佐藤喫茶店
学校が終わり、警察の簡単な事情聴取(?)も無事終えた私達は佐藤喫茶店に集合している。仄かな淡いオレンジの照明が店内を優しく照らし、木造のその建物の天井には大きなプロペラがゆっくりと回転し続けている。カウンターに座る私の横には愛人の荒川静夢が静かにお店のブレンドコーヒーに口をつけていた。香りはすごくいいのだけど、この黒い液体には苦いイメージしか持っていない。私の視線に気付いた静姉がこちらに視線を向けると、尋ねてくる。
「樹理ちゃん、飲まないのか?」
私は首を振り、慌てて白い容器に注がれたコーヒーを口に運ぶ。甘酸っぱい香りの深みのある苦みが口一杯に広がって耐えられない。
「苦っがーいぃ!!」
私の叫びが落ち着い店内に相応しく無い雑音となって響き渡る。
静姉は呆れながらため息をついて私の頭を撫でてくれる。
「無理するな。私の真似をする必要ないから、砂糖とミルク入れて貰え」
涙目の私にカウンターの向こう側に立っている執事服を着た痩せ気味の佐藤深緋のお父さんが微笑みながらホイップクリームを私の器にトッピングしてくれる。
「樹理ちゃんはこっちの方がいいかも知れないね。はい、ウィンナーコーヒー一丁上がり」
私は砂糖を混ぜる時に使ったティースプーンを使って、そのホイップをすくいとると口に運ぶ。
「甘~いっ!珈琲って美味しい!」
それ珈琲じゃないから。と静姉に突っ込まれながら佐藤喫茶のメニュー表の一つを指差す。
「樹理ちゃんにはこの珈琲ゼリーを頼む」
「珈琲なのにゼリー?」
「ん?向こうのテーブルで杉村が食べてる特大パフェの方がいいか?」
私は喫茶店の窓際のテーブルで大きなパフェを紅茶と一緒に嗜んでいる英国淑女の杉村蜂蜜を眺める。その横には緑青と青磁座っていて、微笑ましくそれを見守っていた。
「ろっくん。大変私は満足しております」
「うん。良かったよ。パフェ食べる約束してたしな」
「ハハッ、すげーな。それ全部喰う気か?三人前はあるぞ?」
青磁が呆れながら長いスプーンを使い、蜂蜜のパフェグラスから溢れているホイップを口に運ぶ。
「大丈夫だよ、青ちゃん。女は胃袋が二つあるの。日本では甘いものは別腹らしいの。半分日本人の私もきっとそうに違いない」
青磁が緑青と視線を交わして呆れた様に両手を広げる。蜂蜜は手にしていた紅茶の器をそっと皿に戻すと、手にナイフとスプーンを構えて大盛りパフェを天辺から綺麗に切り崩していく。たくさんのフルーツに彩られたジャンボフルーツパフェ。蜂蜜のナイフが舞い、まるで空間が切り取られた様に対象は切り取られ、目の前の小さな桃色の唇に吸い込まれていく。デザートナイフも使い手が達人だと名刀と化す様ね。私はあれが食べたいけど、小食の私は多分食べきれない。
それに折角コーヒーが美味しいと噂の佐藤喫茶店に来たのだから、コーヒーゼリーを試したい気もする。何てったって人生初めての喫茶店。ファミレスで食べられるようなものを頼んでは勿体無い。私はウィンナーコーヒーに盛られたホイップを口に運び、パフェに対する欲求を抑えながら慎重に言葉を選ぶ。
「ゼリーの方でお願い」
ホイップの入れ物を手にして準備していた深緋のお父さんが優しそうな目を細めてオーダーを受けてくれる。
「待っててね。今用意するからね」
私はそれに神妙な顔で何回も頷く。
「いらっしゃいませぇっ!御主人様ぁ!!毎度ありがとうございますっ!」
背後から気合いが入りすぎているお出迎えの挨拶が聞こえてくる。その声の主は剣道部の木刀娘、東雲雀だ。文化祭におけるメイド喫茶店の店舗拡大に伴って新たに雇われた傭兵・・・・・・では無く、従業員だ。杉村蜂蜜との決闘を餌に鳩羽竜胆がここに来るように間接的にお願いしたらしい。その肝心の本人はというと、あの生徒会長のお見舞いに病院へと足を運んで来れないらしい。見舞う価値も無い人間だとは思うけどね。人の事は言えないけど。
その隣には同じく今回新たに雇われた、学年代表の田宮稲穂が東雲雀の接客に呆れながらため息をついている。彼女は今回、普通に高額の金で雇われている。まさに傭兵。
その横に終止デレデレした顔をしている生徒会副会長の四方田卑弥呼が居る。ふんわり茶髪のウルフカットの女の子だ。
あっ、私と目が合ってこちらに手を振ってきた。本来なら、彼女がここにくるメリットはまるで無い・・・・・・のだけど、深緋と私が一緒に上目使い(背が低いので自然とそうなる)してお願いしたら抱き締められて二つ返事で了承してくれて、お手伝いに来てくれた。生徒会長不在の生徒会を、文句を垂れながらもきっちりとカバーしているいい子。
他のメンバーは心理部の江ノ木カナ(何故か一人だけウェイトレス姿)に、日嗣尊が失踪して一番元気が無さそうだけど、一番胸が大きい留咲アウラが並ぶ。フロアーの中央を貸し切って横一列に彼女達が並んでいると、美少女勢揃いでなんだか圧巻。なんだか女臭いわね。私は基本的に石鹸の匂いがするらしい。病院で石鹸で手を洗う週間がついてしまったからかな?
