死者の為の祈り
『薔薇を、いちいの小枝ではなく、薔薇の花を、彼女の上にまくがいい!寝顔のなんと穏やかなことか!できれば、私もあやかりたいほどだ。
陽気だったのは、世間がそう強いたからだ。いかにもこぼれる様な微笑をふりまいていた。だが、心はただ疲れに疲れていた、そして、やっと今、その世間から解放されたのだ。熱気とざわめきの坩堝に巻き込まれ、ただ必死に流転の生活を送ってきた。
だが、その間、魂はひたすら安らぎを求めて喘いでいた。そしてやっと今、その安らぎをとり戻す事ができたのだ。元来のびやかなのに閉じこめられていた心は、息をつこうと必死に羽ばたき、そして息切れしてしまった。
だが、今宵こそ、死という空漠たる大広間を、やっと自分のものとすることが出来たのだ』
マシュー=アーノルド「詩集(1853)」より
ここは閉店時間を過ぎて無人になったあるデパートの立体駐車場。私は背中の背嚢からデリンジャーを抜くとその照準を相手の脳天に合わせながら距離を詰めていく。闇は私の迷彩。相手の死角を縫って気配を消して近づいていく。
「何すか?その詩は?ハハッ、冗談ッスよね?烏さん?」
夜の闇は私の存在そのものを消してくれる。西森軒での食事を済ませた私達は一度解散し、死神の連絡を待った。風神生存の可能性が出てきた段階で少年殺しの依頼難易度が跳ね上がったからだ。
そして、死神から送られてきたメールには私と戦車、どちらかが情報を流している裏切り者だというものだ。そのメールを合図に私達はほぼ同時に相手の根城をさぐり合い、そして、今、こうしてお互いに殺し合っている。
「何とか言って下さいよっ!ほら、これ、きっとシューさんじゃない誰かのいたずらメールッスよ」
私は躊躇無く苦無をコートの裾から引き抜くと相手の構えるデザートイーグルをその手から打ち落とす。等間隔に立ち並ぶ灰色の柱に身を隠す戦車から大きく息を吐ききる音がする。
「全く、仕方ないッね。お互い暗殺者同士、死んでも後腐れ無しッスよ?」
「死とは自由。今、その鳥籠から解き放ってあげる」
「大きなお世話ッスよ!俺はこんなところで死ねないんすよ!」
するりと戦車の隠れる柱の裏から顔を出すとそこには戦車の背負っていたアタッシュケースが開いた状態で放置されていた。中身は無い。あの短時間で自動小銃を組み立てられるはずも無く、口で話しながらこちらに気付かれない様に手は着実に戦う準備をしていたと見える。私は慎重に次の行動を選ぶ。
アタッシュケースを思いっきり蹴飛ばすとデパートの6階に位置する駐車フロアーの縁からそれを空中に投げ出す。すぐさま身を翻して建物の影が一層濃い場所への身を潜らせる。数秒後、落下運動を始めたアタッシュケースが閃光と爆音を上げながら四散する。あのまま放置していれば恐らく爆風をまともに食らっていただろう。さすがと言ったところか。
どこだ?
