深淵からの浮上
ーー怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵を覗き込む時、その深淵もこちらを見つめているのだ。(フリードリッヒ・ニーチェ)『ツァラトゥストラはかく語りき』より引用
ーー遠くから私の名前を呼ぶ声がする。
闇の奥底にいる私の体は鉛の様に重く、浮上する事は難しい。
私の姿を必死に探している。
ずっと会いたかった人がそこに居る。
私にその資格があるのだろうか。
私は人では無い怪物だ。
畏怖し、人々はそう呼ぶ「深淵の少女」と。(天野樹理)『幼馴染と隠しナイフ』
八ツ森市連続少女殺害事件の最初の被害者、事件当時から今日までずっと保護室に入れられていた天野樹理さんを荒川先生と会わせる為にここまでやってきた。けど、肝心の本人が病院の通路、受付フロアーを前にしてその姿を消してしまった。
消えた天野樹理さんを必死に探し出そうと汗を流す僕と杉村と荒川先生。
「天野樹理さーんっ!!」
「樹理ちゃーんどこーっ?!」
「意識があるなら返事してくれ、樹理ちゃん!」
人が通路から捌けていくに従い、見通しが良くなっていくが、何人かの人間はその場から動けずになっている。
「ろっくん……」
杉村が僕の側でへたりこむ。脱臼した右腕を支えながら苦しそうにしている。顔色も悪いようだ。
「気持ちが悪いの。立ってられない」
「疲労か?いや……それとも」
「赤ちゃん出来たかも」
「ごめん、全く心当たりは無いからね」
荒川先生の視線が痛い。誤解です。
「想像妊娠?」
とりあえず通路の脇に杉村の体を横たえて安静にさせる。荒川先生はそのまま辺りを見渡して天野樹理さんを探し続けている。
「(あのーっ……)」
遠慮がちな声と共に受付テーブルの向こう側から看護師さんに声をかけられる。
「(その子、多分、妊娠では無くて脱臼の性で気分が優れないんだと思います。脱臼時に現れる症状の一つです。あまり動かさないように腕を固定してあげて、そのまま安静にしていて下さい。すぐに担架用意しまーす。あとここに……)」
僕は体を杉村に向けたまま受付の看護師さんに返事をする。
「脱臼……わかりました。ハニーちゃん、もうすぐ担架が来るからじっとしててね」
「コウノトリさん、もっと頑張って!既成事実が……うぅ、肩痛い」
改めて周りを見渡すと、通路には杉村の銃声で腰を抜かした人や、転んで捻挫した人達が動けずにその場でじっとしている。特に天野樹理を追いかけてきた職員達へのダメージはありそうだ。幸いな事に流血事件にまでは発展していなさそうだけど。その中の一人に、あの海原教授の姿もあってお腹を押さえながら立ち上がる。目はずっと僕の事を睨みつけている。
「フフフッ、報いだよ。バケモノの最期にしてはあっけない。残念だったな。お前達の我が儘もここまでだ。どうせ天野樹理もこの人波に押しつぶされては只ではすまないだろう。この始末をどうつけるつもりだ?」
人集りを掻き分けながらこちらに話しかけてくる海原教授。ここまでの騒ぎにしてしまった僕に責任はあるので弁明するつもりはない。
「そうですね。杉村が怪我したのも、天野樹理さんが人波に飲まれてしまったのも、関係無い人を巻き込んだのも僕の所為です。けど、天野さんをバケモノ呼ばわりだけはしないで下さい」
「クハハッ、何を言う!人が人を殺した時点でそいつはもう人間じゃない。ならなんと呼ぶ?人を殺して人の道を外れた外道を貴様はなんと呼ぶのだ。怪物以外無いだろう!」
その問いに答える事が出来ずに、奥歯を噛みしめる。杉村も僕を守る為に立ち上がろうとするが、それを僕は優しく引き留める。それは僕も同じ怪物だからだ。それより今は杉村の様態が心配だ。汗が額から滲みだしている。夏休みの時、猟銃で背中を撃たれた時よりは症状は軽いと思うけど。続け様に海原教授が大きな口を開く。
