八咫烏(ヤタガラス)
12月21日、僕はまだ生きています。
八ツ森の南に位置する南ヶ原。背の高いビル群の合間を這う様に植えられた広葉樹が印象的で灰色のコンクリートと蒼いガラスのビル群、深緑色の背の高い木々が相まって独特なコントラストを放っている。
人と獣、両方の気配を感じさせるこの街は自らの立ち位置、境界線が曖昧になる。人としての理性と獣としての本能。両方を混在させる人間そのものとも言えるが。
横島屋デパートで目当てのものを何とか私金で手に入れる事が出来た僕は頑丈に包まれた袋を抱き抱えて走っている。早く帰らなければ居ないのがバレて金髪と紅髪のお姉さん達に怒られてしまう。話では僕の元に暗殺者が送り込まれるのは明日だ。それまでの安全は保障されているはずだ。その情報の元は僕らが最も信頼出来る僕の幼馴染からの情報だ。その時、ズボンのポケットに入れていたサリアさんの空色の携帯電話から着信音が鳴り響く。
私用の携帯らしいので仕事関係の電話はかかって来ないらしいので、僕は特に画面も確認せずに荷物片手に電話を取る。もちろんその足は潜伏先のホテルに向かっている訳だが。
「サリアさんですか?ごめんなさい、すぐに戻ります!」
電話口で外の雑音と混ざって相手の息を飲む音だけが聞こえて来る。
「サリアさん?じゃない?すいません、今、彼女の携帯を預かっていて本人に後でかけ直すように……」
戸惑いながらその電話の相手が驚いた声で僕の名前を呼ぶ。
「ろ、ろっくん?なんで義姉ちゃんの携帯に?!」
僕の事を声だけで見抜き、僕をそう呼ぶのはたった一人。その高すぎず、低すぎない、心地良い音色のその声の主は僕の幼馴染、蜂蜜杉村だ。
「はっ、ハニーちゃん?!」
「う、うん。お久しぶり」
声の調子から元気そうだが、声色から失踪した後も杉村の精神年齢は退行現象を起こしたままの様だった。
「えっと、元気?」
久しぶりの会話。幼馴染ならもっと言う事があるだろう。気の利かない自分自身に嫌気がさす。
「それなりにね。ろっくん、死んでない?」
「うん。こうやって話せてるしね。君の義姉さんが頑張ってくれたおかげで何とか生きてるよ」
「良かった、本当に良かった。本当に心配で……あのね、今どこ?」
「えっと、その、南ヶ原の道路というか……」
「エッチな場所には居ないの?」
どうやら杉村には全部筒抜けらしい。それはそうだ。向こうもこちら側に貴重な情報を流してくれている。サリアさんを通じて僕らがラブホテルに潜伏している事は知っていてもおかしく無い。
「うん、ちょっと外に出てて」
「良かった……ろっくんだけでも無事なら私は」
「ちょっと待て!どういう意味だ?!」
何かが起きているのか?
「あのね、近くに目印になる様な場所ある?」
僕は辺りを見渡し、木々の合間にひっそりと設置された「らいおん公園」とファミリアマートの青い看板を発見する。あの猫耳の綺麗なお姉さんに道を聞いた場所まで帰って来ていた様だ。潜伏先のホテル「楽園」もすぐそばにある。
「ホテルの近くにあるファミリアマートとらいおん公園の近くに居る。もうすぐ帰るところ」
杉村が慌てて僕の歩みを止めさせる。
「ストップ!一生のお願い!絶対にエッチなホテルには戻らないでっ!すぐにらいおん公園内にあるベンチで待ってて?!私もすぐに」
「待ってよハニーちゃん!どういう事だよ?!サリアさん達の身に何か起きてるのかっ?!」
嫌な予感がして体中に緊張が走る。
「暗殺者がホテルに侵入しているはず。だからそこで待っ」
会話の途中でブチリと通話が切れる。
させない。
僕は死ぬ恐怖よりも、杉村の義姉さんとランカスター先生、ついでにハミルトン先生が僕の為に暗殺者に殺される場面を想像して怒りがこみ上げてくる。それは自分の所為で殺される自分自身への不甲斐無さにだ。
「もう……誰も僕の為に死ぬな」
僕を庇って父に刺し殺された母、石竹葵。母の虚無感に気付いてあげられれば何か変わっていたのかも知れない。
