紫煙の少女
佐藤深緋に殴られ、赤く腫れた頬を抑えながら僕は空席になっている天野樹理さんの席を見つめる。荒川先生と行動を共にしてるのかな?
「お嬢ちゃん、いや、天野樹理さん、まだ次に行くかい?」
私は無論首を縦に振る。
そろそろ学校は始まっている時間帯だ。
二件ほど大きな病院を回って無料タクシーの運転手である川岸さんの伝手を利用して、入院患者の情報を知り合いの医社や看護師さん達から情報を得ていた。個人情報とまではいかないものの、ホテルで腹を刺された男子高校生ともなるとその情報の巡りは早いはずだ。二件目のここにもその情報は流れ込んでは居なかった。もしかしたら既に学校側が情報規制を引いているのかも知れない。
9時半を過ぎ、病院の面会可能時間になる。二件目まではなんの手がかりも無し。市内の大きい病院はあと三件。そのうちのどれかにきっと刺された男の子は居る。
「川岸さん、何か情報は入った?」
病院の売店で買ったサンドイッチをタクシーの前で頬張る運転手の川岸さん。私の脇に抱えられたトートバッグから老犬ヨハンが顔を出してくる。食いしん坊。
「うぉっ、君にはあげないからねぇ。ほれ、嬢ちゃんの分だ」
特にお腹は空いてないけど、おにぎり一つ食べたぐらいだから玉子サンドぐらは食べられそう。牛乳と一緒にそれを受け取ると、私もその横に並んでサンドイッチを頬張る。
「コーヒーの方が良かったかい?」
「ううん、コーヒーは苦くて嫌い。ミルクでいい」
歯を見せて笑う運転手さんが私に背中を向けて食後の煙草を一本吸い出す。昔、父が吸っていた煙草の匂いを思い出して少し感傷的になってしまう。32歳だった父も11年経った今では43歳になっているはずだ。母は2歳年下だったから41歳か。
「ん?嬢ちゃん?煙草は嫌いだったかい?」
私は首を横に振る。
「ちょっと煙が眼に染みただけ。一本くれる?」
驚きながら私の顔をのぞき込む川岸さん。
「嬢ちゃんも吸うのかい!?ダメだよ!未成年は!」
喫煙者では無いけど、静夢お姉ちゃんが退院祝いに特別に吸わせて貰った。いつも静夢お姉ちゃんが吸っているのは確か「ARK」という青色の箱に入った煙草だ。川岸さんの銘柄も同じ銘柄の色違いの奴だ。
「おじさん、合法よ、合法」
川岸さんが頭を叩いて、失礼したという様な表情でARKの箱から一本、少しだけ顔を出させるとそのまま私の近くまで差し出してくれた。それを左手の指にはさみ、口にくわえると川岸さんが素早くライターを取り出し、火を点けてくれる。息を軽く吸い込み、火を灯すとゆらゆらと紫煙が辺りに漂う。そのまま肺に深くその煙を吸い込み、口元から煙草を離すと上を向いてゆっくりと息を吐き出す。静夢お姉ちゃんがよくやる癖を真似てみた。見た目は小学生でも肺自体は成人のそれらしく、悪影響は少なそうだ。
「これで嬢ちゃんとも煙草仲間だ」
「そうね」
細い煙草の煙が手元から天上に向かって絶えず流れていく。その光景を眺めながらもう一度を煙を大きく吸い込んだ。落ち着きを取り戻した私の心に伴い、少しずつだけど頭にかかっていた靄が消えつつある。
「嬢ちゃん、本当にあの天野樹理ちゃんなのかい?」
私はそれに深く頷く事でその答えとする。
「おじさんもあの時はびっくりしたよ。その当時はまだサラリーマンだったけど、テレビのニュースを見た時は信じられなかったよ」
私は、八ツ森市連続少女殺害事件、通称「生贄ゲーム事件」の最初の被害者であり、その事件が世に明るみになるまでは「小三女児無差別殺傷事件」の加害者でもあった。当時の私の凶行をリアルタイムで見ていた大人達にとっては忘れたくても忘れられないセンセーショナルな事件として心に刻み込まれているはずだ。
「私は40人もの人をナイフで切りつけ、8人もの尊い命を奪った多重殺人者」
「そっちの事を言いたいんじゃないよ」
私は煙草を口元から離すと、首を傾げて川岸さんの方を見つめる。
「嬢ちゃんは、あの北白事件の被害者、生贄ゲーム事件の最初の被害者だ。それにしては元気そうに見える」
私はクスリと笑い声を上げながら明後日の方向を見上げる。
「そう、見えるかしら。そう、見えるのだとしたら……それは1人の男の子と女の子のおかげね」
私を精神科閉鎖病棟保護室から連れ出し、前に進む勇気を与えてくれたのは他でも無いあの優しい眼差しの男の子のおかげ。