「あぁ、そういえば貴様も同類だったな。お前も自分が生き残りたいが為に小さな女の子を絞め殺した殺人……」
通路に足音を響かせながら声が響きわたる。
「ルール違反だ、よっ!!」
振り向き様に頬を打ち抜かれた海原教授は半回転しながら地面に叩きつけられる。口の端から血を滲ませ体勢を立て直すと、自分の頬を打ち抜いた人物を睨み上げる。
「な、なんだお前は!?」
見上げた海原教授の白衣の襟首を更に両手で掴みあげ、その巨体を華奢な体で持ち上げた人物は我らが担任、荒川静夢だ。
「おっさんこそ誰だ?!」
権威に揺らぐことなく真っ直ぐに海原教授を睨みつける荒川先生。
「私はこの病院の精神神経課の教授……海」
「あっそ。私はこいつらの先生だっ!」
足を大きく開き、体勢を変え、そのまま背負い投げを決めてしまう荒川先生。大きな衝撃と共に地面が揺れ、背中を打ち付けた海原教授は息が出来ずに喘いでいる。意識はあるので結構しぶとい。「YAMARA」読んでて良かったと荒川先生が呟きながら服装を正す。そして、少し怯えた様に僕の目を見つめながら確認をとる。
「石竹、その、なんだ……。今の男が言っていた事は気にするな。お前は殺人者なんかじゃない。もちろん、天野樹理ちゃんもだ。裁判の結果有罪をくらった訳でも無いだろ?今の日本に9歳の女の子を殺人者として裁くような法律は無い。だから、このおっさんがおかしいんだ。だから……」
僕は首を傾げて、耳に手をあてて聞こえないフリをする。一瞬首を傾げる荒川先生だが思い出した様に表情が明るくなる。
「あぁ、そうか。ほとんど聞こえてないんだったな。若草に聞いたが、お前は唇が読めるらしいな。複雑な会話だと分からないよな……そうか」
荒川先生が気を取り直して、再び人と人との間に天野樹理が倒れ込んでいないか探しだす。そんな僕らの背中から再び僕らを呼び止める声が聞こえてくる。
「(あの、そこの金髪の女の子用にもうすぐ担架が到着します。あと……)」
僕は杉村の近くで先ほどと同じ様に体勢をそのままにして後ろを振り向いたままお礼を言う。杉村の様態は良し。
「ありがとうございます!助かります!」
「(いえ、それより……あの)」
杉村が何か思いあたる節があるのか難しい顔をして口をへの字にしている('へ')。
「ろっくん、樹理ちゃんはいつ居なくなったの?」
「えっ?樹理さんを肩車してたら急に消えたんだ。バランスを崩したみたいで……」
「すぐに探した?」
「うん。すぐに後ろを振り向いて床に転がってないか探した。けど、人の流れがすごくて」
「上は?」
「上?」
「うん。あの密度の人が押し寄せて来ていたのなら、肩車されている状態で体勢を崩しても下に落ちずに、後列から押し寄せてきた人の上に乗っかっちゃう。体の軽い樹理ちゃんなら尚更ね」
「へっ?」
「私もろっくんの居た場所に辿り着く為、人の肩と通路の壁を利用してここまで飛び移って移動してきたの」
そうか。だから杉村がこちらに移動してきた時に小さな悲鳴がいくつも聞こえてきていたのか。
「(あのーっ!おーいっ!少年少女達よっ!)」
さっきから受付の看護師さんがうるさい。声を多少あらげながらそちらに振り向く。
「もう、なんなんですかっ!?」
「探し者ってこれじゃないですかね?よっこいしょ」
受付のお姉さんが、深淵(受付台裏側)から何かを引っ張り上げると、広い机の上に緑のワンピースのスカート部が広がり、黒髪の小さな女の子がその上にちょこんと座る。
「「「あっ」」」
荒川先生と僕と杉村が一斉に声を上げる。
「……あっ!('◻︎')」
