約束
杉村に殴られた胸部を押さえ、フラつく足取りで僕は帰路についている。
杉村は結局喫茶店には戻って来なかった。その置き去りにされた手荷物を片手に僕は降り出した雪を見上げながら歩く。もうすっかり季節は冬を迎え、コートやマフラーが無ければ出歩くのもままならないだろう。若草もコートを羽織らずに杉村を追いかけていったので心配だ。
まだ杉村を追いかけているって事は無いだろうけど。時間帯的にそのまま商店街の方に帰ったのだろうか。若草は携帯を持っているし、佐藤には一報入れているはずだとは思うけど。
先ほどまで佐藤喫茶店で心理部メンバー+αが接客の練習をし、解散した後、僕は佐藤の母親「桃花褐」さんと二人で話をした。最初は日嗣姉さんの件で、体調の心配をされているのかと考えていたけど違った。
「今日ね、杉村誠一さんから聞いたの。君が君のお父さんにあの青い傘を渡したって事を」
佐藤の母親は僕が事件の事を父から聞き出した事を知っていた。僕はひたすら頭を下げて謝罪した。
浅緋さんを首を絞めて殺したのは僕ですと何度も何度も。そんな僕の襟首を掴んで無理矢理顔を上げさせる桃花褐さん。
「勘違いしないで?!誰も君に謝れなんて言ってない。あなたの心が心配なのよ!」
自分が生き残る為に友達を殺した僕に心配する価値なんて無いと思った。桃花褐さんに自分が大丈夫だという旨を何とか伝えると桃花褐さんは一旦納得してくれたのかその手を離してくれた。
「……今のところ、その事は佐藤家では私しか知らない。君はその事実を父親から聞いて、今日までどういう気持ちで過ごしてきたの?」
罪悪感で押しつぶされそうになって、生きることすら放棄してしまいそうになった時、目の前に僕の幼馴染が8歳児へと退行現象を起こした杉村と遭遇した事を話す。そんなドタバタの中であっという間に過ぎた5日間だった。天野樹理さんを精神病棟から連れ出して大騒ぎになった事も。
「ハニーちゃんの状態は別人格が存在すると杉村誠一さんから聞いていたけど……今度は退行してしまってたのね。どおりで仕草や表情が可愛くなってると思ったわ。誠一さんには私の方から伝えておくわ」
これ以上、杉村が精神の均衡を崩すような状態が続けば、彼女は最終的にどうなってしまうんだろうか。壊れてバラバラになって、そして何もかも無くなってしまうのだろうか。それだけは避けなければならない。僕はその件と僕自身の事情を踏まえて、日曜日に特殊部隊Nephilimの手配で英国に帰る手はずをしている旨を伝える。
「そっか。それもそうね、これ以上は彼女にとってもよくないわよね」
一番避けなければならないのは、彼女の目の前で僕が死んでしまう事だ。そんな事になったら多分、自らの命を絶つか、全てを破壊する復讐の鬼となってしまう。だから、今は英国に帰ってもらうのが一番だ。そして彼女が回復した頃合いを見計らって彼女にどちらで暮らすかを決めてもらう。日嗣姉さんが言った決着の舞台は文化祭に用意されている。それまでに僕が死ぬ可能性もある。木田が襲われた時も恐らく北白の共犯者が手配した可能性も拭いきれない。
もし、プロの殺し屋が僕に向けられた場合、杉村がそれに巻き込まれる可能性も十分ありうる。例え彼女の力が殺し屋に勝ったとしても、彼女なら僕の安全を最優先させる為にその関係者全てに対して戦いを挑み兼ねない。また、僕の性で人が死ぬのはもう耐えられないんだ。
「深緋に、その事は伝える?」
僕は桃花褐さんの目を見つめ、首を横に振る。深緋にだけは言わないで下さいと。時を見て自分の方から話しますと。
「緑青君、あの子の記憶は……」
父親から聞かされたのは、僕があの北白事件に関わって1人の少女を殺したという事実だけだ。記憶自体が戻った訳では無いことを伝える。おぼろげに少しずつ、彼女の輪郭を思い出す事はあるが、事件当時の記憶は全く抜け落ちている。もしかしたら、僕自身が思い出したく無いのかも知れない。