「フフッ、言っても信じてくれないかも知れないけど、事件からずっと精神病棟に閉じこめられていた私を無理矢理外に連れ出してくれたのは記憶喪失の男の子と、金髪の女の子なの」
タクシー運転手の川岸さんが手持ちの携帯灰皿に吸殻を放り込むと顎をさすりながら眼を細める。
「記憶がか……それに金髪の女の子……その子の事知ってるかも知れん」
「知り合い?」
「いや、八ツ森で記憶喪失の男の子って言ったら、石竹さん家の子だろ?」
以外と彼はこの街で有名らしい。
「そして金髪のお嬢さんって言ったら……」
川岸さんが車の中から小さなアルバムを取り出し、写真を一枚見せてくれる。そこには紺色の制服姿をした杉村蜂蜜が照れくさそうに中年男性と並び、大勢のタクシー運転手さん達と笑顔で写っていた。
「彼女の事も有名なのね」
「ハハッ……名乗れば嬢ちゃんも有名人だと思うけどね。この金髪の女の子は今年の春に日本に越してきた杉村さん家の娘さんでね。少し照れ屋さんだが、いい子だよ。ずっと英国に居たらしいが、こんなに美人さんになって、さぞ誠一さんも鼻が高いだろうね」
「誠一さんって?」
「あぁ、君を助け出してくれた金髪のお嬢さんの父親だよ。ほれ、この子の隣に居る人さ。我々にとっちゃ家族みたいなもんだよ」
そういえばあの事件の犯人は蜂蜜のお父さんに殺されたと聞いた。
「写真の蜂蜜のお父さんはどうしてらっしゃるの?」
溜息を吐きながらその眼に炎が宿った様な気がした。手にする煙草の箱がその形を歪めていく。
「君をあんなめに合わせた犯人に復讐し、今は留置所で裁判待ちだよ」
「そう……」
「嬢ちゃんに聞きたい、君の人生を滅茶苦茶にした犯人が目の前に現れたらどうする?」
11年前に見た犯人の北白直哉の顔を思い出す。何かにひどく怯え、縋るように私達を生贄に捧げた男。死んでしまった今は話す機会ももう無い。奴がキッカケを作った。……私が里宮翔子という女の子を殺すキッカケを。でも、実際に彼女にとどめを刺したのは私。数秒違いの差だけど、私がやらなければ北白自身が翔子おねぇちゃんを斬り殺してた。そして、私も翔子お姉ちゃんに鎖を首に巻かれて殺されていた。
「……分からないわ。私も他人の人生を滅茶苦茶にした側の1人だから」
私があの時、手元にあったナイフで翔子お姉ちゃんの心臓を刺し貫いて居なかったら、私はここに存在していない。けど、私に刺され重軽傷を負った32人と出血多量で亡くなった8人は何事も無く次の日を迎える事が出来ていた。私はあそこで死ぬべきだったのかも知れない。1人の命の重さと8人の命の重さでは比べ物にならない。私は間違えたのかも知れない。事件被害者だからという理由で人を殺していい理由にはならない。狂気に飲まれた私は32人もの人間にトラウマをつくり、そして8人殺した殺人鬼。邪が鬼を笑う資格は無い。
「儂は誠一さんに味方するよ。もし、目の前にあいつが現れたら儂も犯人を殺してやる。法で裁けないなら、儂等が手を下す。あの男の性で緑青君や蜂蜜ちゃんは人生を台無しにされたんだ。佐藤さん家もそうだ。だから、誠一さんは儂等八ツ森に住む人間の代弁者なんだよ」
人生をあいつに台無しにされた。確かにそうかも知れない。私の歩むはずだった人生は病院暮らしにすり替わった。友達と遊ぶ時間や、何かを色々と学ぶべき時期を私は何もない真っ白な部屋で過ごした。けど、けど、違う。うまく説明出来ないけど、何か違う気がする。意味の無かった人生とは到底思えない。
「うまく言えないけど、やったらやり返される。その連鎖を私達はどこで断ち切ればいいの?」
私の質問に眼を丸くするおじさん。
「君は憎くないのかい?君を山小屋に閉じこめ、監禁し、殺し合いをさせた犯人に!」
「憎いわ。目の前に現れて、再び私に危害を加えようとするなら間違いなく、躊躇無く、ひと思いに、殺す。いや、生かす生かさないギリギリのラインで徹底的に苦痛を味あわせるのもいいかも知れない。けどね……」
短くなった煙草を吸い切るとおじさんの手持ちの灰皿にそれを捨てる。
