深淵姫と教授
僕の肩には深淵姫。対峙するはこの精神科の教授。けもみーみーたちーだけー♩
「頭上に全弾発射!てぇーーーーーーーーっ!!」
僕がそう叫ぶと、間髪入れず後方から爆音が鳴り響き、中央病棟の天井に銃弾が炸裂していく。銃声に驚いた天野樹理が、慌てて僕の背中に回って身を乗り出し後方を確認している。僕は止まり木じゃないんだけどな。小さな天野樹里さんだと後方から押し寄せてくる人波に飲み込まれたら最後、探し出せる自信が無い。このまま止まり木役を続投してようか。
「金髪の子、本当に撃ったの?!」
壁材が弾け、大通路の出口で僕らを逃すまいと道を塞ぐ海原教授の頭にその破片が降り注ぐ。顔を片手で庇いながら此方を睨みつける精神神経科海原要一。冬なのに日焼けした肌が黒々光っている。雪焼けか?金の指輪やネックレス、身なりを見てもいい暮らしをしているのが見て取れる。天野樹理はよっぽど教授に顔を合わせていないのか、目の前の教授を気にも止めない。
「またお前か!こんな事をして只ですむとは思うなよ。若僧」
「ハハッ、すいません。彼女がずっとこのまま死ぬまで此処に閉じ込められていそうな気がしたんで、連れだそうかと思いまして」
天野樹理は後方で飛び交う悲鳴に反応し、僕の背中から後ろの状況の行く末を見守っている。重心が傾き、長い黒髪が僕の背中にかかる。海原教授は僕を睨みつけ、背中に居る天野樹理への警戒を解かない。
「その娘を連れ出すつもりか?」
「そうです。彼女に会わせたい人間がこの先に居るんです」
「何とも手前勝手な理由だな。その娘は異常だよ。まともでは無い。健常者と共に暮らせると思うのか?そんな奴を一般人に会わせるなど言語道断だ」
「まともでは無い僕が17年間も八ツ森で暮らせています。樹理さんの方がよっぽど健全です」
「馬鹿が!閉鎖病棟で世間から隔離されて暮らすのがその子の為だ。ここでみすみす許可無く逃したともなれば私の責任問題だ。お前達を天野樹理誘拐犯として起訴すればいいだけの事だがな」
「……僕は知ってる。保護室がどんな所かを。僕はたまたま優しい人達に手を差し伸べて貰ったけど、彼女には居なかった。だから今度は僕が手を差し伸ばす番だ!」
海原教授が通路の出口に横一列で並ぶ研修医達に、僕らを捕縛する様に手で合図を送る。
「ここから出たとしても人を殺したその娘と向き合う人間なぞおらんよ。その娘を置いていけ、その子はバケモノだ」
一歩力強く踏み込み、教授の目の前に間合いを詰める。
「この娘を解き放て!この子は人間だぞ!」
「だまれ若僧!お前にその娘の不幸が癒せるのか!八ツ森の連続事件の被害者、同年代の女の子を刺し殺した殺人鬼だぞ!?専門家でも無いお前にその子が救えるとでも!?」
「わからぬ、だが共に生きる事は出来るぅ……」
「……共に?貴様は何を言っているのだ?」
背後から天野樹理に頭突きされる。
「ファッファッファ、私(天野樹理)と共に世間と戦うというのか」
「違う、それでは憎しみを増やすだけだ」
「小僧……もうお前に出来ることは何もない。お前はじきにその額の傷に悔い殺される身だ。夕暮れと共にここを立ち去れ」
海原教授が背中越しに意味不明な会話を繰り広げる僕らに退く。それは人間の本能。未知への恐怖だ。
「何なんだお前等は、何を話している?!」
天野樹理が両手を僕の背中に置いて海原教授に顔が見える様に前のめりになる。
「人間は嫌いだ!けど、君は好き……フフッ、けもみみ姫の一場面よね?ちなみに君と同棲する気なんか無いからね?今は」
「ハハ……バレました?」
海原教授の顔が真っ赤になって片手を上げて僕を打とうとする。今度は杉村蜂蜜が近くに居ないので躊躇は無いようだ。
「どこまでフザケている!貴様はっ!」
手を振り下ろそうとしたタイミングで、天野樹理がさらに身を乗り出して海原教授の顔面に小さな顔を近づける。黒く長すぎる髪が僕の目の前に垂れ、ワンピースのスカートの中に僕の顔が埋もれる。これは色々不味くないか?布越しに天野樹理のどす黒い狂気の囁きが聞こえてくる。
「お前、覚えてるゾ?11年前に殺しそびれた私の生贄じゃなイカ」
海原教授の情けない悲鳴が聞こえてくる。
「や、やめろ、殺すな。私の心臓を切り取るな!殺すなっ!誰か!誰か早く!こいつを保護室に!!」