私も文化祭の日に接客するので参加しなくて大丈夫か心配になる?深緋、いつもと違ってなんか怖いし。少し怯えながら静姉の方をみると、首を振って私の頭を撫でてくれた。
「いいんだよ。今日は樹理ちゃんの退院祝いも兼ねて、佐藤のお母さん、桃花褐さんが私達をご馳走してくれるって言ってるんだ。晩飯も食っていくぞ?ここで大人しく人生初の喫茶店を味わってればいいんだよ。煙草も吸うか?」
私が頷くと、静姉の手元にあった煙草ケースの中から一本取り出して、私がそれをくわえると火を点けてくれた。煙草の煙を小揺らせながら店内を見渡して、佐藤の母親、桃花褐さんを探すが、幾ら探してもその姿が見あたらない。
「ん?あぁ、桃花褐さんは杉村の代わりに、杉村の父親のとこに顔出してるから今は居ないよ。時間的にそろそろ帰ってくる頃だろうけどな」
深緋のお母さんはどんな感じの人なんだろう。お父さんは喫茶店のマスターを絵に描いたような素敵なおじさん。桃花褐さんは深緋さんと一緒で小さくて可愛い感じなのかしら。
そして、あの事件で1人の家族を失った遺族でもある。その苦難、苦痛を一体どうやって乗り越えてきたんだろう。私はメイド長として声を張る佐藤深緋の横顔を遠くから眺める。
「深緋、貴女はそれをどう乗り越えてきたの?」
「いらっしゃいませーっ!!ご主人様っ!」
気合の入り過ぎたかけ声が再び佐藤喫茶に響く。その声の主は、メイド服を着せられてすっかり可愛くなってしまった東雲雀の口から発せられたものだ。東雲の目の前には、厳しい顔をしたメイド服姿の佐藤が横に居る田宮と同じように呆れてため息をついている。
「東雲さん、いい?もう一回言うわよ?これは剣道の試合じゃないの。だから気合いは乗せなくてもいいの。一本とる必要も無いただの接客だから。あと、胸を張らずにお辞儀して。おっぱいが気になって仕方ない。当てつけ?ねぇ?胸の無い私に対する当てつけ?もっと可愛い格好にしちゃうわよ?」
「礼っ!」
腰に帯刀していても可笑しくない、武士の様な礼を放つ東雲。こりゃだめだ。
「……うん。もう、なんか貴女はそれでいい気もしてきたわ」
「フフッ!ようやく2年A組の佐藤さんとやらも私の実力を認めたようだな」
同じように呆れる田宮が東雲のおでこを軽く叩くと、くるりと一回転してシックなヘッドドレスから流れる黒髪が黒いメイド服と共に揺らぎ、その動きをピタリと止める。そしてその姿勢を変えないまま、佐藤から銀のプレートを借りて、カウンターに並べられた珈琲二つを受け取ると、僕らの席に足音もなくしとやかに到来する。
「お待たせしました。ご注文の佐藤珈琲二つお持ち致しました」
伏せ目がちな表情のまま無駄な動き一つ無く、吸い込まれる様に僕と若草の前に珈琲とミルクが綺麗に並べられる。お盆を脇に抱え、スカートの裾を軽くたくし上げながらお辞儀をする田宮稲穂。日本人の顔立ちの彼女の立ち居振る舞いは完全にモダンメイドさんだ。
「ごゆっくりとおくつろぎ下さい、ご・主・人・様♡」
パチリとウィンクする田宮に戸惑いながら顔を赤くさせる僕。くるりと方向転換すると、講師の佐藤のところまでゆったりとした貫禄で戻っていく。
「委員長、さすがだな。なんでもそつなくこなせるよな。あと5歳年下だったら文句なしなんだけどな。あ、天野さんは別ね?」
若草が関心しながら、運ばれてきた珈琲にそのまま口をつける。若草が女性の好みを判断する時は、年齢が何より大事なのだが、例外的に20歳を迎えた成人女性、天野樹理さんに対して年齢は不問らしい。あれ?カウンターで座っている樹理さん、煙草吸ってない?