「私を救い出してくれた子達や、静夢お姉ちゃんはそんな事望んでない。私が今より前に進めるように道を切り開いてくれた。私は、過去にとらわれ下を向くよりも、未来を見つめてその先に進みたい。私の時計はずっとあの時のままだった。今、やっと私の中の時計は時を刻み始めてるの。そんな気がする」
上を向き、最後の煙を空に向かって吐ききる。紫煙が立ち上り、揺らぎ、風に消えていく。
「……未来……そうかも知れないね。儂等八ツ森の人間はあの時から前を向いていないのかも知れないねぇ。1人の女の子の存在を消したその日から」
おじさんの顔が悲しみに歪む。秋頃に日嗣尊さんが私の前に教えてくれた。第四ゲーム被害者の女の子。佐藤浅緋。彼女は1人の男の子の日常を守る為にその痕跡を完全に八ツ森から消されている。
「理不尽よね」
「?」
「加害者よりも被害者の方が重い罪悪感を抱えて生きていかなければならないなんて」
おじさんが優しい眼差しで私の頭を軽く叩いてくれる。
「君は聡明で優しい子だね。将来が楽しみだよ」
「年齢的にはもう将来とやらに到達してるのだけどね」
「違いねぇ」
私達はクスクスと笑い合う。私は思いだした様に制服から生徒手帳を取り出すと静夢お姉ちゃんと撮ったプリクラを差し出す。
「ん?」
「私、友達とシール交換してみたかったの」
おじさんが嬉しそうに歯を見せて笑いながら、蜂蜜とそのお父さん、そして八ツ森タクシー運転手さんが勢ぞろいした記念写真と交換してくれる。
「いいのかい?蜂蜜ちゃん以外はおっさんだらけの汚い写真だぞ?」
「えぇ。気にしないわ。その分、蜂蜜の可愛さが際だっているし」
「手厳しいねぇ」
再び笑い合う私達。ふとその手元を見るとアルバムに最近どこかで見た様な顔を見かける。丁度、私と同じ八ッ森高校の制服も着ているし。どこで見たんだっけ?
「川岸おじさん、その写真の子は?」
「んや?あぁ、娘の詩織だよ。川岸詩織」
「んー……あっ、確かクラスにそんな子が居たかも」
「お?本当かい?娘のクラスメイトとはつくづく縁があるねぇ。青磁ちゃんや、緑青君、蜂蜜ちゃんに加え、お嬢ちゃんも2年B組だとわね」
ぼんやりと川岸詩織さんの輪郭を思い出すと、どことなく目の前に居るタクシーの運転手さんに似ている様な気がした。優しいそうな素朴な目元とかも。残念ながらまだそんなに仲良しでは無い。まさかその父親と先に仲良くなるとは思わなかったけど。そんな彼女の事を思い出しながら、川岸さんがくれた写真を生徒手帳に仕舞おうとする。今度は私の手元を見て、何かに気付いた様に首を傾げる。
「それはタロットカードかい?」
私は生徒手帳に挟まっていたタロットカードを引き抜くとおじさんに見せてあげた。それは「死」のカード。日嗣尊が面会時に私にくれたもの。ちょっと不吉な気がするけど、死神の絵が描かれたカードは私に相応しい気がする。
「その柄に似たカード、どこかで見たことがあるなぁ」
「そう?」
「昔どこかで見たような。どこだったかなぁ、まぁいいか」
「?」
「それより樹理ちゃん、市内の病院巡りは続行するかい?」
私は迷い無く頷く。
「えぇ。何か嫌な予感がするの」
「おしっ、乗りな」
私は体を反転させると開いた後部座席の扉から体を滑らせる。ヨハンを少し扉にぶつけて、鳴き声があがる。ごめんなさいね。運転席に乗り込み、ハンドルを握る川岸さん携帯から調子の外れた昭和曲な着信音が流れる。
「おっ、噂をすれば娘からだ」
車のエンジンを入れる前に電話に出る川岸さん。
「ん?どうした?」
電話口から女の子の声が微かに漏れ出している。
「何?刺されたのは生徒会長の男の子で、刺した相手は日嗣尊ちゃん?いやいや、何かの間違いだろ?あの娘はそんな事するはず……え?指名手配?警察がもう動いてるだって?」
ホテルで刺されたのは生徒会長で、刺したのは日嗣尊?昨日、私達と別れた後に2人は会っていたの?私の背中に悪寒が走り、私の体内から警鐘が鳴り響く。
それじゃあ緑青は、尊を追いかけた先で、生徒会長と仲良くする尊を目撃してしまったのかも知れない。なんとも残酷な巡り合わせだ。会えず仕舞いという可能性も捨てきれないけど。おぼろげに、先日心理部に顔を出した長身の男の子の姿を思い浮かべる。痴情のもつれだろうか?いや、そんな関係にまでなっていなかったはず。デート初日にホテルに向かうのはちょっと彼女の人物像からは想像つかない。いや、私の感覚が古いだけで今の子はそんな貞操感が当たり前なのだろうか。って、尊も一つ下なだけで、同世代だ。そんなに簡単に男に体を許すだろうか。違和感が拭いきれない。それに彼女が本当に好きなのは緑青のはず。電話口で川岸さんがそのまま娘さんと話している。
