再 会
良かったね二人とも。君と彼女の物語はやっとここから始まるんだよ。
「東雲」が去った後、教室に悲鳴が響き渡った。
慌てて2年A組の教室に戻ると、そこにはトンファーを構えた杉村蜂蜜の姿があり、床には細馬先輩の体が横たわっていた。
「何があった鳩羽!」
「細馬偽会長が彼女に近付いて、気付いたらこうなってました!」
おかしい。先程、鳩羽が背中にぶつかった時はこうはならなかった。いや違う!
彼女は鳩羽にナイフを突き立てようとした。なぜそうならなかったのか。それは僕が……。先程の東雲との会話を思い出し、そして僕はある結論に達する。なんで気付かなかったんだろ。こんな単純な事に。
数歩ずつ、慎重に彼女に近づく。
鳩羽に対して警戒態勢をとっている杉村蜂蜜。先程まで賑やかだった教室が一変し、生徒は息を潜める。僕の接近に気付いた杉村はこちらへ向き直る。背後に居る鳩羽への警戒態勢は解けていない。
「石竹くん!やめなさい!」
田宮が悲鳴に近い声で静止する。それを振りきる。杉村蜂蜜が俯き気味に僕に返答を迫る。
「所属と氏名を答えて……」
僕の額に嫌な汗が滲み出る。その質問には答えずに、更に数歩杉村に近付く。いつの間にか杉村の構えていたトンファーは力無く垂れ下っていた。彼女への距離があと2、3歩という所まで近付いた時、再びあの質問が繰り返される。
「所属と氏名を答え……て……」
更にあと一歩僕は近付く。完全に彼女のパーソナルスペースを侵害している距離に侵入する。パーソナル・スペースとは自分の持つ見えない縄張りの様なもので、そこに相手が侵入すると不快感を覚える。相手との不快になる距離感はその親密さにより変化し、一般的に「密接距離:0~45㎝」は恋人、家族との距離,「個人距離:45~120㎝」友人や知人の距離,「社会距離:120~360cm」仕事相手,「公衆距離:360cm~」みず知らずの人との距離として分類されている。
彼女は他者を拒絶していた。
けれども、それは全員じゃない。
佐藤からは悲痛な叫び声が聞こえてくる。後ろからは「やめなさい!石竹君!」と田宮に背中を引っ張られる。その手を振りほどき、僕は歩みを止めなかった。
パーソナル・スペースの密接距離とされている空間に僕は侵入する。彼女の息遣いがはっきりと解る。恐らく、彼女から警告が発せられるのは「社会距離」とされている空間を侵害してしまっている場合だ。しかし、僕はその距離はとっくに飛び越えている。
「所属と……」
ランカスター先生の“あなたは彼女にとって特別なの”という言葉を思い出す。そして、彼女が転校してきてからの2ヵ月あまりを振り返りながら僕はひとつの答えを導き出す。
彼女のか細い両肩に僕は両手を置く。
その瞬間、周りから小さい悲鳴が聞こえてくる。何人もの男子生徒がこの距離に近付く前に保健室送りにさせられてきたのだ。そして、杉村の体に触れた「体育教員の前田」は病院送りにされている。僕も一度は保健室……では無く、カウンセリング室に送られている。俯いた彼女は無言だった。俯き気味の彼女の頬には、黄金の睫毛がその影を落としている。
陶器のように白いその肌や蜂蜜の様な優しい輝きを放つその髪は当時と変わり無い。脳裏に彼女との思い出が写し出される。彼女と初めて出会った紫陽花が咲くあの公園。
いつまでも降り止まない雨。
黄色いレインコートに青い傘。
彼女の俯いていた顔がこちらの瞳を覗きこむ。その頬は微かに桃色に染まっている。その澄んだ瞳の色は僕の名前と同じ緑青色。
小さい頃、友達になった僕達は彼女のお父さんと一緒によく森で遊んだ。僕等が小学生に上がると彼女に付きそう形で一緒に戦争ごっこを楽しんだ。恐らく彼女も同じことを思い出しているのだろう。
彼女の他の生徒にまず始めにする質問は、最初から僕へと宛てられたメッセージだったのだ。
彼女の精神がひどく混乱し、解離性障害を引き起こし、それでも尚、深い意識の奥底で僕の事を強く思っていてくれていたのだ。
僕は彼女の両肩から手を離すと、一転し背筋を正して彼女に敬礼する。僕が所属していた彼女の部隊名と自らのコードネームを叫ぶ。
「所属部隊HoneyBee(蜜蜂)所属、
コードネームSpirogyraであります!」
その場に居る全員が不思議なものを見るような目で此方を見ている。それはそうだろう、当事者以外解らないのだから。担当医のランカスター先生でもだ。2人だけに解る思い出が僕等にはあった。彼女は一瞬驚いたような表情をした後、肩を震わせてその透き通るような緑青色の瞳から大粒の涙をポロポロと流し始める。それでも僕の事を真っ直ぐ見つめたままの杉村蜂蜜。そのひとつひとつの涙が宝石のような輝きを放つ。そして静かに言葉を彼女は放つ。
「用件を話して……」
少し微笑みながら僕は答える。
「Honet部隊長!