「可愛いね、ろっくんもそう思うでしょ?可愛いよね!私も接客したいな!」
杉村がパフェを食べるか接客の練習するかのニ択、その瀬戸際で食べながら揺れている。ちなみに田宮を金で雇ったのは僕で、あの御主人様という台詞は、きっちりと貰うものは貰うぞっていう間接的な意味合いを持つ。末恐ろしい。もしかしたら、そう遠くない未来、彼女は八ツ森の女王として君臨しているかも知れない。
メイド服を着て、前髪を降ろしているキュートな東雲が、田宮の完璧な接客に呻き声をあげながらだが、剣道の様な摺り足で数歩、一気に僕らとの間合いを詰めてくる。その手には水を入れたポットが抱えられていた。背が高い東雲のメイド服はサイズが合っていないらしく、黒いストッキングに覆われた長い足がスカートからすらりと伸びている。
「鼻血君、水だ。飲め」
「接客、下手すぎだろっ!」
僕は思わずそんな東雲に突っ込んでしまう。しかもお客さんに対してあだ名って。
「そ、そうか?田宮を真似てみたのだが……」
どこをどう見ればそうなるのか。東雲が背中を曲げて、少ししか減っていない僕のグラスに断りも無く水を表面張力ギリギリまで注ぐ。
前屈みで頬に掛かった髪がこの角度からだと妙に色っぽい。
「どうだ?すごい接客力だろ?」
何故か満足げな表情で笑顔をこちらに向ける東雲。そんな顔されたら僕は何も言えなくなる。東雲がそんな僕の心境構わずに若草のグラスにも水を注ごうとするのを必死に止めさせる若草。
「いらねぇ。今、おっちゃんに入れて貰った珈琲飲んでんだぞ?見りゃ分かるだろ?」
「そ、そうか。だが私は水を注ぎに来てやったのだ。有り難く頂戴するのだ。何かしないと佐藤のところまで戻れないのだ」
若草がため息をついて、珈琲を一旦置くとグラスに入った水を一気飲みして、空になっらグラスを東雲に差し出す。
「なら、注げ。そして早く帰れ」
何故か顔を輝かせて喜ぶ東雲がチョロチョロとグラスにゆっくりと水を注いでいる。注ぎたがるくせに不器用だからゆっくりとしかグラスに注げないらしい。片手でグラスを持って注げばいいものを、律儀に両手を使って注いでいるので効率も悪い。
チョロチョロと時間をかけてゆっくりと表面張力ギリギリまで若草のグラスに水を注ぎ終わると、満足そうに笑う東雲。
「ごゆるりと、我が主よ」
雇われた侍みたいな捨て台詞を残して僕たちの席を離れていく東雲。ちなみに杉村のグラスにもいつの間にかなみなみ水が注がれていた。テーブルの向こうで満足げな東雲をため息をつきながら迎える女性陣。
「やっぱり、うちの生徒会の田宮には敵わないな。東雲さんとやら、二川の後輩ならもっとしっかりしないと」
心理部が大半を占める中、生徒会で佐藤と樹里さんが目的で四方田卑弥呼先輩が東雲を先輩として注意する。
「わ、私にこんなスカートを履かせ、エプロン着で動けという方が間違いですよ」
東雲は二川先輩の同期でもある四方田先輩には敬語を使うみたいだ。違和感しか無いけど。
「剣道着で竹刀を振り回す方が難易度が高いと思うけどね」
ふんわりとした茶髪の四方田先輩が、キョロキョロしながら辺りを見渡している。視線がカウンターに座る樹理さんに向かう事が多いが、こちらにも視線を送ってくるので、金髪美少女の杉村の事を気にかけているようだ。
「剣道着で竹刀を振り回す方が数倍楽でいいですよ。丈があっていない性か、スカートが短くてめくれないか心配でおちおち歩けもしないです」
四方田先輩が生返事で東雲に答えながら、樹理さんの前に出された珈琲ゼリーを見つけると、それをダッシュで奪いに行く。樹理さんのスプーンが空をかき、悲しい声を上げる。四方田先輩は、樹里さんの珈琲ゼリーを奪うと、店内を一周してから再び樹理さんの机に珈琲ゼリーを置く。カウンターの奥に座る宏治おじさんが目を丸くしてメイド服姿の四方田先輩の挙動を見守る。
「樹理たん、珈琲ゼリーお持ちしました。どうぞ召し上がれっ!ご主人様っ!」
普通の男子なら一発で落ちそうなぐらいの可愛い小首を傾げたしぐさを交えて、天野さんにアピールするが、樹理さんは珈琲ゼリーをずっと見つめて、スプーンを口に咥えたままだ。
「珈琲ゼリー……」
悲しく呟く樹理さんの声に、四方田先輩が慌ててスプーンにホイップとゼリーをすくうと樹理さんの口に運ぶ。しばらく口を動かした樹理さんが叫ぶ。
「でりしゃーすっ!!」
珈琲自体は苦くて飲めないと叫んでいた樹理さん。ゼリーなら大丈夫なようだ。そのまま四方田先輩がゆっくりと小さな樹理さんの口にそれを差し出している。2人とも満足そうで良かった。それより、さっきは誰の事を探していたんだろ?