「そうだ、その男の子が運ばれた病院分かるかい?え?友達が変わりたいって?」
電話口の向こうで聞き覚えのある声が携帯から聞こえてくる。私も携帯を持っているだけじゃなくて使いこなさないとね。カップラーメン食べる時のタイマーぐらいにしか使用していない。個人で電話を持つ習慣なんて無かったし。アドレス帳にはまだ静姉しか名前ないし。
「(あっ!こんにちわ!詩織ちゃんのパパさんですね!はじめまして。私、クラスメイトの江ノ木カナって言います!)」
川岸さんが笑顔になる。
「こりゃあどうも。いつも詩織さお世話になっとります」
「(いやぁ~、私右手を怪我してて、助けられとるのは私の方ですたいよ。あ、刺された男の子の入院先が知りたいんですよね?)」
川岸さんがこちらを向いて深く頷く。
「あぁ。知っとるんかい?」
「(はいっ!彼は今、私達のクラスメイト、木田沙彩ちゃんも入院している熊谷病院に搬送されたそうですよ?)」
川岸さんが電話で話しながら素早く車のナビにその名前を打ち込んで行く。
「おぉ、ありがとうな。そいじゃ」
「(はい。あっ、なんでまたそんな事をお聞きになったんですか?)」
少し困った様な顔をして私の方を見てくる。
「いや、ちょっと可愛いお嬢ちゃんに頼まれてねぇ。八ッ森高校の生徒の誰かが刺されたから、見舞いに行きたいとね」
「(そう……ですか)」
気を使って名前を伏せてくれたのは助かる。どっちみち怒られるとは思うけど。
「じゃあね、ちょっとお客さん待たせてるから切るよ?娘に宜しくね」
「(あ、はい!それでは……樹理たんに石竹君は元気に登校してるから心配しないでって伝えといてあげて下さいっ)」
「あいよー。樹理ちゃんには私からそう伝えとくよ」
川岸さんがほっと一息ついて電話を切る。私はじとりと川岸さんを睨みつける。
「おっ?どうしたんだい?」
「……ムスッ(`^´)←(私)」
「あっ!ごめん!すまないね!お嬢ちゃん!つい口を滑らせて」
どちらにしろばれる事だから仕方ないけど、時々、江ノ木さんって子は天才的に勘が鋭いので困惑してしまう。私が登校して無いってだけでよく分かったものだ。粗方、私が八ッ森タクシーに乗って登校する事を静姉から聞いて、私宛に残したメモの内容を知れば、私が緑青か誰かを心配して病院に顔を出そうとしている事を推測は出来るか。目的地、熊谷病院には生徒会長と、まだ名前しか知らないクラスメイトの木田沙彩という女生徒が入院しているらしい。
どちらにしろ、日嗣尊の件で私はその生徒会長に何があったかを聞いておきたい。彼女は狂気に支配されていた私の下に震えながらも訪れた。そして事件の事を緑青と同じ様に詳しく聞きたがった。自分のトラウマがフラッシュバックと共に蘇るのに耐えながら。そこまでして情報収集を行なっていたその先にそいつを刺して身を隠したという事は何かしらの意味があるに違いない。
日嗣尊、彼女は私の恩人でもある。
私が「小3女児無差別殺傷事件」の犯人として世間から見られていた風潮を、独自の着眼点と推理、その美貌とカリスマ性を持って迷宮入りしそうだった「八ッ森市連続少女殺害事件」を深い闇の底、深淵から掬いだしてくれた。貴女のおかげで世間からは殺人鬼では無く、事件被害者として見られるようになった。私の起こした事件の性で両親や親族への迫害は苛烈を極め、八ッ森市を出ざるを得なかった。半分は変わり果て、両親すら殺そうとした私の性だけど。尊が居なければ私の家族はもっとひどい目に合わされていたと思う。だから、今度は私が貴女の誤解を解く番。
私は信じてる。
貴女は意味も無く誰かを刺す様な女の子では無い事を。そして誰より君は大好きな男の子の幸せだけを考えていたから。
逃げて、逃げて、逃げ延びて。
無事で生きてさえいてくればそれでいい。
今度は私の番だ。
貴女の意思は私が勝手に引き継ぐわ……。
え?天野樹理さんが二川先輩の入院先を探している?なんでまた?
確かに江ノ木は電話口でそう言っていた。(石竹)




