岸辺の旅の終焉
「はい。これ、ありがとう」
私が手にしていた煙草とライター、そして携帯灰皿を元の持ち主へと返す。
「もういいのかい?」
「えぇ。また吸いたくなったらお借りするわ」
八ツ森無料タクシーの中で信号を待つ私達。その間、運転手の川岸実利さんが何かのスプレーを手にして、こちらに見せてくる。
「樹理ちゃん?これ使うかい?」
「何これ?」
「消臭スプレーだよ」
私は制服の袖を鼻に近づけてクンクンと匂う。
「私、そんに臭い?」
「んーや、制服に煙草の匂いが染み着いてると色々と不味いと思ってね」
私は服の袖をトートバッグから顔を出している愛犬のヨハンの小さな黒い鼻に近づける。苦々しい顔でクーンと鳴いて老犬が嫌がった。少し煙草臭いのかも知れない。
「ありがとう。使わせて貰うわ」
「いいよ。煙草の喫煙がバレたら処罰を受けちまうからね。儂も若い頃はよく生徒指導されたもんだ」
「やんちゃさんだったのね」
「ハハッ、娘とはえらい違いだろ?」
「そうね。確か娘の詩織さんは、手を怪我しているクラスメイトの手伝いとかを率先してやってくれているいい子」
だろっ?と誇らしげに笑う川岸さん。信号が青に変わり、タクシーが発進する。お昼までには間に合いそうだ。あ、お昼ご飯どうしよ。
「川岸さん、もう一つ甘えていい?」
「なんだい?」
「そこの曲がり角のお弁当屋さんに寄ってほしいの」
「おう。おじさんの奢りだ。好きなものを頼みな」
「ありがとう。良ければ、二ついいかしら?」
ご飯を予見してヨハンが嬉しそうに鞄から顔を出す。
「あぁ。そのヨハンとかいう茶色い子の分かい?」
「違う。この子の餌は静姉が学校に置いてるから」
ヨハンが力無く鞄に戻っていく。
「二つ分喰うのかい?」
「違う。多分、食欲が無い子がいるから、無理矢理食べさせるの」
「ハハッ、やっぱりいい子だなお嬢ちゃんは。私も一緒に先生方に謝ってあげるよ」
「そんな、いいわよ。悪いのは私だし」
「娘に挨拶するついでだよ。気にしなさんな」
「おじさん。良い人ね。いい人ついでに、あなたが私を車内に連れ込んで無理矢理市内を連れ回したと説明してくれれば助かると思う」
「・・・・・・え?」
「・・・・・・あ、冗談よ?('_')」
4時限目の選択科目の授業が何故か心理学に急遽変更されて、ランカスター先生が教壇に立っている。それは生徒会長の二川先輩が日嗣姉さんに刺されて入院した件を受けて、何人かの教師が警察に出向いているからだ。
後ろに纏めた紅い髪を揺らしながら黒板に白いチョークで書き記していく。普段、カウンセリング室でしか見せない姿とのギャップに何だか戸惑ってしまう。
黒板には4つの枠が設けられ、その一つ一つに表題がついている。
①開放:自分も他人も知っている自分
②盲点:他人は知っているが自分は知らない自分
③秘密:自分は知っているが他人は知らない自分
④未知:自分も他人も知らない自分
これは以前に心理部でも最初の方に教えられた「ジョハリの窓」という自己開示、コミュニケーション、気付き、自己理解に関するアプローチをする為の図法だ。この4つの領域のそれぞれの占める割合によりその人物の現状を知る為の足がかりにする為のものだ。
クラスメイトの何人かが、その概念を上手く飲み込めずに困惑しているのを見越して、ランカスター先生が生徒2人を指差し、立ち上がらせる。その標的となったのは心理部の若草と佐藤だった。泣きはらした顔をしている僕と杉村はさすがに指名出来なかったらしい。
「悪いけど、心理部に所属している彼らに協力して貰うわね?良いかしら?コッキーに青ちゃん」
隣同士の彼らが向かい合い、ため息をついてOKの返事を出す。
「いいッスよ」
「はぁ。仕方ないですねぇ」
「まずは開放領域の説明だけど、これは自分も他人も知っている情報の事ね。お互いにそうだと感じている部分をそれぞれ3つ上げてくれるかしら?」
「そうだな・・・・・・まな板、低身長、暴力女」
「そうね、犯罪予備軍ペド野郎。つり目くそ男。八方美人ナンパ男」
二人ともにこやかな笑顔を顔に称えているが、乾ききった笑い声はクラスメイトを震撼させてしまっている。ランカスター先生も他の生徒の手前、顔がひきつっている。
「ひ、否定しないって事はお互いにその部分は認めているという事ね。相手も自分も知っている自分。それがこの開放領域。次に相手が気付いてなさそうな相手の事を3つ上げてみて?」
しばらく腕を組んで悩み出す二人。これ、結構難しいな。若草や佐藤が知らない自分の事ってなんだろ。
佐藤が照れくさそうに少し鼻を掻きながら例をあげる。
「意外と仲間意識が強い」
「そんなことねぇよ。ならお前は……家族思い?」と若草が否定しながら佐藤を肯定する。
「そんな、普通よ、普通。若草君は……そうね、黙っていれば二枚目ね」
若草が否定しながら首をふる。
「ないない。そういうお前こそ、気付いて無いけど可愛いぞ?何人かお前の事を好きな奴を知っているし」
佐藤が急に顔を赤くして、キョロキョロ辺りを見渡す。最後の僕の方を目を丸くして見ているのは何故だろう。
「ないない。こんなへちゃむくれを好きになる男子なんていない」
「そうかもな」
「期待させんなっ!」
佐藤のローキックならぬコーキックが若草のすねを蹴り上げる。効果は抜群だっ!
