深淵の闇を覗く者達
12月17日、その日は風も無く、比較的気温は暖かかったように思います。お昼頃、私が八ツ森市内の木漏日町に足を運ぶと丁度白いセーターにデニムのロングスカートを着た荒川静夢教員が自宅マンションの入口近くで煙草を燻らせていました。私が声をかけると魂が抜けた様な顔でこちらに振り向きます。
「……栗原友香さん?」
荒川教員が私に気付いて慌てて携帯灰皿に煙草を捨て、乱れた髪を整えながら私にお辞儀してきました。
「栗原さんのお嬢さん、珍しいですね、こちらの八ツ森に顔を出すなんて」
私はやんわりと微笑んで少し野暮用がありましてと答える。そして同棲しているはずの彼女の所在を確かめる。
「樹理ちゃんは、ここにはいませんよ。東京の方で今は家族と一緒に暮らしています。彼女になんの用で?」
荒川教員が少し私に警戒した態度をとりながら私の答えを待つ。
「それは残念です。いえ、精神病棟から退院なされたと聞いて、お祝いを申し上げたく思いまして」
荒川教員が不信感を隠す事無く私を追い返そうとする。
「そうですか、友香さんの方はもう仕事納めですか?」
私は口元だけ笑顔を作ってそれに答えます。
「はい、少し早めのお休みを会社から頂いて来ました。居ても立ってもいられなくて、だってあの樹理さんが退院なされたと聞いて」
荒川教員が私から目を外さないまま、衣服に忍ばせていた携帯に手を伸ばす。
「誰から聞いた?」
「はい、とても親切な方からです」
「誰からだと聞いている」
「フフッ、秘密です」
荒川教員の背後から私の同胞が近づいて後頭部を角材で打ち付けると、小さな悲鳴をあげてその場にうずくまります。
「ごめんあそばせ」
「友香さん、あんたら……まさか」
やんわりと荒川教員の落とした携帯を手にすると、開かれた画面に表示された人物を呼び出します。何度かのコールの後、目的の方が電話に出られました。おぞましい悪魔の様なその声は11年前と何も変わっておらず、憎しみがフツフツと湧き上がるのを身体中に感じました。その声は殺人者の囁き。何度も「私は生贄じゃない」という彼女の声が鮮明に蘇ってきます。
「……静姉?」
「お久しぶりですね、樹理さん。栗原友香です。私の事は存知ませんでしょうが、貴女に刺し殺された男の娘でございます。今日は貴女に会いたくてこうして出向いたのですが、生憎お留守のようで荒川教員に連絡をつけてもらいましたの」
「そう……すぐにそちらに行くわ。少し時間がかかるけどいいかしら?」
「えぇ、ご家族と東京で暮らしていると荒川先生からお伺いしました。本日、18時までなら荒川教員の安全は保障致します。是非ともお会いしたく思いますわ」
「いい?その女性に傷一つでもつけたら許さないから」
「それは全部、貴女次第です。それでは八ツ森のあの場所で私達は貴女をお待ちしております。よしなに」
「分かったわ。大丈夫、警察には通報しないから安心して?」
「配慮、恐れ入ります。では、後ほど」
荒川教員が精神力で私の前に立ち上がります。
「何を企んでいる、お前等」
「フフッ、さぁ、なんでしょうね」
私の同胞に目で合図を送ると背後から荒川教員の腕を掴んで身動きをとれなくします。さぁ、宴の始まりですよ。
「ふ、ざ、けるな!」
背後から男に羽交い締めにされたにも関わらず、荒川教員がその男を簡単に投げ飛ばしてしまいます。あらあら。地面で苦しそうに同胞が喘いでいます。
「人が下手に出てたらいい気になりやがって!」
すごい剣幕で私に飛びかかってきたので、鞄に忍ばせていた防犯用スタンガンの端子を彼女の体に当てて電気を流します。あらあら。その場で力なく気を失ってしまいました。すごい威力ですのね。