「そっか、でもこれだけは分かってほしいの。私や宏治さん、そして深緋も君の事は恨んでなんかいない。あれは北白直哉が起こした人為的な事件。それに君と私の娘は巻き込まれた。だから、君が罪悪感を抱く事なんて無いの。恨むべき相手は、誠一さんが始末しちゃったし、私も正直、拍子抜けというか……。多分ね、誠一さんがしていなかったら、私の手で殺していたと思う。そういう意味ではある意味、誠一さんに助けられたのかもね。口には出さないけど、恐らく宏治さんや、被害者遺族の人達、そして当時の事件を知る八ツ森の人間が奴を恨みそして後悔しているの。君や娘、そしてハニーちゃんが事件に巻き込まれなかった未来があったんじゃないかってね」
その為に、佐藤浅緋の生きた痕跡がこの世界から消えた。僕の為だけに。
「そうね、もし、君の記憶が何かの拍子で戻ったら、それこそ娘の記録を消しておく必要は無い。お葬式もお墓参りも、上げてあげられる。けどね、それと同じぐらい君の事も大切なの。戻らないなら戻らないまま、今の日常を君が思うように受け止めてくれればいい。あの子もそれを望んでいるはず」
浅緋の記憶が戻ったら、僕はどうなってしまうんだろうか。でも浅緋の生きた記録を消したまま日常生活を送るなんてもう出来無い気がする。
「フフッ、多分、あの子もそれを望んでいるはず。あの子ね、君の事大好きだったんだよ?ハニーちゃんが居たから遠慮してたみたいだったけど、知ってた?多分、君の事だから気付いて無かったと思うけど」
僕の中から、存在そのものが消えてしまった彼女から向けられた感情を思い出す事は出来ない。僕はそれにどう答えてあげれば良かったのだろうか。
佐藤桃花褐さんとの会話を思い出しながら、自宅近くの紫陽花公園のベンチに腰をかける。降り出した雪は小粒過ぎて積もる前に溶けきってしまうだろう。
私、杉村蜂蜜、自称8歳の女子高生?
この春に英国から(非正規)転校してきた日本人と英国人のハーフ。この蜂蜜色の髪は母親譲り。瞳の色は緑色なので誰から遺伝したかは分からないので不思議。義姉ちゃんとママの目の色は青なのに。でも、この緑青色の瞳は気に入っている。だって私の大好きな友達と同じ名前の色だから。
日本人で傭兵のパパからはその身体能力と戦闘技術を引き継いだんだと思う。
目元は少しパパ似かな?義姉ちゃんとはあんまり似ていないの。義姉ちゃんのサリア=レヴィアンの方が私よりも背が高くて美人さん。八ツ森特殊部隊の隊長さんだし、私が勝てる要素なんて無いの。でもいいの。私には日本で最初にお友達になった幼馴染がいる。それだけで十分。
私達はすごく仲がよかったんだけど、今日、私はその彼を特訓以外で殴りつけてしまった。だからすごくろっくんのアパートに帰り辛い。コンパスと地図を頼りにとぼとぼと歩いていると、遠くの方でろっくんが足を引きづりながら紫陽花公園に入っていくのが見えた。私達が6歳の時に初めて出会った公園。思い出深いその場所は私達にとって馴染み深い場所でもある。私が彼に会った時、彼は黄色いレインコートを着てずっとカタツムリを見つめていた。
日本のカタツムリはすごく小さくて可愛い。英国のカタツムリは食用ででかくて怖い。あの日は雨だったけど、今は粉雪が降っている。
彼の後ろ姿を追いかけていくうちに、自然と体が軽くなり、心が熱を帯びていく。冷え切った四肢に血が通い、私の体を弾ませる。
やっぱり、私は彼の元に居たい。
これからもずっと……。
「ろっ!?」
叫びそうになった口を慌てて手で覆い、声を遮断させる。
ろっくんの後ろを黒いコート姿の男性がつけていて、公園に入っていった彼の様子を入り口の垣根から眺めていた。
私は本能的に感じ取る。
あいつは敵だ。
ろっくんに害を及ぼす害虫。
害虫は駆除しないといけない。
相手は素人じゃないみたいだった。公園に入る前に辺りを見渡し、警戒を怠らない。私は素早く街灯の当たらない暗い部分に滑り込み、相手から見えないようにする。私は夜目も効く。対象との距離は約五十M。傍に落ちていた小石を黒いコートの男の向こう側まで放り投げると同時に足音を消して素早く移動する。
男が懐からサイレンサー付きの黒い銃を取り出すシルエットが見えた。日本では普通の経路で銃は入手出来ない。恐らく、違法的に入手したか暗殺の為に支給された代物だろう。相手は金で雇われた暗殺者である可能性が高い。実力は分からないけど、少年1人に銃を持ち出すあたり、そう強くは無いだろう。