その存在と命、僕が二度も殺した佐藤の妹、佐藤浅緋。何れその報いは必ず。
生贄ゲームを始めた犯人の一人、二川亮と刺違えた僕の大好きな日嗣尊さん。僕は絶対に奴を許さない。
一歩間違えれば過去の遺族達に命を奪われていた生贄ゲームの最初の犠牲者、天野樹理さん。本当に生きていてくれて良かった。僕等はお互いに良き理解者でもある。
そして姿を消していく元部活仲間の軍事研究部員達。
「もう誰も僕の為に死なないでくれ」
理不尽な憤りと共に沸き上がる感情。
それは明確な憎しみ。
僕の大切な人達を奪おうとする者達への殺意だ。
この感情も僕は愛情と共に忘れていた気がする。
「だから殺される前に殺してやる」
何でもいい、彼女達を守れるなら、自分の心すら摺り潰してやる。拳に力を込め、標的を目の前に音も無く飛来した暗殺者に向ける。
もう歩みを止めない。
黒いコートに身を包み、分厚い黒丸サングラスの奥底でエメラルド色に輝く鮮やかな瞳。長い黒髪を風に揺らして立っている。黒い影を纏ったような暗殺者の女性。僕を期限までは生かすと宣言した生粋の暗殺者。僕の大事な幼馴染の大切な人達をお前達の都合で奪わせてたまるか。
朝の日差しに闇夜から浮かぶ烏の様な女性に僕は静かに言葉を放つ。
「そこを退け。これ以上好きにさせない」
僕の声に複雑な表情を一瞬見せるが、首を横に振り下唇を噛み、呪縛を振り切る様に僕の事を真正面から見つめる。そこには殺気というよりは悲しみに近いものを感じた。
「断る」
「なら」
「こっちにも」
「考えがあるっ!」
抱えていた荷物を歩きながらそっと地面に置く動きのついでに臑に固定していた杉村に借りている隠しナイフを片手に握る。烏の長いコートの袖に隠された手が揺らめき、僕の首元を狙った一撃がその軌跡を描こうとする。するりと隠しナイフを左手に持ち替えるとその軌道の内側に手の甲を滑らせ相手の腕を上方に逸らしながらその胸部に拳を振り抜く。意外だったのかその一撃で一瞬、相手がたじろぐ。
相手の膝裏目がけて右足を振り抜くと態勢を崩した烏に間髪入れずに自分の体を絡ませて足に引っ掛けて地面にそのまま相手を叩きつける。胸部への打撃と背中への衝撃で息が詰まったのか苦悶の表情を浮かべる烏。
「さすが」
言葉を言いきる隙を与えない。
そのまま仰向けになった烏の腹部を踏みつけ様とするが体を回転させながら足の勢いだけで素早く態勢を立て直す。彼女の後ろを追いかけるように黒髪がその軌跡を残す。
お互いが半歩間合いを開ける。
「邪魔だ」
一言呟くと烏がそのサングラスを投げ捨てる。エメラルド色の綺麗な瞳が僕の全体を捉える様に微動だにしない。
再び僕等は斬り結ぶ。
ナイフを繰り出す僕に対抗して相手は菱形の苦無で応戦。空を斬る両者の短い刃先がピンポイントで何度も触れ合い、火花を散らす。不思議な感覚だった。憎しみに染まろうとしていた僕の心は今、無心になっていた。それはどこか懐かしい感覚でもあるような気がした。
お互いに時折攻め込もうとするのだが僕の突き出した隠しナイフは素早く反応した彼女の苦無の腹で受け止められ、向こう側からの剣筋に対してはこちらが先手を打ってそれをいなして避ける。
攻撃面では恐らく烏は僕を遥かに凌いでいる。
けど、僕の杉村の義姉さん、サリアさんを殺させたく無いという思いが後押しして気迫で勝っているようだ。ほんの僅かに気を抜けばお互いの刃が体に突き立てられてしまう極限的に肉薄した状況下の中で僕等は一心にその刃を振るっていた。時間にして僅かだったと思う。
ジリジリとこちらが相手の虚を突いて踏み込んだのに反応して烏の鋭い回し蹴りが僕の鼻を掠める。掠めた鼻先が焼けるような熱さを感じたのは数瞬遅れてからだった。
蹴りの態勢から相手のコートの裏側が覗く。そこにはいくつもの苦無が裏地に固定されている。すれ違い様に素早くその中に手を入れて3本掠めとると近距離でそれを相手に投射する。
その3本は相手の腹部、足、腕を狙ったものだったがそのどれもが掠りもしなかった。腕に投げた苦無に関してはタイミングを合わされて弾き飛ばされてしまう。