先ほどまで感じていた奴の気配が消えている。
私は左手にデリンジャーを、右手に苦無を構えて当たりを探りながら駐車フロアー内を探る。遮蔽物と言えば等間隔に並ぶコンクリートの太い柱のみで、フロアー同士は下層へと続く大きくカーブを描いた坂道だ。当然、建物の鍵は閉められていて進入する事が出来ない。
下の5階で短い銃声が鳴り響く。私は慎重に足を進め、5階へと続く坂を下っていく。壁沿いに進んで行くと、建物内に続く扉の一つの鍵穴が銃で破壊された跡があった。中に入られては探しようが無いし、建物内に入ればいくつものトラップを仕掛けやすく相手の思う壷だ。ゲリラ戦を得意とするであろう戦車に分がある。
私がデリンジャーを納めようとしたと同時に連続した軽めの銃声が駐車場に響き、火花が飛び散る。
背後から放たれた数百発の銃弾は建物の壁を容赦無く削り、その大きな傷跡を残す。私は銃の引き金を引く音と共にその場から飛び退いて柱の影に隠れる。柱の向こう側が大量の銃弾により抉られていく振動が体に伝わる。
相手は建物の外側から襲撃してきた。恐らく、駐車場の縁に掴まって身を隠していたのだろう。ここは6階だ。そんな危ない真似を普通ならしないし、気付かれたら最後、立場が逆転してしまう。その事を察してか、発砲位置近くから着地する足音が聞こえる。
間髪入れずに私は奴との距離を詰める為に一気に駆け抜ける。
気配を察した戦車が愛用しているサブマシンガンMP40を柱の間を駆け抜ける私に向かって容赦無く弾を放つ。ほとんど無駄弾は無く、あと少し、私の駆ける速度が遅ければ全て命中している。
「やっぱ当たんないッスね!」
私はそのへらず口に次々と苦無を投げつけていく。
「すげっ!ちょっとでも気を抜いたら確実に刺さってるッスよ!」
等間隔に左手に握るレミントン・モデル95のダブルデリンジャーの引き金を引く。装填数は二発程度なので打ち終わった後のリロード時間が必要になる。
こちらもその隙を突かれない様に苦無で牽制するが、銃を知り尽くす戦車の前では装填にどれぐらいの時間がかかるのかを把握しているらしい。
「その銃の形状と弾の発射、装填の間隔時間からデリンジャー系統の銃でしょ?レミントン・モデル95かな?そんな距離じゃまず当たらないっすよ!」
そのタイミングを見計らって相手も弾薬の交換を行なう。よく床を見ると辺りには奴のサブマシンガンのマガジンが転がっている。ケースを爆破させる前にマガジンを散乱させて弾薬補給箇所としているらしい。空のマガジンを排出させる音と共に相手も床を転がりながらマガジンを銃に装填する。お互いがお互いの隙を突こうと牽制をかけるが、相手に一撃すら与えられない状態が数十分続いている。普通ならこんなに暗殺が長引く事は無い。最初の一撃で相手をしとめる戦い方が基本となるからだ。長期戦は体力さから男である相手が恐らく有利だ。
私は考えを巡らせる。
それは無意識に相手に手心を加えているのかも知れない。
これまでの私は相手の事を知る前に相手を殺し続けてきた。
今回は行動を共にし、あろう事か食事まで一緒に。
相手のリロードを狙い、再び私は苦無を二つ投げつける。
それが相手の手を貫くと同時に銃を固定していたベルトを引きちぎり、相手の脇腹に突き刺さる。
その場で戦車が声を上げて倒れる。
肺に苦無が突き刺さり呼吸が苦しいようだ。
私は距離を詰めながら相手のサブマシンガンに銃弾を二発、打ち込み、持ち主から距離を取らせる。もう奴の手持ちの武器は腰に携えたサバイバルナイフ、CKSURC CAMO(S&W社製)のみだ。
手持ちのデリンジャーの弾を排出させ、次弾を装填する。
口から血を流した戦車が苦しみながらも笑みを浮かべている。
左手の銃の照準を相手に合わせつつ、伸びきった足を蹴って抵抗する意志が無いかどうかを確かめる。
「さすが始末屋の烏さんッスね」
「お前こそ。ここまでやるとは思っていなかった」
抵抗の意志が無いことを示す為に、腰のサバイバルナイフを引き抜くと床にそれを投げ出す。
「一つ聞いていいッスか?」
私は左手に握る上下二連装式の護身用銃の撃鉄を起こす。
