕は男の子の血はいらないし、必然的にその慈悲深い女の子を生贄に捧げるしか選択肢は無いんだ。聡明な女の子なのにね……僕は嫌いだけど」
先ほどの言葉をもう一度繰り返す浅緋ちゃん。
「だから私を殺して」
出来ない。絶対にそんなこと。けど何もしなくても浅緋ちゃんはナイフで刺されて殺されてしまう。
「お願い!死ぬなら……愛する人の手で死にたい」
愛という言葉に僕の心が反応する。君のおかげで愛って何かを思い出す事ができた。
だから……僕は……?
父が母を刺したのは、他の男の人の下に母を行かせたくなくて、どうしようもなくなって刺したんだと思う。
刺される。刺す事は愛情。憎しみはその裏返し。僕の事も父は刺そうとしていた。家族三人がバラバラになる事を知っていたから。生きる地獄よりも、死んで得られる安息を僕に与えようとした。それも愛。それを必死に止めようとした母の行為も愛情。
そして、ずっと僕の傍で見守り続けてくれた最初の友達の事を思い出す。
ハニー=レヴィアン。
僕にずっと愛情を注ぎ続けてくれていた存在。僕は今の今までそれに気付くことが出来なかった。
車内で繋ぐ彼女の少しひんやりとした白い指先の感覚を思い出す。外の景色を眺める彼女の顔は僕を遠くから見つめる母の顔を思い出させた。母は不器用だった。僕の事を嫌いでは無かったのだ。どう愛すればいいか分からなかっただけだ。
僕と同じだったんだ。
母は父を愛せなかったのかも知れない。その相手との間に生まれた子供である僕。
僕は幼馴染の女の子に伝えないといけない事がある。
僕は意識が朦朧とする中、浅緋の細い首に回した指に力を加えていく。
せめて僕が彼女を殺すまで意識を保たないと。これは愛情。そして僕は会いたいんだ。黄金の光を放つ人形みたいな女の子に。
母が父に殺されたあの雨の日、血だらけの僕を抱き締めて泣いてくれた女の子、僕を守ると言ってくれた僕の大好きな女の子に僕はもう一度会いたい。そう強く願っていた。それが叶うなら僕は何でも捨ててやる。大事な友達や自分自身でさえも。
苦しむ彼女が口を開く。
「お姉ちゃんに伝えて……?誰も恨んじゃいけない。犯人も緑青君も。憎しみなんかに負けずに、まっすぐ進んで!そして君は、君を待つ、あの女の子の下に……。ごめんね、君の帰る場所はそこにあったのに……最後に君に……会いたかった」
浅緋ちゃんの目が充血し、青ざめた顔色が色を変えて真っ赤に染まっていく。苦しみの中でも浅緋ちゃんはその微笑みを崩す事は無かった。僕の体に手を回して抱きしめてくれる。その気持ちが心に流れ込んでくる。
誰も恨んじゃいけない。
だから私の事は忘れて?
あなたが私を殺した事も。
私も全部。
あの深淵の女の子と同じ道は辿らないで?
蜂蜜の様な淡い黄金の髪と、僕の名前と同じ色をした緑青色の瞳。僕にとって太陽の様な彼女が僕を待っている。
僕は帰るよ、生きて彼女の下に。
その言葉が聞こえたのか、浅緋ちゃんは僕の目を見ると笑顔になって身体が崩れていく。首だけが僕に固定されたまま。
僕は叫んだ。
有らん限りの声で。
彼女の身体を抱き締めながら。自分の声で鼓膜が震え、熱を帯びる。彼女の最後の願いを思い出す。
私の事は忘れて?腕の中の息を引き取った彼女を見下ろす。
誰も恨まず、真っ直ぐ生きて?
僕は彼女を離すとその首を絞めた自分の両手を見つめる。
ごめん。許せそうに無い。犯人の事も、自分の事も。
この手は人を殺めた手だ。
僕には誰も恨まずに生きていくことなんて出来ない。なら、せめて、彼女の望み通り、君が取り戻してくれた愛情の中に、君が生きた記憶と共に葬ろう。
永久に。
それが僕に出来る唯一の手向けだ。膝をつき、僕は力なくその場に倒れ込んだ。
機能を取り戻した心に、僕は自ら蓋をした。
でも今度は真っ暗じゃない。
彼女が与えてくれた光を僕が守る為に。
彼女に寄り添う様に。
僕の愛は君と共に。
僕には愛する資格と愛される資格も無い。
殺人者だ。
ハニーちゃん。
こんな壊れた僕をどう思うだろう。
愛想を尽かされて何処かに行ってしまうかも知れない。
小屋の扉がぶち破られる音が響く。床に倒れ、伏せられた自分の顔を少し傾けると、目を動かしてそれを確認する。
夕陽を背に受け、黄金の光をまとった僕の幼馴染がこちらを見つめていた。胸の心の奥を封したばかりの感情が震えて反応した様な気がした。
でもその呼応はすぐに止み、それっきり動かなくなった。
僕はもう誰も愛さない。
失いたくないから。
僕の彼女への気持ちは、僕を愛してくれたもう一人の少女と共に……永久に。
彼女が山小屋を出て行く気配がし、その後を犯人の追いかけていく。
大丈夫、手負いの豚なんかに君を殺す事なんて出来ない。
君は僕に構わず走れ、走って僕から離れて、君は君の道を駆けていけ。
君なら誰よりも速く強く気高く羽ばたけるから。
僕はここで彼女の変わり果てた亡骸と共に。
僕はこの場所で君と死ぬ事にする。
後は頼んだよ……もう一人の僕。
僕が次に目覚めた時、そこに僕はもう居ない。彼女の記憶の欠片一つ残さずに。
……あれからどれぐらいの時が経ったのだろうか。この同じ日を永遠と繰り返す牢獄を開こうとする人間が僕の前に立っている。
あぁ、君は僕か。
何が欲しいんだ?此処には悍ましい狂気と共に消えそうなちっぽけな君の愛が燻ってるだけだ。
それすらも僕から奪おうと言うのか?
白き法衣の少年よ。
僕等は喪失者。
これは貸しだぞ?
石竹緑青。
僕は目の前に現れた小さなナイフと殺意を僕に向ける少年を殺す為、息を潜めて待ち構えていた。燃え尽きようとする炎の残り火が最後の輝きを放つ様に。
人には生まれながらにして背負う罪があるとハニーちゃんは言っていた。最初の人間が神に背いて生まれた罪の炎。
洗礼と聖霊による新生にのみその罪から切り離されると言っていたけど、この罪は僕が選んで犯した罪だ。僕は人殺し。
その罪は切り離させない。
浅緋が生きたその証は僕の罪と共に永遠に。僕は愛と共に封じた憎しみを燃やし、立ち上がった。
最後の足掻きをする為に。
お前なんかに殺させない。僕の命は彼女の生きた記憶と共にある。
安くは無いんだよ、お生憎。
その手を払い、ナイフを弾き飛ばすとその体に右足を減り込ませて気を失わさせる。
鍵を……奪い、枷を外す……。 額から血は流れ続けている。行かなきゃ……。
山小屋に射し込む西日に包まれながら僕は小屋の外へと脚を一歩踏み出した。
還る為に、君の元へ。
そして夕日影の中に僕を見ている存在が在る。
誰だお前は?
あぁ……僕か。
僕の半身、等しき喪失者よ。