「イテッ!なんだよ、自分では否定した癖に。とにかくあと一つあげろ。このまま立ったままはしんどい」
「分かってるわよ!ええっと、えと……夏休み、石竹君と日嗣さんが行方不明になった時、周りの制止を振り切り、自分の危険を省みず、二人を助けにいった。石竹君がピンチだと分かると、迷い無く、手にしていた銃の引き金を引いた。そんな事、普通の男子高校生には絶対に出来ない。だから、その、やる時はやる男ね」
若草が照れくさそうに、明後日の方向を向きながらあと一つを答える。
「そうだな。なら、お前はその道中で変わり果てた杉村の遺体に俺や杉村の親父が立ち尽くしていた時、1人、その遺体に何の怖じ気もなく近づいて調べて検死を行った。そしてお前はその遺体が別人だと断定し、離れた場所で猟銃で撃たれて倒れていた杉村の姿を発見。多分、一歩でも杉村の発見が遅れていたら、応急処置は遅れ、石竹と日嗣は目出帽の男に殺されていただろう。どんな状況下でも諦めない、そんな粘り強さをお前は持っていると思う。普通の奴じゃちょっと真似出来ないな」
佐藤が俯いて「たまたまよ……」と呟いた。
若草がクラス全体を見渡して宣言する。
「杉村は緑青と日嗣尊の命を助けた。その奇跡を起こせたのはあの場に佐藤が居たからだ。そしてその事を、日嗣尊は誰よりも感謝していた」
クラスメイトが顔を見合わせて息を飲む。
「そしてあいつは、恩を仇で返すような奴じゃない」
生徒会長が日嗣姉さんに刺された件を受けて、狂人としての批判的なイメージが定着しつつあったクラスメイト達の間でざわめきが起こる。
「だから、事件の真相が明らかになるまであいつの事は悪く言わないでほしい。それが俺や心理部員からの願いだ。頼む」
若草が深々とクラスメイトに頭を下げる。生徒達が顔を見合わせて戸惑いが広がると、ぽつりぽつりと頷き始め、それは波紋のように次々と広がっていった。
「何より……日嗣の事を悪く言うと、こいつが黙っちゃいないからな?な?緑青?」
こちらを向いて悪そうな笑顔を向ける若草。僕も立ち上がり、口を開く。
「日嗣尊さんは、ドジで間抜けで、よく転んだり、人を翻弄させたりしてしまうけど、すごく優しくて、可愛くて、人の為にちょっと無茶するとこあるし、憎めなくて……」
ここ数ヶ月の日嗣姉さんの姿を思い起こすと自然と涙が溢れてきた。世間的には行方不明扱いだが、もう彼女には会えない。
「いつも僕の事を優しい眼差しで見つめてくれてて、僕の事をずっと気にかけて心配してくれていて、よく誉めて頭を撫でてくれたり」
近くに座る杉村が立ち上がり、僕のあやすように抱き締めてくれる。
「皆は恐らく日嗣姉さんの事を僕が助け出したと勘違いしているみたいだけど、違うんだ。あの時、山小屋で猟犬の群に襲われた時、血だらけになりながらも、僕の為に奮闘して、僕が目を覚ますまでの間、犬から僕を守ってくれていたんだ。最初別の部屋に居て、じっとしていれば、救助をその場で待っていれば無傷で助かったものを」
僕はクラスメイト全員に目を向ける。
「他人の為にボロボロになって血を流せる、そんな日嗣姉さんが理由無く、人を刺せる、そんなはずないんだ。でも世間では彼女は同じ学校の生徒を刺した傷害事件の犯人で、警察も動いている。下手したらマスコミも動くかも知れない」
恐らく、彼女の経歴上、取り立たされる気がする。そしてあの事件も一緒に掘り返されるだろう。主犯である北白直哉に無罪判決が言い渡されたあの生贄ゲーム事件が、人々の記憶から蘇る。どこまでそれが事件被害者(僕ら)に影響を及ぼすかは分からないけど、日嗣姉さんは恐らくそれも折り込み済みだろう。
全ては僕と彼女の為に。
だから僕は……。
「世間で言うところの彼女は悪人です。けど、僕は何があっても彼女の味方です。彼女が人を刺した事実は消えない。けど、けれど!僕はそんな彼女を否定する様な事は出来ません。ずっと、この先も、日嗣さんは、僕の大好きな日嗣姉さんです!」