それを待っていた。相手の死角に低姿勢から背中側に素早く潜り込むとその背中に掌底打ちのインパクトを決め込む。勝てないなら、殺しきれないのなら一時的に動きを止めて、サリアさん達を助けに行く。役に立たないかもだけど。
肺の裏にまともに掌底を喰らった烏は咳き込みながらアスファルトの地面に膝を付く。
しばらく呼吸は出来ないだろう。
咳き込む彼女に背を向けて僕は素早くホテルへ駆けこもうとするが、僕のすぐ脇を苦無がすり抜けていく。回復が早すぎる。振り向くと、口に手を当てながら振り抜いた右手がそのままの状態を保っていた。
「さすがに簡単に行かせてくれないか」
咳き込みながら呼吸を整えた烏が苦しそうに口を開く。
「…ご…めんね」
「!?」
その謝罪の言葉と共に僕の体に見えない何かが纏わり付く。陽の光に僅かに輝くそれは苦無に結び付けられたワイヤーだった。苦無がまるで意思を持っているかの様に円を描きながら僕の体を拘束していく。
このまま体を引きちぎられそうな予感に自然と体が反応する。
自由が効く右手にナイフを持ち変えると、空を裂く様にそれを振り降ろす。金属の擦れる嫌な音と共にブチンとワイヤーがそこで断ち切れる。
「本当によく斬れるナイフだね」
「あぁ。僕の幼馴染の特注品だからな」
ワイヤーが絡む他の部位にその刃を宛がう。気の性か烏が笑っていたような気がした。僕がナイフを動かす為に下を向いた僅かな時間で烏は姿を消して、僕の背後に立っていた。ワイヤーを絡ませたまま、右手のナイフを放り出し、振り向きざまに背中から銃を引き抜く。それに呼応する様に相手も手持ちを苦無からレミントンのダブルデリンジャーを素早く背中から取り出して僕に照準を合わせる。護身用の銃とはいえ、この距離なら確実に当てられる。
お互いに銃を向け合ったまま同時に安全装置を解除する。
「少年……無駄な抵抗はするな」
「死ぬまで足掻いてやる」
「銃で殺したく無い」
「僕もです。でも、どうしても行かないといけないんです」
両者が膠着状態を保つ中、近くの建物からベルのけたたましい警報が鳴り響く。それは僕の潜伏していたホテルから聞こえてきている。お互いに銃を構えたまま、ホテルの中から大勢の人間が着の身着のまま流れ込んでいる。というか殆どの人が裸か、裸に近い格好をしていた。何十人という男女が火災報知器に紛れて聞こえる発砲音から逃げ出しているようだ。恐らく、暗殺者の仲間が僕の命を狙ってサリアさん達と戦っている。裸でホテルから出てきた人達はまるで禁忌の実を食べて楽園から追放されたアダムとイヴの様だった。僕と烏の視界の間に流れ込んできた人達によりお互いに視界が塞がれる。その声が聞こえたのは僕のすぐ隣だった。
「約束は守らせて貰うね」
それは僕の命のリミット。虚を突かれた鋭い一撃が側面に放たれ、僕の意識が揺らぎ、視界がその端から狭まっていく。ホテルから逃げ出してきた男女の群れに巻き込まれそうになり手にしていた銃を上空に向かって発砲する。完全に意識を失う間際、僕は近くに置いていた僕の荷を守るように抱え込む。例え死んでもこれだけは渡せない。多分、僕の幼馴染にならこの意図に気付くはず。ごめんな、こんな事でしか僕は君への恩を返せない。地面に蹲る僕に死を纏った黒鳥が止めを刺す為に近づいてくる。遠のいていく意識の端で僕はその銃声を耳にする。
キミ……暗殺者といえど乙女のコートの下に手を潜り込ませるとはハレンチだよ。(烏)
……。(石竹緑青)
し、しかも完全にスカートの中、見えてたよね?ね?どうなの?感想を教えて?(烏)
……。(石竹緑青)
あと胸への打撃も……うん、完全に意識は無いようね。意識を失う前に抱え込んだこの荷は一体何なのだろう。それ程までに大事なものなのだろうか。それにしても……この騒ぎ、早めに姿を消した方が良さそうね。警察も騒ぎを聞き付けて駆けつけるはず。私達暗殺者に退路はもう残されてはいないはず(烏)