「ろっくん、あ~ん」
振り向きざまに、大量のホイップとキウイを口に杉村に放り込まれる。
「むぐぐっ」
あ、おいしい。なんでキウイばかりなんだろう?若草が何かに気付いた様に杉村のパフェグラスからキウイを選んで食べている。
「杉村、キウイが嫌いなようだな。食べてやれよ」
頷いたが最後、グラスの脇に壁を作っていたキウイが大量に口の中に押し込まれていく。超苦しい。
「キウイさんもろっくんに食べてほしいって」
「むぐぐ(そんなものは幻聴だ)」
「あ、私もろっくんに食べてほしいな」
「むぐ(やめろ)」
「食べて貰うなら、まずは唇からかな?」
杉村が口の端にホイップをつけながら、僕に顔を近づけてくる。若草が丁寧に杉村の状態を解説してくれる。
「今日の授業中、ほとんど杉村は寝ていた。そして今、食欲はパフェを食す事によって満たされた。残るは生物の三大欲求のうちの一つ、性欲だけだ。退行した杉村は、理性的歯止めが効きにくい。つまり、アホだ」
口の中に大量のキウイとホイップを盛り込まれて話せない。
「ろっくん、ちょっとだけ、ちょっとだけだから」
杉村の桃色の小さな唇がムニムニして、僕の唇を奪おうとする。その両手は僕の肩を抑え、全く身動きがとれない。その光景に昨夜の月明かりの下での出来事が脳裏に蘇る。
「(知ってるよ。私も君の事が死ぬほど大好き)」
日嗣姉さんが白い顔を赤くさせながら言ってくれた言葉。そしてその彼女はもう居ない。僕は杉村に抵抗するのをやめてそれを受け入れる体勢をとる。杉村が僕の異変に気付いて動きを止める。
「ろっくん?泣いてる?」
僕が大好きだった日嗣姉さんはもう居ない。二度と会えない。嗚咽を殺して僕は杉村にしがみつく。
「ハニーちゃん、ごめん、僕は、僕はっ!」
僕はこんなにも自分の事を愛し続けてくれている幼馴染を置いて、日嗣姉さんを選ぼうとした。そんな最低な僕が許されていいはずがない。
「いいよ、ろっくん。私がろっくんを好きなのが片思いなのは知ってるよ」
その言葉にハッとして顔を上げると、一番苦しいはずの杉村が泣くのを我慢してずっと僕に優しい微笑みを向けてくれていた。
「僕はハニーちゃんを裏切る様な真似を」
杉村が首を振って優しく抱き締めてくれる。甘い蜂蜜の様な香りが目の前に広がる。
「尊ちゃんは素敵な人だった。だから、ろっくんが彼女を選んでも全然悔しくないの。私の幸せは、ろっくんが普通の日常を送る事だから。だから、ろっくんがもうこれ以上傷つく事は無いんだよ。あなたは私が、守るから」
日嗣姉さんの言葉が重なり、胸を締め付ける。そして、その言葉は、父に母が刺し殺された日、血塗れの僕を優しく抱き締めてくれた時に囁いた言葉でもあった。杉村もずっと僕の平穏で幸せな日常を守ろうとしていた。僕は一体、何人の人間に、見守られながら生きてきたんだろう。
「なら、ハニーの平穏はどうするんだよ?!僕の事なんかより、自分の事を」
杉村が寂しそうに笑いながら言葉を口にする。
「私は殺人者。幸せになる資格なんて無いの」
その言葉に衝撃を受け、体を硬直させてしまう僕。杉村は一体どれほどの罪悪感をその華奢な体に背負わせてきたんだろう。
「違う、ハニーは殺人者なんかじゃない。誰も殺してない。殺したのは僕の」
喫茶店に来店を知らせる鐘が鳴り、僕等の傍に駆け寄るとその人物は僕ら二人の頬に平手を叩きつけた。目を丸くする僕らは二人はその人物を仰ぎ見る。
佐藤桃花褐さん。佐藤の母親だ。
「失礼。でも二度と、自分達をそんな風には呼ばないで。君達はどこにでも居る、普通の17歳の男の子と女の子よ。殺人者なんかじゃない」
片手に紙袋を抱えた桃花褐さんは、僕が殺した女の子の残像を想起させる。
初めて佐藤桃花褐さんに打たれた気がする。(石竹)