結局、この男は自分にとってやっかいな存在を隔離し、安全な位置に物理的に遠のけたに過ぎない。患者と向き合わない医者がどこにいる。あ、ここにいるか。天野樹理が元の背中の位置に戻ると僕の視界が開け、目の前に冷や汗を掻いて顔を青白くした海原教授が情けない格好で尻餅をついていた。
「ちょ、君!?私のスカートの中にいつのまに!油断も隙も無いわね。さすが盛りのついた男子高校生」
更なる杉村の銃撃音と共に再び悲鳴が飛び交う。雪崩の様に杉村蜂蜜から逃げようと大勢の人間が僕らの進行方向に向かって大挙して押し寄せてくる。ここは一本道。杉村が後方から銃を放てば杉村蜂蜜と反対の方向に人々は逃げてくるはず。銃を片手にした人間に立ち向かおうとする人間なんて普通は考えられない。この流れを利用する。背負っていた天野樹理を今度は肩車の体勢に持ってくる。
「ちょ、ちょっと!どういうつもり?また私の中に潜り込もうとしてるの?!」
顔を赤くしてジタバタと暴れ出す天野樹理。
「ちょ、暴れないで下さい!自分のパンツを履かせようとした人が今更何を言ってるんですか!?」
「あれは作戦よ、作戦!あぁすれば岩井さんは慌てて鍵を開けると思ったからよ!」
後ろから聞こえてくる喧噪が波紋の様に僕らのすぐ後ろまで広がってくる。逃げ惑う人々の口からは金髪の女や、銃、結構かわいい。などの単語が聞こえてくる。
「それなら、僕も作戦です。肩車をしたのは樹理さんが人波に潰されない為です」
「潰される?何を言って?」
忙しない足音と悲鳴と共に大きなうねりが通路から僕を押し出そうと飲み込んでくる。1人でダメなら2人。2人がダメなら100人だ……それがダメなら!この大きなうねりを利用して、僕はこの壁を超える。背中に大きな圧力を感じ、波の様に背中を押された僕は尻餅をついている海原教授にそのままぶつかりそうになる。慌てて海原教授が立ち上がると、僕の両肩から垂れ下がっている天野樹理の片足を掴もうと手を伸ばす。僕はその手には構わず、必死に背後から迫る人波の大きな力に天野樹理が巻き込まれない様に全神経を集中させている。巻き込まれたら最後、小さな体の天野さんは踏みつぶされてしまう。
「触れるな、このクソ野郎!」
天野樹理の毒のある叫びと共に足の裏で海原教授の鼻頭を蹴り抜く。
小さな悲鳴と共に海原教授が横に吹き飛び、荒れ狂う人の波に飲み込まれ、その姿を消す。
「危なかった。あいつにだけは触られたくない!」
目の前から教授がログアウトすると、僕を捕まえようとしていた海原教授の腰巾着(研修医)達も大きな人の流れに押されて、僕らから距離が離れていく。後方から杉村の悲しそうな声「(ろっくーん、どこー?はぐれちゃったよー(泣))」が聞こえてきた様な気がするが、驚異から生き延びようとする人達が生んだ強大な流れは止められない。けど、おかげで通路を抜け、受付ロビーまでたどり着く事が出来た。逃げ惑う人々の流れは誰にも止められず、次々と出口に人が群がり、出るに出られずどんどんと人の波は滞留し、膨張していく。不味いな。いつ怪我人が出てもおかしくない。やりすぎたか?
「君、大丈夫?」
肩車している天野樹理さんが上から声をかけてくれる。
「はい!けど、作戦失敗かもです。騒ぎを大きくしすぎて、荒川先生を見つけられません!もう外に避難してしまったかも知れませんし」
「ここに、この空間に静夢お姉ちゃんが居るのね?」
「わかりませんっ!こんな状況じゃ、どこに誰が居るかも!」
天野樹理さんが目を瞑り、鼻をヒクヒクさせている。
「緑青君。もういいよ、ここまでありがとう」
「ちょ!もうすぐなんです!きっと先生は僕らの事を待ってくれています!だからもう少し頑張ってくだ」
言葉を言い終わる前にさっきまで僕の両肩にかかっていた荷重が消え失せ、その温もりを残したまま気配が消える。僕は慌てて後ろを向いて、彼女の姿を探すが、どこにも見あたらない。道を戻ろうとするが人の流れは止まらず、どんどんと前方に流されていく。不味い、不味い、不味い。あんな華奢で小さな体だと、バランスを崩して落ちたらまず助からない!
必死に下を向いて探すが、どこにもその姿が見あたらない。
「クソッ!どこだ!樹理さん!!居たら返事をしてください!」
僕の叫びは喧噪に掻き消え、誰にも届かない……?
