英語の授業は別れの予感?
深淵の少女を迎えた教室で僕等は授業を受ける。そして訪れる別れの予感?
天野樹理と愛犬のヨハンに席を奪われた僕は一つ繰り下がって、廊下側ニ列目、最後尾の席でその日最後になる授業を受けている。担当の先生は英語科の小川先生だ。今日も赤いフレームメガネが男なのに似合っている。ちなみにアメリカと日本のハーフで、顔立ちも良く、女生徒からも人気は高い。英文を翻訳する箇所で、天野樹理さんが呻きながら問題を解いている。
「な、何これ?ローマ字とは違うの?ヘレ イトス デセムビア アンド クリストマス イス コミング?」
二十歳とはいえ、ずっと保護室で暮らしていた彼女にとって学校で受ける授業は久しぶりで、彼女の最終学歴は小学三年生だからだ。国語や社会などは保護室に定期的に本を搬入していたそうなので十分理解出来るのだが、英語、数学が少し苦手の様だ。体育は体力面では脆弱だが、それを補ってありあまる反射神経で何とか高成績を収めている。髪も短くなって動きやすくなったらしい。天野の横に座る杉村もといロリ村が、得意げに英訳を教えている。
「樹理ちゃんこれはねHere it's December and Christmas is coming.って発音するの。訳はもう12月だしクリスマスも近いねって意味」
「え?あんた賢いわね?さっきまで私と同じぐらい授業で苦しんでたのに」
「うん。英語は得意なの。でも樹理ちゃんも国語、得意で驚いちゃった。最後に授業を受けたの小学校でしょ?」
杉村は英国人で、天野さんは日本人だからね。
「まぁね。保護室で他にやること無かったし、本は定期的に搬入して貰ってたからね」
「ところで、12月、クリスマスは後ろの席の彼と夜を過ごすの?」
杉村が顔を赤くして首を横に振る。
「ううん!?違うよ?日本の人達は恋人の聖夜だとか言ってるけど、キリスト教圏内の人は大抵家族と一緒に過ごすの」
「ならいいじゃない。いずれは家族になるんでしょ?」
杉村が更に顔を赤くして天野樹理さんを引き寄せる。その怪力に驚きながら杉村の顔の近くまで耳を引き寄せられる。
「ダメなの。まだ私達は未成年で婚約出来ないの。それにクリスマスイヴはこの学校の行事で文化祭だし」
「あら?親がOK出したら確か認められたはずよね?」
「え?そうなの?」
杉村が僕の方に振り返る。僕の代わりに膝の上に乗っかる老犬ヨハンが嬉しそうに「ワッフ!」と吠える。僕と目線が合うと慌てて天野さんに視線を戻す。
「ダメなの。ろっくんのお父さんと私のパパは刑務所だし、ろっくんのママは亡くなっちゃったし、私のママは政治家で体裁を気にして、きっと変な資産家のおぼっちゃんとお見合いを迫られるに決まってるの」
「あらあら。色々とややこしいのね。でも、そんな悠長な事してていいのかしら?」
「??」
今度は天野樹理さんが振り返り、僕のを方を見つめてくる。深淵の様に深い色合いをした大きな瞳に吸い込まれそうになる。
「私が彼を略奪しちゃうわよ?」
え?天野樹理さんが優しく微笑み、こちらに手を伸ばして膝の上に座るヨハンの頭を撫でる。
「ね?ヨハン?あなたも彼の事が気に入ったのよね?」
「ワッフ!」
元気良くヨハンもそれに答える。
「ちょ、樹理さん?冗談はやめて下さいよ!」
樹里さんの視線がヨハンから僕に向く。顔が少し近いので照れる。
「あら、本気よ。半分ね」
何故か天野さんの顔も少し赤い。そんな僕も顔を赤くしてあたふたしていると、終業を知らせるチャイムが鳴る。
授業をしていた小川先生が、授業道具を仕舞うとともに口を開く。
「平和だねぇ。この二年A組は色々あったけど、なんだかんだでこうして上手くまとまってくれている。杉村さんもこうして授業を受け、新しく転入してきた天野さんも、必死に授業に追いつこうとがんばってくれている。先生嬉しいよ、ハッピーだ」
天野さんの視線が教壇の方を向く。小川先生の言葉に多くの者が賛同する中、若草だけが反論する。
「違うだろ?このクラスだけはだろ?」
両手を上げて、お手上げのポーズをとりながら答える。
「そうだね。そうだったね。今も何人かの生徒が行方不明になり、木田さんは昏睡状態、小室さんはその事件のショックで不登校。江ノ木さんの右手の怪我もまだ完治していない」
江ノ木が照れ臭そうに自分の右腕を隠すように手で撫でる。
「あぁ。それに夏休み、石竹や日嗣を襲った男もお前たちNephilimは探し出せずに居る」
「あぁ。君に返す言葉が無いよ。こちらでも全力で探しているんだけどね、なかなか尻尾を掴めずに居る」