机の上に正座していた天野樹理さんが慌てて受付台の裏に戻ろうとするのを受付のお姉さんが衣服の背中を掴んで持ち上げ、隠れるのを阻止する。その姿はまるでいたずらを見つかった子猫の様だ。宙ぶらりんになった天野樹理さんがゆっくりと半回転してこちらに顔を向ける。
「よかった!無事だったんですね!」
顔を真っ赤にしながら僕に返事する天野さん。
「まぁ……ね。おかげさまで」
杉村が天野樹理の姿を確認する為に体勢を起こそうとするが、僕はそれを止めさせて再び床に寝かせる。
「ろっくん、近くに荒川先生は居る?」
「あぁ、居るよ。僕らの任務は完了だ」
「良かった……あとは宜しくね?」
その直後、杉村は気を失い寝息を立て始める。相当疲れていたようだ。殺人蜂さんが現れると相当体力を消耗するらしい。脱臼のショックもあるようだしね。しばらくして、やって来た担架で運ばれていく杉村。関係無いけどノーブラだけど大丈夫かな。担架で運ばれていく時に女性のお医者さんをとりあえず指名しておいて事なきを得る。この病院では多くの優秀な女医を抱えている事でも有名なので大丈夫だろう。男性医が対応した場合、ロリ村の状態ならまだ大丈夫だが、殺人蜂さんや働き蜂さんが表に出てきたら多分、医者を殺しかねない。
「とりあえずお疲れさま、ハニー」
僕の声に寝ながら反応して脱臼していない方の手を軽く上げる杉村。僕の肩に手を置いて、顔をこちらに向ける荒川先生。僕が唇の動きを追えるようにゆっくりとお発音してくれる。本当は必要無いけど。
「お前も自分の手を見て見ろ?あと、そこで大人しくしてろよ?」
右手を改めて見てみると包帯が巻かれた右手に血が再び滲み出していた。痛みもそれに伴いやってくる。僕も外科に行かないとな。荒川先生には頷いてそれの答えとする。
荒川先生が僕から受付机に座る天野樹理さんへと視線を移すとその一歩を踏み出した。僕はそれを見届けると、近くに転がっていた杉村の銀色のマグナムリボルバーを回収する。ホイールには空の薬莢が装填されているだけのようだ。足を引きずりながら受付前に並ぶ椅子の一つに腰かけて一息つく。僕らの出番はとりあえず一旦ここで終わりだ。あとは天野樹理さんと荒川先生に託す事にする。
近くでは相変わらず小さな赤いブラウン管テレビが誰も見ていない刑事ドラマを垂れ流していた。これでいい。これで良かったんだと僕は思う。少しやりすぎたかも知れないけど、こんな役割ははみ出し者の僕らにしか出来ない。少しフラつく頭で二人の背中を見守る。もう大丈夫だ。天野樹理さんが誰かを傷つける事は無い。僕はそう確信している。なんせ生贄ゲームの最後の勝者は「僕」だと決まったんだから。敗者となり、このゲームから弾かれた天野樹理はもうその呪縛からは解き放たれている。僕だけがその業を背負う。それがたった一つの冴えたやり方だ。天野さんの話ではゲームの勝者だと思っていた日嗣姉さんは実は敗者だったしね。それにしても今日は少し疲れた。杉村も待たないといけないし、ここで一眠りしていこうかな……指の怪我はまぁなんとかなるだろ。
*
11年も前の事になる。
私が大学から帰って来ると母から近所に住む女の子が一時的に山で行方不明になっていたのだと聞かされた。私は嫌な予感がして母に詰め寄りその子の名前を問い質す。その予感は的中していた。
毎朝顔を合わす犬の散歩が大好きな女の子。時々話もする。私はその子が無事保護されたと聞いて胸を撫で下ろすが、母がテレビを指差して私に視聴を促す。
ブラウン管テレビの大きなモニターには緊急特番が流れていて、そこに「八ツ森小3女児無差別殺傷事件」と掲げられていた。
