妹の微笑み
薄暗い部屋の中で徐々に覚醒していく私の意識。仄かに射し込む外界からの光が山小屋の内部を淡く浮かび上がらせていました。私の両手は背後に回され、ロープが固く結びつけられており、近くの柱に繋げられているようでした。小さな呼吸音を頼りにそちらへと顔を向けると暗がりの少し離れた場所で石竹緑青君が気を失って転がっていました。彼の体も近くの柱に繋がれ、私みたいに座った状態で括り付けられてはいないものの、背中に回された手が胴体と一緒にロープに巻かれていました。この忌まわしき光景は私の頭の中で何度もシミュレートしたあの事件を完全に近い形で再現したものでした。
私の一つ違いの妹「佐藤浅緋」は北白直哉という男に間接的に殺されました。当初、警察の見解では大型のナイフで腹を縦に切り裂かれ内臓をその腹腔から垂れ流しながら絶命したのとありました。刃を体に滑り込まされる痛みは想像するだけで耐え難い苦しみを伴います。刃による切創の傷は侵入角から浅く入り、最深部で深度15センチにも達し、一部の腰椎にまで達していたと警察の資料にはありました。下腹部までその連なりが内臓を散々痛めつけ、骨盤の箇所で刃は一気に引き抜かれていました。彼女の小さな幼い子宮にまでその刃は届き、彼女の薄い体は女の子としての尊厳までも奪われていました。内臓を滅茶苦茶にした北白直哉。私の憎むべき怨敵は既にこの世にはいません。そして彼は杉村誠一さんに殺される前、私は彼と話し合い彼の懺悔を聞き届けました。私と北白直哉との決着はついていました。このまま心が狂い続けた人生を歩むというのなら私が彼を殺してその場で死ぬつもりでした。けど、彼はしっかりと殺人という罪を認識し、受け止め、その結果、北白家の資材を全て投げ打って被害者遺族に裁判の結果関係無く分配を行ないました。私の家にもその話はあったらしかったのですが、父が断固として拒否し受け取らなかったと聞きました。北白直哉への世間と被害者遺族の憎しみは計り知れませんでした。杉村さんのお父さんが殺していなければきっと誰かに殺されていたでしょう。そして不可解な点が一点。あの時、北白直哉は正気を取り戻していました。
しかし、生贄ゲームは行なわれ、私のクラスメイトや部活の後輩が被験者に選ばれ殺されかけます。二人とも無事だったのは石竹君と杉村さんが早い段階で彼等の居場所を特定出来た事、その情報を頼りに杉村誠一さんが現場に駆けつけた事も一因となっています。ですが何より北白直哉が絶対である生贄ゲームのルールギリギリのところで彼等を生かす努力をしていた事が生存の要因に大きく関わっていました。警察も動き、捕まる間際、北白直哉はまるで被験者である江ノ木さんを助ける為に彼女を抱えて山の中を降りようとしたと調書の中でありました。彼は知っていました。あの生贄ゲーム事件で必要なのは少女の命である事を。だからもう一人の被験者、鳩羽君が死ぬ事は無いと踏んで彼女だけを必死に逃がそうとしたのです。そう、それは、妹が被験者に選ばれた第四ゲームの時もそれは頑なに守られました。それは恐らく生贄ゲームの共犯者にとっては誤算。そして唯一、それを理解していた人物が一人、それこそが……それこそが私の聡明な妹だったのです。これらの推測は日嗣尊さんから出された一つの可能性にすぎませんが、妹を知る私はそれが事実である可能性は非常に高いと思っています。これらは状況証拠から導き出された推測、その当時の妹の声を聞いていたのは錯乱した北白直哉と共犯者、部分的に杉村蜂蜜さん、そして、妹に直接手を下した10歳の少年です。私は……私は彼の事も恨んでいます。
【八ッ森市連続少女殺害事件の終結?】
2005年5月8日、東京都八ツ森市西岡町に住む当時36歳無職の北白直哉は同市内北方の雑木林にて佐藤浅緋(9歳)さんを殺害。現場近くに居たとされる石竹緑青(10歳)さんにも怪我を負わせたとして警察に逮捕。身柄の引き渡しについては一般の男性会社員がその身柄を拘束。その場の状況証拠や本人の自供等から日本警察では彼が一連の少女監禁殺害事件の犯人と断定。法廷では、一連の事件の被害者、少女4人に対する殺人罪、他被害者への傷害罪により一審で無期懲役の判決が下されるが、重度の精神障害が明らかになり二審で無罪判決、その身を更生施設に移送される。
妹と一緒に監禁され、怪我を負ったその少年は母親を父親に刺し殺され、施設に預けられそうになったところを私の両親が我が家で引き取った男の子でした。彼さえ居なければ妹も死ぬ事はなかったと思うと憎くて仕方ありません。
【生贄ゲーム事件4件目の真相?】