んん?佐藤が立ち上がり、小川先生に詰め寄る。
「その男と行方不明になった生徒ととの関連性は何か掴めましたか?」
「いや、まだ分かっていない。警察でも進展無しだろ?」
「はい。警察では手掛かりも掴めてません。指紋は採取出来たみたいなんですが、警察の登録データに該当する人物が居なくて」
他の生徒達が目を丸くして驚いた顔をしている。
杉村が目を輝かせながら首をきょろきょろさせている。
「Nephilim?義姉ちゃんの部隊だ!」
小川先生が何でその部隊の情報を握ってるんだ?僕は我慢できずにそれに質問する。
「ど、どういう事ですか?なんで小川先生がその情報を?」
「こういう事さ」
いつの間にか小川先生の手には教科書の代わりに銀色のごつい銃が握られていた。生徒達が突然姿を現した銃に軽い悲鳴をあげる。それに対して天野さんが僕を庇う様に立ち上がり、杉村が腿に装着している隠しナイフを左手で小川先生に向かって躊躇無く投げつける。その刃は小川先生の銃を掠め、背後の黒板に突き刺さる。
「ろっくん、この先生、強い。頭を狙ったのに避けられた」
「あんた何?妙な真似するとここで殺すわよ?」
天野さんの深淵にも似た黒い狂気が教室を包み込む。
「おっと、撃つ気は無いよ」
小川先生がマガジンをその場に落として銃を教壇の上に置く。
「ボクが言いたいのは、変な奴がこの学校に現れたらいつでもこの引き金を引く覚悟は出来ているという事さ。君達を守るために命を懸ける」
確か、ランカスター先生も銃保持者で、英国の軍事組織に従属していた気がする。表だっては分からないが、内々で校内の警備は強化されているのか?
「なんで若草と佐藤は小川先生が八ツ森の特殊部隊に所属している事を知ってたんですか?」
小川先生が銃を仕舞いながらそれに答えてくれる。
「そうか、君は気を失っていたね。夏休み、君と日嗣さんが山小屋で行方不明になった時、僕らは杉村誠一さんに救出された君達を安全な所まで運ぶのに援護させて貰ったんだ。その時、佐藤さんや若草君も君達を守る為に頑張ってくれていたんだよ。野犬から君達を守る為にね」
そうだったのか。確か、杉村も義姉さんと自宅で再会した時も夏休み以来だと言っていたな。
「いつからNephilimに?いや、いつから学校の教師として潜伏しているんですか?」
小川先生が振り返る様に目を閉じる。
「最初、八ツ森に来たのは傭兵を辞めた杉村誠一さんを自分の軍隊に引き込む為の交渉に来ていた」
杉村が「パパだ!」と嬉しそうにはしゃぐ。
「けど、何年経っても彼は折れなくて。で、何もせずにここに居るのも勿体ないから元々教員免許は持っていたし、ここで先生として働く事にしたんだ。もう6年になるかな?まぁ色々あって逆にボクが八ツ森の特殊部隊にスカウトされちゃった訳だけどね」
「そうだったんですか……その節はお世話になりました」
「いいよ。君と日嗣さんの為ならボクらは頑張れるからね」
その言葉は恐らくあのゲームの被害者である事を指している。
「それに、杉村さんの義姉さんからも彼女を監視するようにと命令を受けているからね」
あの義姉さん。相当なツンデレ屋さんらしい。特殊部隊の人員を1人裂いてまで杉村の護衛につけるとは。
「もういいかい?とにかく君達に何かあった場合、ボクらは命がけで守る覚悟は出来ているよ。だから安心してほしい」
その言葉にクラス全体から拍手が巻き起こる。行方不明になっていく軍部の連中に、内心生徒達は不安を感じていた。木田や江ノ木の件もある。次は自分が何かしらの被害に合うのじゃないかと。自分から首を突っ込んでる僕らは置いといて。
「君達も何か不審な点があったら気兼ねなく先生に相談してほしい」
そうだよな。確かに英国の令嬢を護衛もつけずに日本に送り出すなんて普通は考えられないよな。日本は平和な国とは言え、護衛が無ければとっくに連れ戻されていたかも知れない。いや、その方が杉村にとって幸せだったのかも知れない。杉村の方を見ると楽しそうに着席していた。そんな杉村を僕は少なからず危険に晒そうとしている。これ以上は彼女を巻き込めないかも知れない。それに、この先、僕がやろうとしている事に杉村が関わる必要は本当は無いかも知れない。それは僕の問題だからだ。
「小川先生……杉村を……ハニーちゃんを英国で保護して貰う事は出来ますか?」
杉村が意図が分からず、困惑した顔を僕に向ける。
小川先生が少し間を置いて慎重に答えてくれる。