レポーターが見慣れた風景の前に立ち、現場には「KEEP OUT」と書かれた黄色いテープが張り巡らされ、誰も侵入出来ないようにされていた。私が母に、この事件に樹理ちゃんが巻き込まれたのかと問い正すと苦い顔をして首を縦に振って肯定した。
今でも母の侮蔑する様な声で放たれた「その女の子が加害者よ」という言葉が忘れられない。私は目を疑った。次の画面に切り替わった際に天野樹理ちゃんの顔写真とその名前が犯人として公開されていたのだ。
報道によると山で行方不明になった天野樹理ちゃんを探しだす為に捜索隊が派遣されたが、日暮れと共に捜索活動は一時的に休止。その隊員が下山する少し前に天野樹理ちゃんは1人で山を降りてきたのだという。
無事保護され、本来ならそこで話は終わるはずだった。彼女は下山したその足で、麓の町の人達に対して次々と手にしていたナイフで計40人もの人間に傷を負わせ、内8人をその傷が原因で死亡させている。
彼女の口からは繰り返し「私は生贄では無い」という言葉が繰り返され、精神異常及び薬物使用、もしくは投与の疑いがかけられ9歳の女の子を緊急逮捕するという前代未聞の事件が起きた。何度も何度もメディアや精神学者、児童教育のお偉いさん達が討論を繰り返していたが何の進展も無かった。
しばらくして里宮翔子という女の子も同じ山で行方不明になったと報じられていたが、その事を気に留める人間はほとんど居なかったと思う。
私は天野樹理ちゃんが霧島大学附属病院に入院したと家族の方から聞いてすぐに会いに行った。
私はそこで変わり果てた彼女を目の当たりにする。全身をベッドに固定された彼女が夜も眠らずにずっとクスクスと笑い続けていたからだ。私はその狂気に怖気づいて、その時は面会すらせずにその場を立ち去った。この子は樹理ちゃんじゃ無い。入れ替わった別人か誰かなのだと。それから私はその事を忘れようとする為に勉学に打ち込み、公務員への道が開けようとしていた頃、近所に住んでいた天野さん一家がマスコミの風評被害に合い、町を出て行く事を余儀なくされていた。私は樹里ちゃんの様子が気になって親御さんを訪ねるが、首元に包帯を巻いて痛々しい姿をしていた。八ツ森の人間にやられたのかと聞いたら、樹理ちゃん本人に傷を負わされたと聞いて更に戦慄した。時間が彼女を元に戻してくれるとばかり思っていた。最初に会いに行ったその日から1年ぐらいは経っていたが全く状況は変わって居ないらしい。面会に来た人達やマスコミ、担当医、看護師、全ての人間を隙あらば殺そうと機会を伺っているというのだ。
私はこの町を去ろうとする一家に無理を言って飼っていた犬を預からせて貰う。必ず樹理さんと一緒に連れ戻す約束を交わして。
毎朝犬を楽しそうに散歩させる彼女の姿が、その時もまだ脳裏から離れていなかったからだ。世間では彼女の事を、悪魔に取り憑かれた少女、人殺しの妖精や、深い闇の底から這い出たバケモノなど散々な言われようだった。私はあの子に近所のかわいい女の子に戻ってほしくて二回目の面会を申し込んだ。
その時の面会ではベッドに固定されては居なかったが、鉄格子越しでの会話になった。犬の話を持ちかけると、少し目に光が戻ったようにその時は見えた。私は看護師の人に無理を言って扉を開けてもらった。
私と向かい合った樹理ちゃんは虚ろな表情で自分は人殺しなのだと訴え、その道を外れた私はもう私と会う資格も無いのだと。当然、会いたいはずの犬のヨハンにも。
私とその場に居た看護師さんは安心していた。他の人に対しては、生贄では無いなどと繰り返し呟いていただけだったからだ。
私は嬉しさと悲しさが混じり合い、ここから彼女を救い出してあげられる喜びで彼女を正面から抱き締めた。
とんだ思い上がりだった。