「荒川教員、あなたはなーんにも悪くありませんが、深淵の怪物をおびき寄せる餌になって貰います」
忘れもしません、2001年11月8日、私の父「栗原友介」は天野樹理にナイフで刺された傷が原因で失血死してしまいました。目の前で失った大切な人の命。この11年、私は彼女に復讐する事だけを考えて生きてきました。
裁判では無罪、長い療養生活。出した暗殺依頼も音沙汰無し。やっとあの悪魔にこの手が届くと思うと歓喜にこの身が打ち振るえます。
深淵の怪物に同じ苦しみを。
「あぁ、今日はなんていい日なのでしょう。こんな気持ちになれたのは11年振りぐらいですね。ね?みなさん」
私の周りに続々と人が集まってきます。彼らは同胞。「八ツ森小3女児無差別殺傷事件」被害者遺族達。
法で裁けないのなら、私達は自らの手でもって正義を行使させて頂きます。あの日、あの怪物がお父様を刺し殺しさえしなければ、栗原家の幸せは約束されていたのに。全てをあの深淵の怪物がぶち壊した。当時11歳だった私は今年で22歳のしがないOLです。あの日、父さえ殺されなければもっと良い人生がそこにあったのでしょう。さぁ、この日の為だけに今まで命を繋いできました。
「さぁ、皆さん、今こそ審判の時です。深淵の怪物に極刑を言い渡しましょう」
栗原友香からの電話を切ると、全身に寒気が走る。私の異変を感じ取ったのかリビングで煙草を吸う父から声をかけられる。
「樹理、どうしたんだ?具合悪いのかい?」
私は必死に平然を装って父に嘘をつく。
「ううん。今ね、荒川先生から電話があって今日の18時に私のお別れ会を開くそうなのよ」
煙草の火を消す父が嬉しそうに顔を綻ばせる。
「良かったじゃないか、樹理。いい生徒さん達でよっかったね」
「うん、とっても。いい子すぎてこっちが困っちゃうぐらい」
脳裏にあの子達心理部員の顔が思い浮かぶ。本当にもう会えないかも知れない。あの子達にも、父にも母にも。そして静夢お姉ちゃんにも。10年前、八ツ森にある一軒家から逃れる様に父と母は東京の中野方面に引っ越してきた。父は小さな広告代理店で働く傍ら、母は近所のデパートでアパートとして共働きをして静かに過ごしてきた。これ以上、彼ら家族の生活を私が荒らす訳にはいかない。
父の首元を見ると昔、私が刺した傷跡がうっすらと残っていた。
人生をやり直せるならやり直したい。
けどそんな事を言っても何も始まらない。
せめてあの子達に笑われないように最後まで生きようと思う。
「ねぇ、父さん」
父が優しく微笑みながら首を傾げる。その目元には長年の苦労がにじみ出ていて実年齢の43歳よりも少し老けて見える。
「なんで私以外の子供をつくらなかったの?」
父が吹きだしながら手に取ったリモコンを床に落とす。
朝食後の皿洗いをしていた母が私の頭を優しく小突く。
「こらっ。変なことお父さんに言わないの」
「ご、ごめんごめん。もし、あのまま私が病院で一生暮らしてたら折角結婚したのに、子供が居ないまま生涯を過ごす事になるじゃない?それってやっぱり不幸な事なんじゃないかなって」
母が見上げる私を後ろから優しく抱きしめてくれる。
「そうなっていたとしても、樹理は、樹理だけが私達の娘だから」
「母さん・・・・・・」
父がそれに頷きながら新しい煙草に火をつける。
「ヨハン、お前もそう思うよな?」
愛犬のヨハンがしっぽを振りながら私の周りをぐるぐると周り出す。
「だそうだ」
「ホント、私は幸せ者ね。こんなにも私を待ってくれている人達が居た。もうそれだけで思い残す事はないよ」
その言葉に不安そうに首を傾げる私の両親。