2005年6月15日。北白直哉(36)容疑者が引き起こした四件目の八ツ森市連続少女殺害事件にて新たな事実が発覚。生贄ゲームと呼ばれる一連の事件の流れから時間切れにより佐藤浅緋(9)さんが殺害されたという見解が警察によりなされていたが司法解剖の結果、死因は同じ被害者少年である石竹緑青(10)さんの手による絞殺という事が判明。事件の背景や詳しい経緯については現在捜査中。
彼が長い眠りの後、意識を取り戻し、当時の私と母は一緒に病院に向かいました。妹は同居していた緑青君に首を絞められて殺されたと警察から連絡があったからです。そして彼に面会した私達は更なる絶望を味わう事になるのです。
私はそっと床で意識を失っている17歳になったその少年の横顔を眺めます。すっかり大きくなった彼の呑気な横顔を眺めていると何だか少し拍子抜けてしまいます。このまま目を覚まさない状態が続くと殺される心配もあるので、私は折り畳んでた足を精一杯伸ばして彼の背中を足先で突いて揺り起こしました。その振動で目を覚ました彼が僅かに微笑みながら顔を起こすと、辺りを見渡し、戸惑っています。
妹は二度死にました。
一回目は命の喪失。
二回目はその存在記録の抹消。
全てはあの生贄ゲーム事件で妹の記憶を失った彼の為だけに妹は世界からその痕跡一つ残せずに死んだのです。悪いのは犯人達で被害者たる妹やその遺族の私達は何一つ悪くないはずなのに、妹が消えた世界に常に喪失と罪悪感を抱えて苦しみながら生き続けていかねばならないのか。私はそんな理不尽な世の中すら憎んでいたのかも知れません。
けど、彼も苦しんでいた。
そして彼は絶望の象徴なんかじゃなくて、八ツ森の人達にとって普通に暮らす彼の事はあの事件で唯一見出せた希望の光だったのです。きっと彼はそんな事言っても信じないと思いますが。あの事件の絶望と希望、その二面性を持つ彼こそが救世主でもあったのです。彼が縄で縛られ、不自由な身体をやっとこ思いで体を起こすと、こちらに声をかけます。
「深緋、大丈夫か?怪我は?」
私は短く大丈夫だと答えると前に向き直ります。その視線の先を追うように緑青も前を向き、その存在に気付きます。暗がりの中、その男の声が室内に響きます。
「さぁ……ゲームを再開しようか。全てを終わらせる為に」
男が立ち上がり、天井から吊るされた裸電球のスイッチを入れると辺りが照らされ、男の姿が露わになります。電球の光を背に受け、影を落としたその人物は八ツ森高校生徒会長、二川亮です。
こいつこそが、北白直哉を傀儡とし、あの事件を引き起こした憎むべき真の犯人の片割れだったのです。
私の脳裏に妹の悲しそうに微笑む顔が思い起こされます。無意識に体に力が入り、私を拘束する縄が軋む音がします。私の本能がこう叫んでいます。緋色の復讐の業火に身を燃やされながら、こいつを、今すぐ、今すぐにでも殺せと叫びのたうち回っています。
それはきっと緑青もそうだと思います。しかし、一転して彼の様子を伺うと状況が飲み込めてないようで困惑している顔をしています。
「ん?あれ?なんで二川先輩が?それに何で僕と佐藤が拘束されてるんだ?映画の……撮り直しですか?いや、でも、文化祭の最中だし撮り直す必要無いよな……」
要領を得ない彼の言葉に、二川亮が笑い声をあげます。
「石竹君、君は本当に……憐れだね」
彼が立ち上がるとその手には木刀が一本握られていました。人を殺すのに充分足り得るそれがゆっくりと近付いてきた二川亮から緑青の頭に振り抜かれると、呻き声を上げながら緑青が床に倒れます。只管戸惑う彼を余所に更にその体に木刀が数発打ち込まれ、彼の頭を二川亮が踏みつけます。
「待っていたよ、この時を。もう誰にも邪魔されないこの時を」
緑青の血が付着した木刀の切っ先をこちらにも向けてきます。
「ちなみに私はあの間抜けみたいにお遊びはしない。ここでこのまま確実に、二人とも殺してあげるよ。それであの事件は終わりを告げる。七年前、殺し損ねた君達を殺してね?」
穏やかに微笑む二川亮の整った顔立ちにその狂気が静かに宿っているのが見えた。
もしかしたらここで死ぬかも知れない。
これは賭け。私が、私が妹の残した言葉を聞き出せるかも知れない最後の機会。私はそっと呟く。
「浅緋……バカなお姉ちゃんでごめんね……けど、どうしても無理なのよ……貴女の最後の言葉も聞けないまま私だけが前に進むなんて……出来ない」
二川亮の笑い声と共に木刀の切っ先が私に向かって振り下ろされる。私の命を対価に妹の最後の言葉を聞けるならそれでいいか。もう、私は、自分が何処を歩いているかも分からなくなっていた。過去に囚われ続けている私はとっくに死に絶えているも同然だったから……。