違和感と痛みに同時に気付いた時には彼女の手にはハサミが握られていて、私の腰の肉がこ削がれていた。私がここで諦めたらこの子は一生ここから出られないような気がして、私は懲りずに何回も彼女と面会を続けた。自分の身が削られるのを分かっていながら。
更に一、二年ほど過ぎた頃だったかな。
時々、脈略の無い単語を口にしていた樹理ちゃんの言葉から初めて具体的な人名を口にしたのだ。里宮翔子お姉ちゃんと。
私はその名前を樹理ちゃんの「八ツ森小3女児無差別殺傷事件」が発生した前後で聞いた覚えがあった。過去の新聞を読み漁り、私は事件発生後の新聞である記事を見つける。捜索依頼の名前の欄に樹理ちゃんが言っていた「里宮翔子」の名前があったからだ。行方が分からなくなった日時も、丁度天野樹理ちゃんが姿を消した時間帯の一致していた。
私と面会していた時に、何の意味も無いと思われていた単語が全て繋がった様な気がした。
山小屋、男の影、一つのナイフ、繋がれた鎖、手首、生贄、ゲーム……殺し合い。
彼女はずっと自分が生贄では無い事を主張し続け、他者を傷付けようとしていた。
私はすぐに警察に出向き、樹理ちゃんの事件の見直しを要求した。その時には既に、あの事件は9歳の異常な女の子が引き起こした過去の事件として片付けられようとしていた。私は公務員試験勉強の傍ら、諦めずに何度も警察に訴えたり、署名活動に力を入れていた。
そんな中、2人の女の子が同じ森で行方不明になる。里宮翔子ちゃんの件もあったので警察内部で再捜査の動きが出てきたと思われた矢先、更にある女の子が麓で気を失って倒れている所を発見された。
日嗣尊だ。
病院ですぐに精密検査が行われたが特に外傷は見られなかった。すっかりその髪の毛が白く変色してしまった以外は。
小学四年生だった日嗣尊は入院中一言も言葉を話さなかったらしい。退院後、しっかりとした足取りで自ら警察に出向き、山小屋で起きた事を一つも余す事なく警察に話すとその場で倒れたらしいが。なんともあいつらしい。
日嗣尊にも精神鑑定が行われようとしたが、本人は断固拒否を貫いたらしい。
自らの姉の生き様をしっかりとその目に焼き付けた日嗣にとってそれを疑われるのは耐えられなかったらしい。
あいつには感謝している。
あいつが生きて生還したからこそ、警察は再捜査を行い、樹理ちゃんが犯人とされた無差別殺傷事件は名前とその内容を変えて「八ツ森市連続少女殺害事件」と冠されたのだからな。天野樹理ちゃんが世間から加害者では無く被害者であった事が明らかになった瞬間だ。同時に自分の無力さを思い知らされたのもあるが。
樹理ちゃんの時とは違い、世間は日嗣尊の事を悲劇のヒロインとしてもてはやした。自分達の間違いをまるで誤魔化す様に。
目を引く銀髪に、悪く無い容姿が相まって、当時、アイドル並みの知名度を誇る様になった。本人は必死に犯人逮捕を主張していたが、色々な方面から彼女は取り立てられて一躍時の人にまでなった。7年も前の事だが。
事件が発生した場所がほとんど同じ区域なのですぐ犯人も捕まるかと思われていたが、意外にも犯人像のプロファイルリングが難航し足取りが掴めずに居た。一般開放されてはいたが八ツ森の四方を氏に持つ北白家の私有地が現場だと推測されていたのだが、相手が強大な財を持つ権力者だったので捜査に踏み切るまで2年以上の月日を要する。
大人がそうやってモタモタしている間に石竹と杉村、そして、佐藤の妹が犠牲になった。恐らく、あのタイミングで杉村誠一さんに北白直哉が捕まって無かったとしたら……第五、第六の被害者は更に増えいた。現に、北白直哉が更生施設を出た際、再犯に及んでいる。私の生徒を巻き添いにしてまで。