「なんてね、ちょっと大袈裟かな?」
ヨハンが父の膝に飛び移って甘えている。
「そうだよ、樹理。とにかくまぁ、気をつけていってらっしゃい。良かったら八ツ森まで車で送るけど?」
私はそれに首を振る。父を巻き込む訳にはいかない。
「いいよ、うん。ずっと病院暮らしだったから社会勉強の一貫」
「そうか。よし、ヨハン、今日も樹理の警護を頼んだぞ」
茶色いレークランド・テリアの老犬ヨハンが父の膝から飛び退いて私の足下にすり寄ってくる。
「ごめんね、今日はだめなの」
私が困り顔で断ると、何故か今日に限って牙を剥きだして怒ったように唸る。私がいくら宥めようとしても聞く様子がない。私は観念していつものトートバッグを広げるとそこにヨハンが嬉しそうに潜り込んでくる。
母が自分で歩きなさいよと呆れながらヨハンに溜息をつく。
私は自分の部屋に戻るとタートルネックの白いセーターに淡い緑のワンピースに着替えて、黒タイツを履く。小学三年生の時のままの勉強机に置かれたカレンダーに目をやると文化祭まであと一週間だった。
日嗣尊が消えて、杉村蜂蜜も消えて、私も多分消されるだろう。いつかこんな日がくる事は覚悟していたけど、情報の回りが早いような気がした。今回の首謀者は被害者遺族の栗原友香。けど、私が病院を退院したのはついこの間、一週間前のことだ。誰かが、私の周りに居る誰かが糸を引いているのかも知れない。
「二川亮、そうまでして貴方は私達事件関係者を消したいのね」
邪が鬼を笑う事は出来ない。
私にあいつを裁く権利は無い。裁けるとしたら私が殺した被害者遺族だけだろう。誰かが裏で糸を引いているとはいえ、私の罪は消えない。私は殺されても仕方ない人間。けど、日嗣尊と石竹緑青は殺される故なんて無い。緑青、君は無事なの?
私は嫌な予感がして机の引き出しの小箱を開いて、その底に隠されているものを取り出す。
これは杉村蜂蜜のナイフコレクションの一つを譲り受けたものだ。以前、体育の授業で蜂蜜とのバトミントンの試合に勝った際にプレゼントされたものだ。どうやら無敗だったようで、蜂蜜に勝てた初めての人間だったらしい。物騒だったから私は何度もいらないって断ったけど、むりやり持たされたやつだ。アメリカのオンタリオ社製のシースナイフで鈍い黒刃の根元にはRAT-5と刻印されている。蜂蜜の話だと1095カーボンスチールの刃なのだとかで軍の基準も満たしているとか。サービスで専用のホルダーまで付けてくれた。蜂蜜は英国人なのに米国製のベンチメイド社とかいうところのナイフがお気に入りらしい。特注の隠しナイフは英国製のメーカーらしいけど。
ナイフのホルダーを黒タイツの上からベルトで留めると私は最低限の物を小さな提げ鞄に放り込んで玄関の扉を開いた。
今日無くなる命かも知れない。けど、私は最後まで足掻こうと思う。最後の最後まで足掻いて、それで死ぬならあの子達も納得してくれるだろう。
今日は風の無い、珍しく暖かな日だった。
「死ぬにはいい日かもね」
ビルに挿し込む陽光を受けて僕が眼を覚ますとそこは薄暗い場所だった。天井から垂れた鎖に両手を括り付けられて身動きがとれない。辺りを見渡すと、近くの柱に同じ様に田宮稲穂がロープで括りつけられていた。右肩には包帯が巻かれているので止血はしてもらったみたいで静かな寝息を立てている。どうやら命だけは助けられたみたいだ。きっとこの後、僕を待ち構えているのは手ひどい拷問だろう。ただ、僕は何一つ情報を持っていない。僕等が生かされているのは、上層部への引き渡しか、人質、もしくは誰かを誘き出す為の餌としてかも知れない。でもまぁ、田宮が無事で良かったよ(石竹緑青)




