2年A組襲撃事件
教室が誰かに荒らされ、その言葉は黄金の少女にあてたものだった。二人の邪魔をしないで?
いつもの様に靴箱で上履きに履き替え、教室を目指しているとなんだか妙に騒がしい気がした。
まだ眠気が残る意識の中、生徒達の喧噪は普段とは違った色を帯びている。そのざわめきは恐怖の色を濃く現している様に思えた。
3階に辿りつくと、2年A組の前には生徒が大勢何かを話し合っていた。
誰も中に入れて貰えないらしい。
入り口の扉の前では、しきりに田宮が教室内に入らないよう大きな声で訴えかけている。
僕は嫌な予感がして、田宮が居ない方の扉を開けて中を覗く。
そこに広がっていた光景は、いつも目にする教室では無かった。運動場側の窓が全て割られ、床に散らばっていた。割れた窓の隙間から暖かい風が僕の横を擦り抜ける。天井から垂れた緑のカーテンが呑気に風に揺らいでいる。窓以外に荒らされた箇所は無い。
少しずつ僕は教室の中に入って状況を確認する。誰も居ない教室。
その大きな黒板には赤いスプレーでこう書かれていた。
≪天使様、何故私を浄化して下さらなかったのですか?≫
意味不明である。
完全に悪質な悪戯だ。
最初は僕に対する嫌がらせかと思ったがそうでは無いようだ。
小学生の時、白いチョークで誰かが黒板に僕に対する悪口を書いていた。
≪つまころしのこども、ろくしょうくん≫
確かにその文字は子供の字で書かれていたが、僕は子供心ながら確信していた。周りの大人達は表には出さないが、裏では僕の事を忌み嫌っているのだと。
嫌な事を思い出してしまった。
にしても悪質な悪戯だ。誰が何のために?
教室の外から「中に入らないで!」という田宮の叫びが聞こえて来る。
最初、僕に向けて発せられたのだと思い、体をびくつかせるがそうでは無かった。ガラスが踏み割られる音を聞き、振り返るとそこには上履きのままの杉村蜂蜜がガラスの破片に注意しながらこちらに近付いてくる。
「これ、ろっくんがしたの?」
「なんで僕が校舎の窓ガラスを全部割らないといけないんだよ。もう17歳だしって杉村、お前入って来たらあぶな……」
その異変に僕はすぐ気付いた。
彼女は黒板の文字を見つめたまま動かなくなった。
その瞳からは先程まで感じられていた生気が全く感じられない。
僕も黒板の方に向き直る。
「なんだろな、この怪文章。にしても悪質な……」
彼女が呟くように囁いた。
『……天使……浄化……。あいつが、あいつがまた……?なぜ?』
「杉村?」と様子がいつもと違う彼女に声をかけるが、何かを呟き続けるだけで一向に反応しない。こういうショッキングな出来事は初めてなのだろう。少し動揺しているようだ。聞き慣れない英語がその唇からこぼれ出している。
そこにすごい勢いで担任の荒川静夢がやってくる。大きな怒声で僕等を教室から追い出した。珍しく田宮に対しても注意をしている。
「あれほど誰も中に入れるなと言っただろう!特にあいつら2人は!」
田宮は謝る一方で、僕等の不注意の性にはしなかった。すまん、田宮。
僕等はその日、すぐさま家に帰される事になった。
そして事態を重く見た教員達の決定により、警察に通報され教室の修繕期間はクラス棟の空いている部屋で授業がとり行われる事となった。
それから彼女は日を追う事に様子が変化していく。
最初は何かに怯えるようにして物音に異常に反応を示す様になる。
青白い顔、摂食障害に陥ったのか昼食時になっても彼女は何も口にしなくなった。ふらつく彼女を心配するクラスメイトに対しては「大丈夫だから心配しないで?」と受け答えしていたが、次第に誰とも口を聞かなくなる。彼女の異変に過敏に反応する女子生徒は彼女と距離を置くようになった。
それでも彼女の男子生徒からの人気は衰える事は無く、1週間ほど経った後も彼女を追いかけ回している。彼女の容体の変化にランカスター心理士は、非常に素早い対応をとった。
彼女が以前に患っていた偏執病の説明と理解を全教員と一部の生徒に行ない、彼女に対して下手に刺激を与えないようにと特別処置を学校側に申請していた。
が、その申請が受理される前に、体育教員による強引な生徒指導により彼女の中の何かが壊れた。時間の問題だったのかも知れないが。
それまで全てに対して怯えていた彼女の様子は一転し、近付く全ての者を叩きのめす鬼人と化す。
その後、僕の心理部での課題、彼女の観察報告書を元にランカスター先生が作成した報告書が校内関係者に配布され、彼女への注意を呼び掛ける事には成功したが、根本的原因である歩く凶器と化した彼女を止める術は未だ見つかっていない。
尚、彼女へ不用意に近付きさえしなければ安全は確保されている為、強制退学にはされていない。主な被害者は勧告しているにも関わらず彼女へ近付く男子生徒ばかりなので、自業自得いったところだ。
でも何かおかしい。普通なら教師を病院送りした時点で何かしらの処置が彼女になされてもおかしくは無いはずなのに、周りの大人は何故か黙認している。しばらくして2年A組のクラスは警察の捜査が終了し、解放された。警察関係者と思われる初老の男性と担任が話をしている。
その近くには佐藤の姿もあった。恐らく佐藤と関わりが深い例の刑事さんだろう。
程なくして、修繕された元の教室に戻ると供に、席替えを名目とした安全対策がとられた。杉村蜂蜜は廊下側の一番後ろの席が指定される。全教員の意向だそうだ。
生徒との接触が少ない一番後ろの席なら被害を最小限に抑えられそうだからという理由でだ。ちなみに僕は窓側の席の一番後ろの席だ。僕等の日常は教室が解放されて戻って来た。
けど、杉村自身の日常は壊れたままだ。
なぁ杉村。お前はそんな事望んでいたのか?
1人になる事を望んでこの高校に転校してきたのか?違うだろ?
なんだか無性に悔しくなった。何も出来ない自分自身と、杉村を居ないものとして扱い、平和な日常を取り戻せた気でいるクラスメイトにもだ。
なぁお前ら、教室を襲撃した犯人はまだ見つかっていないんだろ?
本当にこのまま何事も無く、3年に上がって無事平穏卒業しましたって言えると本気で信じているのか?何の形跡も残さず破壊の限りを尽くした犯人。窓ガラスだけじゃない、杉村の心も破壊していったんだぞ?何も思わないのか、杉村は唯一の被害者……。
ん?犯人は何が狙いだ?何か目的があったのだとしたら……それが達成されているのだとしたら……杉村の心の破壊?
僕はその辿りついた推測に何かとてつもない悪意を感じた。
天使、浄化……その単語が、小さく頭の中で繰り返し反芻する。
それは僕自身から発せられる何かの警告でもある気がした。
気の性か今日は気分が優れない。
少しランカスター先生の所で休ませて貰おうか……な。
僕はその日、そのまま意識を失い倒れたようだった。
目の端に、反対側に座る杉村蜂蜜の青白い顔を捕らえたまま。