「最後の烏さんの反応速度がこちらの予想を超えて速かったのは……」
「身軽になったからだ」
「やっぱり。烏さんのクナイの命中率はほぼ百%ッス。あの投擲は当てる為じゃ無く、身を軽くする為」
「すまないな」
「いいッスよ。可愛い女の子に殺されるなら本望ッス。あと、俺からの忠告ッスよ」
遠くから警察のサイレンが鳴り響き、次第に大きくなってくる。
アタッシュケースを爆発させたのは警察をここに呼び出す為の作戦だったのかも知れない。もうここに長居は出来ない。
「俺らは金の為に人を殺す暗殺者ッス。獣にも劣る俺らに涙は不要ッスよ?」
「五月蠅い、大きなお世話だ」
私は勝手に流れる涙を拭う事なく、そのまま放置する。
「ハハッ、やっぱりサングラスしない方が素敵ッスよ。そのエメラルドの瞳、綺麗ッス」
「さよなら、10人目の私が殺した暗殺者「戦車」。貴方の命は私が貰うわ」
せき込む戦車の口から血が吐き出される。
「フフッ、その10人目がこんなドジな奴ですんません。烏さんが殺した9人って」
「蜥蜴、蝙蝠、鮟鱇、鯖、紅蠍、青雉、蜻蛉、蟷螂、狐火……そして10人目がお前だ」
「やっぱり。名だたる面子ッスね。しかもそのどれもが快楽殺人者と化して暴走した暗殺者ばかり。しかも元レコレッタお抱えの暗殺者達で、組織も手を妬いていた奴ばかり。組織に名を売る為にそいつらを意図的に殺したでしょ?出ないと実力が拮抗する相手を殺しに掛からないッス」
「報酬がいいからな」
「嘘でしょ?世の中には表のやり方では裁けない悪魔が人に紛れて暮らしている。だから、裏のやり方で裁くしかない。俺もそうッス。表でいくら頑張っても、裏で暗躍する奴がいる限り悪は無くならない」
「だからあの少年も殺すのか?」
「少なくとも、あいつの事を恨んでいる奴がいるッス。大金を出してまで殺したい奴が」
「私達暗殺者はただの道具だ。善悪を決めるのは銃の引き金を握る者だ」
「ハハッ、確かにそうッスね。俺達が考える事じゃ無いッスね。まぁ、シューさんには気を付けて下さいよ?あの人は何かに勘づいてます」
「じゃあ、先に行ってます」
「あぁ。貴様に安らかな眠りを」
私がその引き金にかける指に力を入れた瞬間、戦車の体が飛び跳ね、その右足が私の胴に炸裂する。
「ふぅ。ちょっと回復したッス」
私は胴体にまともに受けた蹴りのダメージにうずくまる。
「やっぱり、胴体と背中に数発弾は掠ってた様ッスね」
「き、貴様?!」
「俺らは暗殺者ッス。出し抜いた方が生き残るそれだけッス。大丈夫ッスよ。俺はこの件から手を引くッス。烏さんも殺さない。貴女は正義に近い悪ッス」
「何を考えている?私に再び殺されるかも知れないんだぞ?」
「多分、君には出来ない。俺と君との間に出来た僅かな繋がりに殺すことを躊躇する人間に暗殺者は殺せないッス」
完全にこちらの心情を見抜かれていた様だ。
「シューさんにはこう伝えといて下さい。俺はあの杉村誠一さんとは戦えない。だから身を引くッスと」
「風神(杉村誠一)の生存確認はとれて居ないんだぞ?」
戦車が私に血を口から流しながらウィンクを送る。
「そうでも言わないと、烏さんが裏切り者として疑われるッスよね?」
私は目を丸くして目の前のアーミーメットを被った青年を見つめる。
「とにかくまぁ……君にも正義があるなら貫くといいさ。また今度、ゆっくりとシューさんの店で料理でも食べましょうね?」
そう言葉を残し、戦車の懐から落ちた閃光筒が辺りを光に包む。闇に慣れていた私の目はしばらく使い物にならなくなり、見え始めた時には奴の痕跡は血痕以外全て無くなっていた。
怪我の状態は軽くは無かったはずだ。
だが、私は初めて獲物を逃した。それは恐らく暗殺者としての経験の差からくる甘さが生んだ隙だろう。
レコレッタから渡された端末両方にメールが入る。
その着信音は二つで、近くには戦車の端末が血塗れで転がっていた。
「裏切り者は始末出来たかい?(シュー)」
私はそのメールに「逃げられた」とだけ答えた。
ありがとう。戦車男(チャリ夫)。
もう少し……もう少しだけ耐えてくれ。私の心よ。