いや……僕の幼馴染、最初の友達、
ハニー=レヴィアン!再会出来た事を光栄に思います!」
彼女は一度下を向くと何かを囁く。
「ダメ、ダメだよ、ろっくん。これ以上私に近付いたら……ダメだよ。けど……だけど……会いたかった、ずっと会いたかった!」
その言葉と供に彼女が僕に抱きつく。
それを静かに受け止める僕。
目を擦りながら、僕の方に顔を近付けるハニー=レヴィアン。
「私の事、覚えてくれててありがとう」
「忘れる訳無いよ。僕の最初の友達なんだから」
2人は泣きながら声を上げて笑いあった。
何時の間にか教室中は拍手の海に包まれていた。よくわからないけど、2人ともよかったな!と祝福してくれている。
杉村の肩越しに見える鳩羽や杉村同好会の面々は悲痛な叫びを上げていた。僕らはこの日、本当の意味で再会した。
彼女からは7年前と変わらない蜂蜜の様な甘い香りが漂っていた。
僕の推測はこうだ。彼女のパーソナル・スペースに僕(石竹緑青)が居る時にだけ、彼女は他の攻撃対象すらも無視して警戒態勢を解く。つまり、攻撃的な人格が対応している場合でも、僕が彼女に近付き、それを彼女が認識さえしていれば本来の彼女の人格に戻るのだ。数回に渡る接触により、それらは証明されている。これで、なにかが変わればいい。僕はそう強く願った。抱き合う僕等。ふと僕が疑問を口にする。
「いや、まだ解決した訳じゃないぞ?それって……僕が一生彼女の傍に居なければいけないって事になるんじゃ?」
きょとんとした顔でこちらを見上げている杉村蜂蜜。その美貌はこの距離でもいかんなく発揮されて眩暈がしそうになる。僕はついついそれもいいかと思ってしまう。だめだめ。
「どうしたの?アオミドロ?」
「ううん、何でも無い……って!そっちの名前でこれから呼ばれるの?」
「嫌?」
「“ろっくん”の方でお願いします」
彼女は微笑みながら用件を了承した。
「あ、そう言えば、7年前、なんで僕の前から急に姿を消したんだ?僕に友達が少ない事ぐらい知ってただろ?挨拶くらいしてくれても……」
一瞬、何かに怯え、困惑した顔を見せる彼女。
「……ごめんね。私も本当はすぐにでも安否を確認したかったのだけど……」
「安否?」
「だって、ろっくんあんなに血を……流してたから、生死を確かめるのが怖くて……怖くて……。もし、ろっくんが死んでいたら、私、生きていけなかった」
先程とは種類の違う涙を流し、悲痛な表情になる杉村。と、杉村が僕の額の左側にある傷跡に優しく触れる。
「生死?この、額の傷が何か関係しているのか?」
「何言ってるの?ろっくんだって、あの場所に……!?」
戸惑い気味の彼女は何かに気付いた様に、目を見開き、僕の瞳を覗く。そしてしばらくして、慌てて取り繕う様に答えた。
「ううん、何でもないの。また、仲良くしてほしいな(笑顔)」
うっ、眩しい。先程の驚いた様な表情がどんな意味を持っていたのか、僕は解らなかったけど。まぁいいか。今は友達と本当の意味で再会出来た事を喜ぶべきなのだから。