犯人に4件目の犯行を行わせた隙を自分達で作ってしまったというその事実に八ツ森市の住人全ての人が衝撃を受けた。自分達が取り返しのつかないことをしでかしてしまったと。
犯人に繋がる手掛かりを十分に目の前にしながらも、それを防ぐ事が出来なかった。他人事の様に馬鹿騒ぎしていた一般市民も、祭り事の様に取り立てたメデイアも、終わりの無い討論を繰り返す評論家も、樹理ちゃんを殺人犯に取り立てた警察も……。
八ツ森は、石竹達の事件を境に、いや、佐藤の妹の変わり果てた姿を目の当たりにしたあの時、八ツ森は生まれ変わったんだよ。
八ツ森の人間が石竹に事件の事をなんの報酬も無く沈黙し続けて来たのは他でも無い、自分達の性で1人の女の子の命を奪ってしまったと直感的にそう感じていたからだ。
だから、生き残った男の子だけでも救おうとした。自分達の罪滅ぼしの為に、その女の子の生涯の記録を抹消する事を良しとして。
多分、あの事件で一番辛かったのは……佐藤一家だと思う。殺された我が娘の墓参りにさえ顔を出せないんだからな。
そして私は許さない。
私に怒られると思って、怯えながら下を向いている犬の散歩が大好きな近所の女の子。
この子の事をバケモノ扱いした八ツ森の人間の事を。
最後に会った6年前と比べて、少し大人びて見える彼女の佇まいを感じ、胸にこみ上げてくるものがある。いや、まだ泣かない。なんの為にこうして教師になったんだ。その全てを無駄にするつもりか?樹理ちゃんが顔を赤くしながら、私の事を見上げる。そこに6年前の狂気に満ちた彼女の姿は無かった。睡眠不足の性か、目の下の隈は相変わらずだが、その目に光は再び宿り、私のよく知る近所の女の子に戻っていた。この11年、短くは無かった。けど、決して無駄では無かったと私は思っている。ただ、それだけの時間が必要だったのだと思いたい。石竹、杉村、礼を言う。
「あのね、静夢お姉ちゃん……」
樹理ちゃんが私の顔を見上げている。
「私ね、ずっとお姉ちゃんに会いたかったんだ。でもね、私は会う資格なんて無いと思ってた」
樹理ちゃんの手が私の腕を左手で掴む。
「本当は今もそう思ってる。私は多くの人に傷を負わせ、何人もの人の命を奪った」
怪我をしているのか弱々しく右手を私の左腕にそっと触れさせる。
「私は怪物……だから生きる資格を得る為に人を殺そうとしてきた。けど、あの子達に出会って思ったの。この子達は殺したくないって。最初、私は生贄ゲームで生き残った者同士、決着を付けるつもりだった。あの子を殺して私はあのゲーム呪縛から解き放たれる事を望んだの」
樹理ちゃんが私の胸に顔を埋める。
「でも出来なかった。だって、あの子達、殺そうとしてる私を必死に生かそうしてくれた。訳わかんなかったけど、滅茶苦茶だったけど、こんな私に手を差し伸べて、傷だらけになりながら私の手を掴んで無理矢理闇の淵に居た私をお構いなしに引っ張り上げてくれたの。だから、私、今、此処に居るの」
樹理ちゃんが下を向きながら苦しそうに泣き出す。
「私にその資格はもう無いのは分かっているけど……私は大勢の人を傷付け、里宮翔子ちゃんの心臓を貫いて殺した殺人鬼。こんな……こんな私でも生きる事を望んでいいですか?もう一度外に出て幸せになる事を望んでいいですか?」
私は数年ぶりに彼女に話し掛ける。
「君は殺人鬼なんかじゃない。犬の散歩が大好きな近所の普通の女の子だ。だから望んでいい!何も気にするな。私は、私だけは樹理ちゃんの味方だ。……少し時間はかかってしまったけど……私も誰より会いたかった。おかえり、樹理ちゃん!」
「ただいまっ!!」
私達はしばらく抱き合い、本当の意味での再会を果たした。杉村、石竹、私の砕けなかった壁を壊してくれてありがとう。これで私達は前に進めるよ。