「ろっくんの声!!」
馴染みのある声がどこかから聞こえてくる。杉村の声だ。
蜂蜜の様な甘い香りが漂い、黄金の風が逃げまどう人々の間をすり抜けた様な気がした。小さな悲鳴があちこちから聞こえてくる。
「ろっくん!!見つけたぁ!!」
人の波に飲まれ、押しつぶされようとした瞬間、上を見上げると長い黄金の髪が揺れ、太陽の様な笑顔が頭上に輝いていた。杉村が銀色のマグナム銃のホイールをスライドさせ、空になった薬莢を排除し、素早くスピードローダーに連ねられた弾を装填する。杉村が入ってきた方の通路の入口には人が少なかったので、僕が壁際に置いた杉村の茶色いトランクケースを見つけられたらしい。そこに予備の弾装が何発か入っていたはずだ。リボルバーの弾数は6、7発で、装填にも時間はかかる。しかし、スピードローダーを使用すれば素早く装填も可能だ。その装填時間の早さが人々に押しつぶされようになった僕を救ってくれる。
杉村が天井に次々と弾を撃ち込んでいく。
豪快な発砲音と目映い閃光が人々に恐怖を与え、僕の回りから蜘蛛の子を散らした様に離れていく。杉村が此方側に来た事によって出口が二カ所になり、飽和状態が解放され、次々と人の密度が薄くなっていく。
「ろっくん?潰れてない?」
「うん。何とか」
手を床についている僕に包帯だらけの手を差し伸べてくれる杉村。包帯のあらゆる箇所からはマグナム銃を撃った大きな反動で血が再び滲み出している。
「ハニーちゃん!右腕!?」
左手を差し伸べた杉村の反対の手が力なく垂れ下がっている。
「ろっくんを守りながら片手で大口径の銃を撃ったから脱臼したみたい。少し痛いかも」
「ハニーちゃん、ごめん。また僕の性で傷ついて」
「いいよ。私はろっくんが生きてるなら何もいらないから」
杉村はその言葉とは裏腹に顔には冷や汗が滲み、苦しそうにしている。疲労と脱臼と切傷。ここまでよくやってくれた。ありがとう。結果はどうであれ……。
「天野樹理さんが居なくなったんだ。多分、人の流れに飲み込まれて……」
阿鼻叫喚の喧噪を切り裂く鋭い声が前方から通路に響きわたる。
『静かにしろーーーーーーーーっ!!』
その声は通路に堆積する人々全てに届き、その動きを止めさせる。
それはまるで、子供の頃、騒ぐ僕らを注意する為にあげられた先生の声だ。そこに居る人々の記憶の奥底でそれぞれの先生に怒られた記憶が脳内にフラッシュバックする。その記憶は僕らにとっては最近のもの。
「なんの騒ぎかと思えば……やっぱりお前等か。このトラブルメーカーども」
腰に手を当ててツカツカと通路を歩く足音と共に荒川静夢先生が呆れながらこちらに近づいてくる。
「全く、どんな事情かは知らないが、病院内で銃をぶっ放すやつがあるか」
荒川先生が立ち止まり人々の間をかき分けて僕らの前に到着する。
「ん?お前ら、ボロボロじゃないか……杉村に至っては包帯だらけで……脱臼しているのか?」
「ごめんね、先生。届けられなかった」
荒川先生が首を傾げる。
「届ける?そんな事より、早く外科に行け。幸いな事にここは病院だしな。なんでこんな事に」
「樹理ちゃんと先生を会わせたくて」
荒川先生が目を見開く。
「まさか……お前ら、この騒ぎは全部その為だけに起こしたものなのか?」
無言で悲しそうに頷く杉村。ロビーに堆積する人々の数は減ったが見渡しても天野樹理の姿は確認出来ない。
「先生、さっきまで僕の肩に乗っていたんですが、人の流れに飲み込まれて見失いました」
荒川先生が僕らから離れて通路に溢れている人間の間をかき掻き分けて天野樹理を探す。
「樹理!樹理ちゃんっ!どこだっ!」
徐々に堆積していた人間達が出入口から捌けていく。その間、ずっと荒川先生は天野樹理ちゃんを探し続けていた。
「頼む、頼むから無事でいてくれ!私は樹理ちゃんが生きてくれてればそれでいいんだ!」
乱暴に人を掻き分け、形振り構わず叫び続ける荒川先生。ぐずぐすしている人間にはパンチを放っている。全身の痛みに耐えながら僕と杉村はお互いに立ち上がってその名前を呼ぶ。
「樹理ちゃん!ここに居るなら返事をして!」
「ずっと、ずっと会いたかったんですよね!」
杉村が近づくと回りの人間はどんどんと後退りスペースを空けてくれるが、どこにもその姿は無かった。必死になって3人でその姿を探すがどこにも見あたらない。