僕の掠れた叫びがクラスに響き、静まり返る。息を飲み戸惑う38人のクラスメイト達。心理部員達は目に涙を浮かべて頷いてくれている。この気持ちは届かないのかも知れない。彼女は善良な生徒を刺した加害者なのだから。
1人の生徒がこちらを見ながら、拍手を送ってくれた。つぶらな瞳の川岸詩織さんだ。それにつられるように次々と拍手が巻き起こる。
「みんな……ありがとう」
しばらく、拍手の海がやまない中、学年代表である田宮が口を開く。
「安心して、石竹君。少なくとも私は日嗣さんの味方よ?多分、あの生徒会長のことよ、変な事を日嗣さんにしようとして返り討ちにあったのよ。そうに違いないわ」
クスクスと何人かの生徒が小さく笑い声をあげている。
そして、仕切るようにランカスター先生がハンカチで目の端の涙を拭いながら僕らに声をかける。
「そうね……大丈夫よ。今は彼女は行方知れずだけど、また帰ってきたら優しく迎え入れてあげましょうよ。何年かかってもね」
頷く生徒達に僕は再び頭を下げる。
そこに丁度、前の扉を開いて誰かが姿を現す。
「し、失礼します」
少し訛のある言葉に反応して、生徒の1人が声を上げた。
「お、お父さん?!」
涙を拭いてよく見てみると、声を上げたのはクラスメイトの川岸詩織さんで、その言葉の先には、天野樹理さんと正規の八ツ森タクシーの制服に身を包んだ中年のおじさんが居た。ちなみに杉村おじさんはほとんど非正規の私服だった。
「おっ、詩織。きちんと授業受けてるか?」
川岸詩織さんが、キョロキョロと周りを伺いながら顔を赤くし「どうしてお父さんと、天野さんが一緒に登校してるのよ!?」と質問する。少し間があった後、俯いていた天野樹理さんが代わりに説明する。
「ちょっと私用で川岸さんのお父様にはお付き合い頂いていたの。荒川先生は多分、警察と病院に寄ってから出勤するわ。そして、学校サボってごめんなさい」
天野樹理さんが、教壇に立っていたランカスター先生に頭を下げるのと同時に、川岸さんも頭を下げる。その必要性は無いのだと思うけど。
「すんません。私の方からもこの通りです。樹理ちゃんを許してやって貰えないでしょうか。紅髪の綺麗な先生」
ランカスター先生が腕を組みながら樹理さんを見下ろしていたが、かけていた縁無眼鏡を外すと、運転手の川岸さんに言葉を返す。
「荒川教員からは聞いています。八ツ森タクシーを利用して朝登校させる事は。ただ、もうお昼です。天野さん、正直に答えてね?」
樹理さんが頬をひきつらせながら顔を上げる。
「このおじさんに市内を連れ回された訳では無いのよね?」
ランカスター先生に反論したのは、その娘の詩織さんだった。
「ちょっ!父はそんなことする人間じゃありません!天野さんは幼い容姿ですが、父は若草君の様なロリコンでも無いですし、真っ当な人間です!どちらかと言うとランカスター先生の様な巨乳さん好きです!」
ランカスター先生が詩織さんの方を見て謝罪しつつ、運転手の川岸さんに視線を移す。その視線が自分の大きな胸元に向いている事に納得したランカスター先生は優しく樹理さんを抱き締めて迎えいれた。
「川岸さん、うちの生徒がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。それにこちらまでわざわざ足をお運び頂いてありがとうございます。天野さんはこのようにしっかりとこちらで保護させてもらいました」
「んや、いいんですよ!それより羨ましかですね。娘の詩織はこんなべっぴんさんに授業を教えて頂いているとは光栄ですたい」
川岸詩織さんが「もうっ」と呆れた声を上げるとクラスが笑いに包まれた。ランカスター先生に抱き締められている樹理さんが苦しそうにしながら、僕の方に視線を向けてくる。なんだろう?