「それは構わない。むしろ、いつでも英国へ護送する手筈は整えてあるはずだ。彼女が人質になる可能性もゼロでは無いからね」
「そうですか。どれぐらいで手配出来ますか?」
「大事な彼女だろ?そんな事を君の意志だけで決めて良いかどうかは分からないけど、緊急事態で無い限り護送ポイントへの警護手配などもあるから、6日はかかる」
「わかりました。お願い出来ますか?」
杉村が立ち上がり、左手で僕の袖を掴む。しきりに足下に居るヨハンが忙しなく吠え立てている。
「ろっくん?なんで?なんでそんな事言うの?私も、私はここでろっくんとずっと一緒に居たいの!ろっくんもそうでしょ?!」
僕と同じ緑青色の瞳から大粒の涙がポロポロと溢れ出す。
「僕は……僕は違う」
杉村がその場に泣き崩れ、顔を伏せる。ヨハンが杉村の元に駆け寄り、しきりに涙を舐めとってあげている。
「ろっくんが、そう言うなら、私は……でも、私はろっくんと居たいの」
小川先生が携帯を取り出して、電話を入れる。
「サリア隊長、ハミルトンです」
「(こんな時間にプライベートの番号にかけてくるなんて何の用だ?こっちは別件で忙しいんだ)」
「すいません。サリア隊長の義妹さんの事で話が……」
「(ハニーの事か?どうした?)」
「英国への帰還手配を望まれているのですが」
「(帰国?勝手に英国を飛び出したあいつが、帰りたいと?彼氏にでもフラれたか?)」
「いえ、彼女のフィアンセの申し出でありまして」
「(そうか……。多分、妹の身の安否を心配してだろう。妹の周りには明らかに意図的な作用が働いて事件が数多く起きている気がする。そうするのが得策だろう。もっと早くにそうするべきだとは思っていたがな。了解した。5日で手配は出来ると思う。追って連絡する)」
「はい。申し訳ありません」
「(お前が気にする事ではない。あと、そのフィアンセには礼を言っておいてくれ。お前の判断は間違っていないと)」
「Yes ser」
携帯を閉じ、こちらを向く小川先生。
「五日後には手配出来るそうだ。手配出来次第、連絡を入れるよ。君の家で良かったかい?」
「はい。大丈夫です。お手数おかけします」
天野さんが杉村をあやす様に席につかせる。僕もそれにならって席につく。ヨハンが戸惑うように僕と杉村を交互に見上げているが、天野さんがヨハン抱き抱えて自分の机に座らせる。
「いい子ね。大丈夫よ、これは彼らの問題だから。私達が口を出していい問題じゃないの」
教室の前扉の方から大きな咳払いが聞こえて、荒川先生がその姿を現す。
「静夢お姉ちゃん!」
天野さんの表情が一際輝いた。
「えっと、英語の授業は終わりでいいんだよな?」
小川先生が軽く会釈をして、教室から立ち去る。荒川先生が代わりに教壇に立つと嬉しそうにヨハンが荒川先生の元に走っていく。老犬ヨハンは、天野樹理さんが閉鎖病棟に入院している間、ずっと荒川先生が面倒を見ていたので第二のご主人様なのだとか。
「よしよし、あとでドッグフードやるからな」
教室で犬を飼うなど前代未聞だが、年老いたヨハンと天野さんを少しでも長く居させてあげたいとの配慮だろう。
「ん?ナイフ?」
黒板に突き刺さるナイフに怯える荒川先生。
「杉村はあとでナイフを回収するように」
「……はい」
元気の無い杉村に違和感を感じる荒川先生だが、それに構わずに終礼が始まった。杉村の事は巻き込みたくない。これで、これで良かったんだと思う。僕の手から切り札とも言えるカードが次々とこぼれていく。日嗣姉さんに杉村蜂蜜。でもこれでいい。なるべくこの先に起きる出来事にその場に居てほしくないのも事実だから。全ては犯人と……彼女の為に。これはあの生贄ゲームの勝者が担う業なのだから。
終礼が終わると、日嗣姉さんとアウラ留咲さん、鳩羽を引き連れたランカスター先生が僕らの教室前で待機している。何事だろう。
「静夢教員、ちょっとこっちに」
ランカスター先生に呼ばれて教室を出ようとする荒川先生。ランカスター先生が教室内に顔を覗かせると、心理部である僕らも残る様に指示する。その中に江ノ木や天野樹理さんも含まれている。
「荒川教員、天野樹理さん歓迎パーティーを心理部で開くわよっ!」
そういうのが好きなランカスター先生。目を誰よりも輝かせている。
「そうか、で、経費は誰持ちだ?」
「もちろん、領収書後で回すからお願いね?」
可愛く荒川先生にウィンクするランカスター先生。いや、可愛くは無理があるか。それにしてもちゃっかりしている赤髪の心理士だ。
これで、これでいいんだと思う。