男が横を掠めた小石に気づいて振り向き、それが向こうの方で落下する音が聞こえてくる。その音に素早く反応して銃を構え、そちらに気をとられる。ほぼ同じタイミングで私は音もなくゆっくりと背後から近づいて口に手を当て、体を後ろから引き倒す。
短い悲鳴が男から発せられる。
突然の出来事に男は戸惑い黒い銃、これは恐らくコルト・ガバメントの系統の銃、それを不用心に落としてしまう。
私は簪を一本引き抜くと、銃が握れない様にその右手の平に突き立てる。貫かれた手から簪を伝い、血が点々と滴っていく。下がコンクリートで補装されているので、そのまま男の腿に張り付けにする。口を塞ぐ手から更に悲鳴が漏れる。
手は緩めない。
そのまま続けて二本目の簪を引き抜くと、暗がりでもよく見えるように男の眼球近くまでそれを近づける。ろっくんを殺そうとした奴は許さないよ。
ゆっくりとその先端を近づけていくと、男が聞かれてもいないのにしゃべりだした。何を言っているのか分からないので、口を塞いでいた手を首に回してしゃべらせる。
「ごめんなざい!もうしません、許して下さい!」
顔をよくみると40歳代のやつれた男だ。目のくぼみ方から薬の金ほしさに暗殺依頼を受けたのだろう。
「一応聞くけど、誰に雇われたの?」
男が目から涙を流しながら命乞いをする。
「わ、わがんねぇ。東京の方で薬の金ほしさに売人から依頼されたんだよ!いい仕事があるって。1人殺せば、3年は薬に困らないって」
私のろっくんの命は、麻薬3年分の命。私の中から怒りの感情が沸き上がってきてその衝動を止められなかった。
再び口を塞ぎ、簪の先端部分を眼球から脳に向かって刺し貫く。男は声も上げられずに絶命する。
私はこの男が落としたコルト・ガバメントの入手先を調べる為にそれをそっと腰に仕舞うと、男に突き刺さっていた簪を二本引き抜く。出血量は少ない。男の衣服で簪の刃の部分についた血を綺麗に拭き取ると、男の襟首を掴んで引きづる。このままにしてはおけない。
ろっくんのアパートと反対方向に歩き出そうとして、その足を止める。
もう一度彼をこの目に収めておきたかった。
公園の入口からそっと、彼の様子を伺うと呆けた様に夜空を見上げたままだった。自然と私の目から涙が流れ出す。どんどん私とろっくんの世界が遠くに離れてしまう。私は殺人者。彼と私はもう同じ世界では暮らせない。喉の奥が締め付けられ、嗚咽を殺して鳴き声をあげる。
「ろっくん・・・・・・」
彼が私の声に反応する様に公園の入口、こちらに視線を向ける。
慌てて立ち上がった彼が、こちらにやってくる。
「ハニーちゃん?居るのか?」
私は素早く垣根の後ろに回り込んで垣根越しに彼と話す。
「うん。ここに居るよ?」
彼が少し気まずそうに躊躇いながら声をかけてくる。
「その、あのさ、さっきはごめんな。けど、どうしてもハニーちゃんの事は巻き込みたくなくて」
私の目から次々と涙が溢れてくる。
私の衣服には殺した男の血が点々と跡をつけている。
「ううん。ろっくんの気持ちは分かってる。けど、ごめんね、私はやっぱり英国には帰れない。貴方を守りたいの」
「それを言うなら、僕もだよ。ハニーちゃんの事は守りたい。これ以上、君が僕なんかの為に事件に巻き込まれる事はないんだ」
やっぱり。ろっくんは、今後、自分に起きるであろう危険を予測している。多分、この公園でじっとしていたのも、刺客が私の居るかも知れない自宅にやってくるのを警戒していたんだ。
「守るって、守るって約束したから。ろっくんが、ろっくんのお母さんがお父さんに刺された日、私、決めたの。誰より強くなって貴方を守るって」
「それなら僕も借りを返させてほしい。今まで守ってくれてありがとう。だから今は英国に帰ってほしい。約束する。全てに決着がついたら必ず、迎えにいくから」
私はその言葉を大切に胸の奥に仕舞う様に心臓に手を当てる。
「うん。約束だよ。私は貴方を守る。そして貴方は私を必ず迎えに来て?」
その言葉を言い残して、私は男の死体を担いでその場から駆けだした。