川岸さんのお父さんが軽く娘と会話を交わしたあと、僕らの方にも声をかける。
「緑青君、元気出しなさいね。好きな女の子が事件に巻き込まれて苦しいだろうけど、きちんとご飯は食べんね。これ、樹理ちゃんと儂からの差し入れだよ」
両手に握られていた白い袋をこちらに向けて掲げる。樹理さんが顔を赤くさせながら教壇から僕に声をかける。
「緑青、君が日嗣さんを好きなのは分かってるから、教室内で叫ばないの」
「さっきの授業内容聞いてたんですか!?」
「聞こえてきたのよ。とにかく川岸さんにぽかぽか亭のデラックス弁当買って貰ったから、よく味わって食べなさいよ」
「あ、ありがとうございます」
僕の事をずっと抱き締めてくれていた杉村が何かに気付いたように声をあげる。
「あっ!この前のおじさん!」
「おぉ。ハニーちゃん。元気かい?」
「うん。元気だよ?脱臼もほとんど治ってきたし」
そういえば、退行した杉村とレストランに行って、若草と遭遇し、そのまま商店街に向かい、そこから杉村の家に送り届けてくれたあの運転手さんだ。
「そりゃ良かった。家はまだ修理中かい?」
「うん。二階は吹き飛んだまま。もうすぐ工事は終わりそうだけど、しばらくはろっくんのお家にお世話になるの」
「そうかい。誠一さんの部屋が吹き飛んじまった事は本人に伝えてあるが、特に気にして無かったよ」
杉村がほっと息をつく。
「青ちゃんと深緋ちゃんも誠一さんが不在の今、ハニーちゃんを一つよろしく頼んます」
川岸さんが頭を下げると前の席で立っている二人も会釈する。
「まぁ、誠一さんの事だから、娘に何かあったら脱走してでも駆けつけそうだけどね」
杉村が呆れ気味にため息をつく。
「うん。パパなら多分、どんな牢獄もブレイクしちゃいそう。けど、これ以上罪を重ねない為に大人しくしとく様に釘を刺しとかないとね」
「違いねぇ」
ランカスター先生が手を叩き、授業を仕切り直す。
「さっ、もうお昼ね。話も逸れちゃったし、この続きはまた今度にしましょうか。天野さんは席に着いて、立ちっぱなしの心理部4人は着席して下さい」
お昼を知らせる鐘の音が構内に響きわたる。天野さんがお弁当が入った袋を両手にこちらにやってくると、その一つを僕の席に置いてくれた。
「はい、これ」
「ありがとうございます」
「いいのよ。どうせ、食欲無くてお弁当すら用意して無かったでしょ?」
「ハハッ、当たりです」
肩にかけたトートバッグからヨハンも顔を出して元気そうに吠える。僕がヨハンの頭を撫でてやると嬉しそうに手をペロペロと舐めてきた。ふと天野さんの顔が僕の耳元に近づいてきて、僕だけに聞こえる声で囁きかけてくる。
「(君にだけは伝えておくわ。多分、それを日嗣尊は望んではいないだろうけど)」
「樹理さん?」
その言葉につい顔を向けてしまい、顔がくっつきそうになる。そのまま僕の事を正面から抱き締め、囁く。
「(第一ゲームで私を開放した少年は間違いなく生徒会長の二川亮よ)」
僕の鼓動が自然と速くなる。
「そんな、まさか。アリバイ的にそれだけは無いと日嗣姉さんからはよくよく釘を刺されていたんですが」
樹理さんが僕の目をのぞき込みながら小声で話す。
「(恐らく、君を危険な目に合わせ無い為の嘘よ)」
「嘘?」
「(だから、彼には気をつけて?)」
樹理さんがそっと僕から体を離す。二川亮先輩があの事件の犯人の1人?だから日嗣姉さんが彼を刺した?僕は顔を青くさせながら、椅子の背もたれに体重を預ける。日嗣姉さんのこれまでの行動と数々の事件が頭の中で繋がっていく。
奴こそ、悪者だ。
僕の魂の奥で何かが熱を帯びていく。
奴が白き救世主。
いや、待てよ。
あの現場に居合わせた時、既に二川亮は刺された後だった。僕が遭遇したあの白い法衣の人物は誰なんだ?
そいつが、そいつが恐らく……もう1人の共犯者?
お昼休み、僕は無理矢理お弁当を口に詰め込まれた。天野樹理さんの手にする箸で食物が搬送されていくその光景を、杉村はずっと妬ましく眺め続けていた訳だけど。(石竹緑青)